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第一章
今は乾ききり、礫砂の続く荒涼としたこの地も、唐の時代・貞観の治のこの頃は緑溢るる草原であった。奇岩の続くこの谷も木々に覆われ、水の流れも爽かに絶え間なく流れていた。 その流れを遡るように、二人の男はひたすら馬を走らせていた。
「――腹減った」
背の高い方の男が唐突に口を開いた。
「朝から休みなしだ。ちょっとここらで休まないか」
「何言ってるんだよ!」
もう一人――小柄な方が、振り返らずに叫んだ。
「この先、もうすぐそこだぜ。ささっと行って、用をすまそうぜ」
「だったら、お前一人で行け。俺はここで何か喰って、休んでる」
その言葉を聞くやいなや、小柄な男は振り向きざまにヒュッと匕首を彼に投げつけた。
が、彼は環首刀を抜くと、何事もなかったかのように慣れた手つきで匕首を弾き返した。カンと音を立てて弾き返された匕首は、糸でくくりつけられているかのように、まっすぐに小柄な男の方に戻ってきた。
小柄な男はチッと舌打ちをしながら、戻ってきた匕首を掴むと掌に収めた。
「バーカ、十年早えぜ」
大柄な男がそう嘲り笑うと、小柄な男はもう一度舌打ちをした。
「雪、てめえがなんと言おうと俺はここで……」
休むぞと言おうとしたとき、彼の動きがふっと止まった。
ほんの一時、目を閉じてじっとしたと思うと、次の瞬間には辺りを見渡して方向を見定めた。と同時に、馬に鞭を当てて河上に飛び出していった。
「兄貴!?」
小柄な男は慌ててその後を追った。
それはかれこれ半月ほど前のことだった。
「さて、お前たちなら“これ”をいくらと値踏みする?」
彼女はニヤリと笑うと、白い両掌で、水を掬うような、丸い形を作った。細く長い指先に付いた爪は丹念に磨かれ、南方由来の染料で綺麗に色づけられていた。
そしてその声は、低く、氷のように透き通り、人の心に突き刺さるように響いた。
漆黒の瞳と髪を持つこの女性は、この西域では知らないものはいない、名の通った盗賊団の親玉でもあった。
本名は誰も知らない。
ただ、その鮮やかな身のこなしから、“女狐”とだけ呼ばれていた。
白玉のように滑らかな肌と、すっとした目鼻立ちは、彼女が漢族の血ものであることを物語っていた。漢地との境である陽関と玉門関。その先に広がるこの西域では、珍しい顔立ちではあるが、見かけないわけではなかった。
先頃、唐に征服された高昌は、長いこと漢族の麹氏が支配していたし、この西域で唐と勢力を拮抗する突厥内部にも多くの漢人がいて、その居住区もあちらこちらにあった。ここ数年、漢地からの往来も増えており、主要な城市に行けばごく自然に漢語が耳に入ってきていた。
彼女は、その言葉遣いや立ち居振る舞いから、内地から流れてきた者のように思えた。しかし、西域の事情に精通し、胡語をスラスラと話す様は、生粋の西域育ちであるようにも見えた。
年の頃も、外見は多く見積もっても三十路は行かないように見えるが、彼女の名が西域に知れ渡った時期を考えると、見てくれとどうにも合わない。
氷のようなその美貌のうちに、全てを包み隠した彼女は、荒くれ男を率い、盗賊団の頭として、もう長いこと、この西域に君臨していた。
女狐の盗賊団は、ただの盗賊団ではなかった。
彼女たちは、むやみやたらに旅人を襲うような、下衆ではない。
民人を苦しめる支配者や暴利を貪る商人たち、それが、彼女の獲物だった。
彼女とその一味は、黒風(砂嵐)のように襲いかかり、相手の“お宝”を容赦なく奪い去っていく。
そして盗品の一部を己の取り分とし、残りは周辺の貧しい人々に分け与える。それが彼女たちのやり方であった。彼女とその一味の名は、主な活動場所であった西域の北道のみならず、南道諸国にも広く知れ渡っていた。
「その椀は、使い古され、なんの飾り気ももない。見たところ、ただの古びた金物だという」
彼女は言葉を続け、掌をひらひらと動かしながら、その形状を説明した。
二人の男は息を潜めてその様子を見つめていた。
