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「ラプンツェル、ラプンツェル……」
「――さん?大丈夫ですか?ミュート、外れてますが」
だが、俺は何も出来なかった。
長さ20エレンの、五線譜のようになめらかな黄金の髪を前にして、寂しさを紛らわせるために儚くも美しい歌を歌う少女が待っているというのに、王子たる俺は何も出来なかったのだ。
否、俺は王子などではなかった。
王の御殿では料理番の雑用で、たまに頂く暇に、御殿の中の壮麗な庭をその外からじっと眺めているだけの、少年だった。
ところが、今俺は王子としてここに立っていた。
右手には親にラップトップと一緒に買ってもらった安物のコードレスマウス。物が良く、数年間ずっと同じマウスを使っている。マウスの尻尾の付け根に奔るシックなデザインのロゴは、何十年も時が流れたような味わいに、掠れてしまった。
左手には、発表の原稿と、文献。これがあれば、無難に発表を終えられる。
それなのに、俺は軋む椅子にただ立ちすくんでいた。十年物の勉強机の凸凹の盤面から真っ直ぐ伸びた家の窓から垂れる金の梯子に、日に当たっていないまっ白なこの手すら伸びない。
「ちょっと、――さん?」
「ちょっと、あんた何をしているんだい?」
俺の硬直は、魔法使いの女の帰宅によって終わりを告げた。
そこから先を、覚えていない。
目の前のラップトップには、「今回の感想」と題した白紙のワードファイルがある。手元の資料の余白には、「――さんからの質問」と添えた吹き出しに、「初版との違い?」と書いてある。他にも、質疑応答の痕跡が見られるあたり、俺は仕事を終えたのだろうか。
「……何、書こう」
俺は、キーボードの上に置いた手でとりあえず名前と日付だけを書きなぐった。
何を書いたらいいだろう。
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