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工業高校の屋根の上から
俺の事、覚えてるかい?
今頃になってこんな手紙が届いたところで、何がどう変わるわけじゃないことはちゃんとわかってる。
自分でも唐突だと思うし女々しい奴だとお前は笑うかもしれないが、今更ながらに思うところがあったんだ、言っておくよ。
お前がまだ短大生のひよっ子で、俺が社会の底辺の駆け出し小僧だった頃、ナケナシの給料で買ったダブルソファがあっただろ?
いつも二人、肩を並べて窓の向こうの夕日を見てたよな。
田んぼの真ん中の安アパートの104号室さ。夕焼けに炙られながら確かめるようなキスをした。
あの頃は別れの日が来るなんてずっと遠い事だと思ってたよ。
そんな日が来ない事を当たり前のように願ってた。
台所の大きなゴキブリに悲鳴をあげて、お前が俺の胸に飛び込んで来た事あったよなぁ。いつもは強がっていて姉さん女房気取りだったお前がさ。
でもアノ瞬間だけは剥き出しの弱さで可愛くて愛おしかった。
あの晩のお前は妙に汐らしくってよかったなぁ。
ぺしゃんこの布団の中、裸のままで月明かりに照らされて先の事を語り合った。揺れるカーテンの向こうで未来は最高潮に輝いてた。
あの頃は何もかもが単純で美しかったよな。
最後の夜、恥知らずの青春のラストシーンまでは、素っ裸の心で突っ走っていけると信じていたさ。
思えばあの頃はお互い金なんか無かったし、要領も悪くてエグいほど無様だった。俺はギター、お前はピアノ。あとはボロボロの古いバイク。いつも二人きり、何をやるも一緒で隠し事なんて必要なかった。
横槍を入れるライバルたちを全部蹴とばした俺は、お前だけのヒーローだったし、お前の極上の乳房を俺だけの宝物に、世界とだってタメ張れるって頑なに信じていた。
本当にあの頃は、何もかもが単純で美しかったよな。
お前に棄てられた後は茫然自失の毎日だったよ。
あの事故も起こるべくして起こった事さ。
もっともその後のお前にはもう関係のない事件だったろうがね。
病院のベッドで点滴の雫を見上げながら考えたことはなんだったかなぁ。もう思い出せないなぁ。全開にしたアクセルが、俺を殴るように単車ごとガードレールに飛び込んで右腕をズタズタに壊しちまった。
使い物にならないという理由でバンドもあの工場もすぐにクビになっちまったよ。
あれからもう10年も経ったんだな。
俺は未だに要領よくなんてできないし、潔いほどに無様な大人になっちまった。
結局お前無しじゃ生きるのも不便で仕方がなかったさ。
それでも俺はちゃんと前を向いて歩いたよ。
懺悔と報恩の日々を真っすぐと、どこまでも愚直なまんまね。
お前の噂もチラホラと耳にはしていたが、もう一度やり直したいと思ったことは一辺たりともない。
こうやって全部が想い出に変わって色褪せていくんだ。
過去の栄光だけを後生大事に胸に抱いて生きるなんて俺にはできそうになかった。
もうあの時はかえらない。全部が記憶の向こう側だもんな。
ただ、青春のラスト、同じ場面の中にお前が居てくれた事を俺は感謝している。そしてお前の未来に何が起ころうとも、要らぬ手を貸さぬように心得ているつもりだ。
俺のことを忘れてしまったのならそれはそれでいい。
お互い会うことはないだろうから。
それでも俺はこの町でお前の幸福を静かに願うよ。
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