一人は、やはり、漢人の容貌をしていたが、何故か髪は全て白かった。しかし、顔つきはとても幼く、一見すると、十七、八ではないかとさえ思われるような童顔だった。
そしてその瞳は、絶えずとんでもないことを考えているかのように、いつもくるくると動き、同時に深い英知をたたえているかのような、深い光を放っていた。年齢の分からない容姿というところでは、女狐と同じであったと言える。
もう一人は、背が高く、浅黒い肌をしており、年の頃は二十過ぎといったところか。混血がかなり進んでいて、どこの民であるのか、一見しただけでは皆目見当が付かなかった。彼が口を開けば、出る言葉は涼州訛りの漢語であったので、そこでようやく、彼が一応漢族に属する者であるということが解った。
そして何より、彼の目を引くところは、その容貌にあった。
彼は、左半分が潰れて大きな傷痕になっていた。
それは、数年前、唐と遊牧騎馬国家・西突厥との激しい戦闘の中で失った部分であった。
当時、突厥は西域と草原の覇者であったが、隋の攻撃を受けて東西に分裂し、東突厥は貞観四年(六三〇年)に唐に下っていた。
一方で西突厥は西域諸国を支配し、東西交易路を手中に収めており、唐はその通商路を必要としていた。
高昌を支配していた麹氏は、西突厥の可汗と姻戚関係にあった。突厥と深い繋がりがりがあり、また、西域通商路の要所でもあった高昌を、当然のごとく唐は攻めた。
彼ら二人は、その時に従軍した元唐兵であった。
高昌、そして阿耆尼と、勇猛な突厥兵との凄惨な戦いが日夜繰り広げられた。
彼ら二人がいた部隊も、また壮絶な戦闘に遭遇した。突厥軍は、虐殺に近い形で、彼なのいた部隊を壊滅状態に追い込んだ。
狭い渓谷に追いつめられた彼の軍めがけて、突厥軍は大量の土砂と岩を投げ込んだ。一部隊を丸ごと生き埋めにしようとしたのだ。
たまたまその現場に遭遇した女狐により、彼は、顔の左半分を失ったものの奇跡的に救出された。彼の他、数名が女狐に助けられたが、ほとんどの兵士が土砂の下敷きとなって命を落としていた。
白髪の方は、生き埋めにはされなかった。
名家の出だった彼は、十代で将校になりこの遠征に従軍した。今後の「箔付け」のために参加した彼は前線に出ることはなかったかわりに、敗走していたところを捕らえられ数々の拷問を受けた。その後、半死半生の状態で草原に打ち棄てられていたところを通りがかった女狐に拾われたのだ。
筆舌に尽くしがたい、数々の残酷な仕打ちに、彼の髪は白く変色し、その時の痛手と施された治療の結果、彼の見た目は十代のままで止まっていた。
「先頃、とある胡人が、これを買った。さあ、いくらで買ったと思う?」
その声色の中には、少し意地の悪い響きがあった。女性の掌に収まるほどの古ぼけた椀の価値が解るのか、目の前の二人を、女狐は試していた。
「幾らも何も、そんなお古、値段なんて付くわけ無いのに何でわざわざ訊くんだよ?」
色黒の言葉を聞いて、女狐はクスリと笑った。
「黒豹、私の問いに問いで返すとはいい度胸だな」
「お頭こそ、俺に頭を使わせてどうするんだよ」
女狐はもう一人の方の顔を見た。
「雪豹、お前はどう考える?」
二人の男は、それぞれ、黒豹、雪豹と呼ばれていた。兵士だった頃の名前は、女狐に拾われた時点で捨てた。
「普通に考えたら、どこにでもある、使い古しの椀なんで、金を出して買う奴はまずいない。何か、中に入っているなら別だけど……」
「残念だか、その椀には何も入っていない」
「じゃ、普通なら、二束三文どころか値段なんて付きやしない。だけど、お頭がわざわざ訊いてくるって事は、何かある。――じつはとんでもない高値が付いた、ということでしょう」
雪豹の答えを聞いた途端、女狐は大声で、カラカラと笑い出した。
「雪、さすがだね。あんたはやっぱり出来が違う」
彼女に褒められ、雪豹は瞳をくるくると動かした。それを見た黒豹は、顔を顰めながら雪豹の尻を蹴った。いつものことなので、雪豹は動じることなく、ほぼ同時に、彼の腹に肘鉄を一発見舞っていた。
