妄想アイデンティティー

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軽い調子で、まるでありえないとでも言いたいような口調だった。自分より下の人間を人間とも思っていないような声に頭が痛くなってくる。どうして声をかけてきたのだろう。 呆気なく東が「んなわけねえだろ。板書もらってたんだよ」と言った。 私への評価は「んなわけねえだろ」レベルだ。 わざわざこちらが理解していることばかりを指摘してくるこの男に心底がっかりする。別にナンパされたいわけでもないが、否定されたいわけでもない。 うんざりして適当に会話を切り上げようとすると、もう一度東の後ろに張り付いている男——山本(やまもと)拓哉(たくや)が声をあげた。 「汐見さんって字、やっぱ綺麗だよね」 思わず目をひん剥きそうになった。 まさかこのタイミングで字を褒められるとは思ってもいない。しかも私の字は別に綺麗じゃない。前に准くんが字の綺麗な人をタイプに挙げているのを見てから、即書店に行ってペン字のテキストを購入した。 ただそれだけで満足したから、あれが今どこにあるのかわからない。 高校の芸術選択で書道を選んだ時には担当教員に「アンタ字、本当に下手ねぇ」と言われた経験がある。あの日私を笑ったクラスメイトの顔が鮮明なまま記憶に冷凍保存されている。毎回自分の文字を見るたびに、あの日の記憶が自然解凍されているような気になった。 最悪のコンディションのまま悪臭を放っている。
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