妄想アイデンティティー

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「そうかな。ありがとう」 ありがとうなんて思ってもいない。 最高のトラウマを思い出させてくれて感謝してますほんと。 さっさと帰りたい。そもそもどうしてこの男はあたかも私の字を知っていて、前にも字が綺麗だと思ったような言い方をするのだろう。疑問に思うが、それを聞くのも気分が悪い。今すぐにこの話題から遠ざかりたい。 「ね、祐も思わねえ?」 「さあ」 面倒臭そうな顔をして呟いた。大げさに分かりやすい世辞をぶつけられるよりももっと簡単に最低の気分にさせてくれる言葉だ。 どうして傷つけられなければいけないのだろう。こちらはへらへらと害なく笑っているはずなのに、どうして無害な人間の柔らかい部分を簡単に切りつけたりするのだろう。 「じゃあ、見えないところあったらラインして? 私次あるから」 これ以上ここに立っているのは無理だ。そろそろ教授もこの講義室を出ようとしているところだし、出席票を前の席に提出しに行かなくてはならない。早口に呟いて、6枚分のそれを引っ掴んだ。全て私の筆跡だ。 東からの返事を待たずに歩き出した。そのまま紙を提出しようとして、後ろから肩を何かに掴まれる。 瞬時に「きゃ」と声が出た。可愛いものじゃない。中途半端に裏返った声が講義室に反響した。すでに人影もまばらになっていたから良かったものの、人前で上げたいような声ではない。
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