女狐にとっても、そんな光景はいつものことなので、気にせず話し続けた。
「その椀には、百緡の値が付いた」
「百緡!?」
女狐の言葉に、二人は同時に大声を上げた。
「……って、いくらだ?」
黒豹の気の抜けた呟きに、雪豹はあきれ顔で答えた。
「百緡は十万銭。そんな計算も出来ないのかよ」
当時の、中心に穴の空いた貨幣は、千枚ごとに緡で括られていた。緡が十本あれば、一万銭。百本あれば十万銭と言うことになる。
「額が大きすぎて、よく解らん。雪、俺たちは幾らあれば一年暮らせる?」
「一緡あれば、一年は楽に飲み放題だよ」
「……つうことは、百年飲み放題ってことか……ん?」
「有り得ねぇな、たがだか中古の銅椀にこの値段」
「そう、有り得ないのさ」
得意そうな顔で女狐が言葉を続けた。
「だが、確かにこの値が付いた」
「信じられない。第一、そんな大金、どっからくるんだ……?」
「どこから来たのかねぇ」
理解しがたい話に眉間に皺を寄せて呟く雪豹を面白そうに眺めながら、女狐は言った。しかし、次の瞬間、表情が変わった。恐ろしく冷たい、氷のような目つきで、彼女は言葉を続けた。
「今のお上の世になって唐の京師は平平穏穏。太平を謳う暢気なお大尽たちの間では、西域の娘を愛人にすることがこの所の流行りで、娘たちを高値で買いとっているらしい。そしてここ数ヶ月、主に南道で村の娘たちが一斉にいなくなる事件が続発している。最初は疏勒で、続いて于闐や且末でもあったそうだ。娘たちがいなくなる事件が始まったのと時を同じくして、銅椀が百緡で取り引きされた」
「つまり、娘たちを売った金で、銅椀を手に入れた、そう言うことか!?」
「そう考えるのは自然。だが、疑問は残る。椀は買われたが、娘がいなくなる事件は続いている。関係があるのか、無いのか、今のところは何とも言えない。
だが、間違いなく椀の値と併せて、何かがある」
「何かなきゃ、そんな値が付くわけはないな」
普段、考えることは雪豹任せの黒豹ですら、“何か”おかしいと感じた。
「ああ、だからお前たち二人を呼んだのさ」
女狐は二人の目を代わる代わる見つめた。その瞳が、きらりと光った。
「この件、お前たちに預ける」
その言葉の意味が飲み込めず、二人は互いの顔を見合わせた。女狐はそれを見て寂しそうに笑った。
「私も年を取った。そろそろ、この稼業から足を洗おうと思っている」
「お頭!?」
「冗談だろ!?」
黒豹と雪豹はほぼ同時に声を上げた。二人にとって、女狐は親以上の存在。この異郷の地で生きていく上で、無くてはならない拠り所だった。
「惜しまれるって言うのは良いものだ」
女狐は静かに言った。
「だが、体がもう、言うことが聞かぬのだ。こんなんじゃ、恥ずかしくて女狐の名は名乗れない。今後はどこかの山奥で、ひっそりと暮らすつもりだよ」
その言葉、二人には心当たりがあった。
このところ、女狐は指示を出すだけで、自ら先頭に立つことはなかった。”女狐”という名の由来になった、軽やかな身のこなしを見なくなってどれくらい経つだろう。
「だが、そう簡単には、隠居はできない。この私に付いてきてくれている連中を、ほっぽり出すわけにはいかないからね。私は”息子たち”をいくつかに分け、独り立ちさせようと考えてるのさ。
私は何人かの”お頭候補”を選んだ。お前たちはその頭数に入っている」
その言葉に驚き、二人は顔を見合わせた。
「俺たちはまだ新参者だ」
「兄貴たちが許すわけがない」
「おや、珍しく肝っ玉の小さいことを言うねぇ。誰よりも肝が太いと思っていたが」
女狐はふふふと笑った。
「お前たちは、誰よりも私の教えに忠実だと思っている。
私らのおつとめは誉められたものじゃない。しかし、私は私のしていることを、天に向かって正々堂々と胸を張れる。やましいことなど何一つしていないからさ。
私は、そんな自分の信条を、”息子たち”に伝えてきたつもりだ。だが、残念ながら全員に、全てを伝えられなかった。
お前たちは、私の”息子”になって、確かに日は浅い。だが、誰よりも私の考えを理解し、実行してくれている」
彼女の思わぬ誉め言葉に、二人とも痒いような、何というような、妙な気分になった。
「だからこそ、この難題をふっかけるのさ」
女狐は両手を擦り合わせながら、真っ赤な唇を舐めた。
「”お頭候補”にはみんな、何かしらのおつとめを任せるが、これが一番難題だよ。何しろ、この私ですら、お宝の正体を掴みきれていないのだから」
その言葉を聞いた黒豹は、思わず拳をぎゅっと握りしめた。
「お前たちのお題は、このお宝の正体が何であるのかを掴むこと。そして、それが天道に反することであったら、即、奪い取ること――これはいつものことだな。
それから、拐かされた娘たちがいるかどうかも確かめてくれ」
「そして、助けられそうなら、娘も助け出す――これもいつものことだ」
「さすがだね、雪。解ってるじゃないか」
女狐は満足そうに頷いた。
「でもお頭、ここから先が少し難しくないか?」
「どうしでだい?」
「お頭も解らないお宝の招待、一体どこで掴めばいいのさ」
「おやおや雪豹らしくないね。お前たちには良い伝手があるだろうに」
「伝手……?」
「はら、積石庵にいる驪龍先生だよ」
「ああ……」
「断る!」
黒豹はそれまで女狐と雪豹の会話を黙って聞いていた、”驪龍”という言葉を聞いた途端、血相を変えて怒鳴った。
「俺は金輪際、あのくそ道士とは関わり合いたくはない。俺はこの話を降りる」
女狐の部屋から出て行こうとする黒豹を、雪豹は慌てて止めた。
「兄貴……話は終わっちゃいない。最後までいろよ」
「随分、嫌われたものだねぇ。あの方は命の恩人だというのに」
「恩人だろうが、何だろうが……とにかく、俺はあいつとは関わり合いたくはないんだ。いつもろくな目に遭わない」
「お前は恩義というものを知らぬのか?」
暴れ出すのを防ぐために、雪豹に羽交い締め※にされた黒豹に向かって、女狐は尋ねた。
「まさか!?俺たちにとって、恩と義とは命より大切なものだって、お頭だっていつもそう言っていただろう? 俺だって解ってるし、お頭のためならいつでも死ねる」
「何故、私のために死ねる?」
当たり前のことを聞かれて、黒豹は言葉に詰まった。
「それは……」
眉間に皺を寄せ、少し考えてから、彼は言葉を続けた。
「俺たちは一度死んだも同じ人間だ。新しい命を与えてくれたお頭には、返しきれない恩がある」
「では、驪龍先生にも同じ事が言えるはずだ」
女狐の言葉に、黒豹は顔を引きつらながら答えた。
「……俺は恩知らずでもないし、不義でもない。お頭の言いたいことは解っている。あの道士にも深い恩がある……だが、それはもう返した」
「私には返しきれない恩で、同じ事をした先生へは返せたのか? それは異な事」
「要するに、あの先生とはウマが合わないってことさ。顔どころか、名前も聞きたくないくらい、嫌いなんだよね」
黒豹の後ろから雪豹が口を挟んだ。
「いい人なんだけどねぇ」
「雪! 余計な口挟むな~!」
黒豹は雪豹の腹に肘鉄を見舞おうと上体を少し前に反らした。そこをすかさず、雪豹は彼の背中で前転する感じで、くるっと体を返し飛び上がった。そしてそのまま黒豹の前に立った。
「兄貴、こんな面白そうな話、降りるって手はないよな」
雪豹の言葉を黒豹はフン、と鼻息で返した。
「やるのか、やらないのか?」
「やるよ!」
自棄になって叫んだ黒豹を見て、女狐は声を出して笑った。
「黒、よく言った!」
それから彼女は、人を呼んで何かを持ってこさせた。
この辺では珍しい、漆に真珠貝で象眼を施した小箱を二人に見せた。
「事のついでだが、これを驪龍先生に持っていっておくれ。金品で動く人じゃないから、これを持っていって自分たちに便宜を図ってくれなんてことは出来ない。だが、庵を訪れる理由は出来るだろう?」
「ありがとう、お頭」
雪豹は小箱を丁寧に受け取ると、女狐に礼を言った。
「今すぐ発っても良いのかな?」
「お前たちに問題がなければ、かまわないさ」
「じゃ、雪、さっさと行こうぜ」
一分でも一秒でも短く、驪龍先生と関わり合いたくはない黒豹は雪豹を急かした。
「ちょっと待ってくれよ、ったく、せっかちなんだから」
雪豹は黒豹を宥めると、さらに女狐に訊いた。
「この件で、俺たちが動かして言い人数は、何人? どこまで使って良いのか?」
「お好きなように」
女狐は嬉しそうに答えた。
「お前たちが使いやすい連中を、使いやすい分だけ持っていけ。それが、この先お前たちの一味になるんだ。よくよく選ぶことだな」
先程の”暖簾分け”の話は本気らしい。二人は事の重大さを改めて認識した。
そしてまた、使う連中も、ほぼ頭の中で決まっていた。その面子は、二人の頭の中でほぼ一致もしていた。
「じゃ、お頭。今すぐに発ちます」
雪豹の後ろで、黒豹が「さっきからそう言ってるだろうに!」と文句を呟いていた。
「焦るな、見送りぐらいさせておくれよ」
そう言うと彼女は、金剛を呼んだ。
侍従のような役割をしている金剛は、がっちりした体つきで、色の黒いインド系の人間だった。
彼に支えられ、力なく立ち上がった女狐の姿を見て、二人はドキッとした。
予想以上に、彼女の体は弱っていたのだ。
彼女との、永遠の別れが近い事を予感させるほど、彼女は儚くなっていた。
「決めたこととはいえ、息子を独り立ちさせることは、不安なんだよ」
そう言って女狐は二人の手を取った。
「何、お頭らしくないことを言ってるのさ」
雪豹はその掌をぎゅっと握って言い返した。
「先生のいる山までは目と鼻の先。ささっと言って帰ってくる。面白い話を待っててくれよ」
「ああ、お頭。俺たちに任してくれ」
二人はそう言って、女狐の部屋を出た。そして荷造りも早々に、その日のうちに出発した。
女狐たちの隠れ家から天山山中にある積石庵までは、確かにそんなに距離はなかった。
ただ、天山山脈の奥まったところ、岩がごつごつ続く荒れ地にある庵――それ故に積石庵と呼ばれる――まで辿り着くには容易なことではなかった。
だが、身のこなしの軽い二人は、難路を分けなく進み、近道となる道なき道を巧みに馬を走らせていた。
驪龍と顔を合わせたくない黒豹は、理由をつけては雪豹だけで行かせようとしていたが、彼よりも知恵の回る雪豹によって、ことごとくその目論見は阻まれていた。
そんな時、彼の耳が、異音に気づいた。
潰れた左半分の顔と引き替えに、彼の聴力は異常なまでに発達した。通常の人間には聞こえない音までも、彼の耳にははっきりと聞き取れることができる。
犬並みの耳。
雪豹は黒豹の聴力を、良くこのように揶揄していた。
その彼の耳に聞こえてきた音――カラカラと石が跳ねる音。黒豹は、慌てて馬に鞭を振るった
「兄貴!?」
敏捷性にかけては、黒豹と一二を争う雪豹であったが、不意をつかれたために出遅れた。その上、進む方向も判然としない。とにかく引き離されない、見失わないことを念頭に、雪豹は彼の後を追った。
そのうち、嬌声が雪豹の耳にも微かに聞こえてきた。
「ありゃりゃ……」
音の出先を見て、雪豹は黒豹があんなに急いだ訳が解った。
「なんてこった」
「静かにな。俺らに気付いてみろ――」
小声で黒豹は言った。それを受け、雪豹も小声で答えた。
「嬉しくなって、その場でぴょんぴょん跳びはねるよな……あいつのことだから」
「まずいだろ?」
「だな」
二人の視線の先には、ごつごつとした岩山に登る、子供の姿だった。
冒険が楽しいのか、岩が少し崩れて下に落ちる度に大声を上げて喜んでいた。
「何でまた、あんなところにいるんだろうなぁ」
「知るかよ。あのくそ道士、ちゃんと子供の面倒見てろってんだ」
吐き捨てるように黒豹は言った。
岩山の上にいる、小さな男の子は、積石庵の道士、驪龍が手元に置いて育てている鉄勒族の子供だった。
どうして、彼がこの子を育てているのか、そのことを知るものは誰もいない。驪龍自身だって、よく解っていないのかもしれない。
不思議な縁によって、この子は驪龍のもとにいる。それだけが事実だ。
「とにかく、あいつが落ちる前に助けるぞ」
そう、黒豹が呟いた、その時――
「黒豹! 雪豹!」
上の方から叫び声がした。
(気付かれた!)
二人は慌てて馬を飛び降りると、岩山へ向かって大きく飛び上がった。
「バガトゥール! そこでじっとしてろ!!」
雪豹の叫びが届く前に、少年は嬉しそうに岩から飛び降りて、二人の方へ向かおうとした。
そして、そのまま足を踏み外した。
「バカヤロ……!」
黒豹は、少年が落ちる方向に向かって、大きく飛び上がった。
がらがらと岩が崩れ落ちる中、黒豹は空中でしっかりと少年を抱き留めた。そしてそのまま一回転をして、着地を試みた。
しかし、足元には、上手い具合に足をおけるような場所はなかった。
(――ッチ!)
軽く舌打ちをしながら、黒豹はもう一回転して、何とか足場を捜そうとした。
「ほいよ!」
掛け声と共に雪豹が横から飛び出してきた。
そして、黒豹の襟首を捕まえると、そのまま岩肌に向かって飛んでいった。
「ぐっ……」
襟首を掴まれたため、軽く首を絞められた感じになった黒豹は苦しそうに喉を鳴らした。
「お、兄貴エライ。堪えてるジャン」
上手い具合に腰を落ち着ける場所に、黒豹を引き上げながら、雪豹は楽しそうに呟いた。
「てめぇ、俺を試してるのか、それとも、マジ、殺す気か?」
咳き込みながら文句を言う黒豹に向かって、雪豹は血のように真っ赤で、蛇のように長い舌をぺろりと突き出した。
「さあねぇ」
黒豹はペッとつばを吐き出すと、腕の中にいる少年の様子を確かめた。
岩に頭をぶつけたため、意識はなくぐったりとしていた。
体中に傷を負っていたが、中でも額の傷は酷く、ぱっくりと裂け、かなり出血もしていた。
とにかく、傷の応急処置を――と考えたその時、岩山から奇妙な生き物がひょっこりと顔を出した。
「うわっ」
その生き物を見て、二人は同時に声を上げた。
それは、一つ目で、顎と首のない鬼神の一種だった。肩から肩の間が若干盛り上がり、その部分に目と口があり、鼻と耳はなかった。腕は異様に長く、白い毛で覆われていた。この鬼神は驪龍のところにいる者で、何回か見かけたことはあったが、何度見ても見慣れない異形の化け物だと二人は思っていた。
異形は、手に膏薬の入った壺を抱えていた。そしてその象牙色の膏薬を、慌てたように少年の傷に塗りたくった。
「おい! この傷はそれぐらいで何とかなるものじゃないぞ」
少年の、特に頭の傷は深すぎで、膏薬を塗っただけで何とかなるようなものではなかった。
「早くあの道士の許に連れていけ。このままじゃ、死ぬかもしれん」
道士驪龍は、また神業に近い医術も心得ていた。普通なら命を落としていたであろう黒豹と雪豹を助けたのも、彼に他ならなかった。
黒豹は、上半身は下着も着けず薄汚れた皮衣の上衣を纏っただけ、下半身も所々破けた粗末な袴褶を穿いていただけだったので、少年の服を脱がせてそれを裂くと、それで傷口を覆った。そして自分の胴衣を彼に着せると、しっかりと抱きかかえた。ぐったりとして力がなく、血の気もなかったが、肌の暖かさが感じられた。
「雪! 俺はこの山を越えてあのクソ道士のところへ行く。お前は馬を連れて、後から来てくれ」
「解った」
「おい、化け物、さっさと俺を案内しろ」
黒豹の言葉に、異形は低い呻き声を上げて頷いた。異形は、物の怪なりの身のこなしで岩を越えてゆくと、黒豹が付いてこられるかどうか不安そうに後ろを振り向いた。
黒豹は、口元ニヤリと笑みを浮かべると、ふわりと飛び上がった。そしてあっという間に異形の後ろに付いた。
異形は安心したように走り出した。
その後を一歩も遅れることなく、黒豹は付いていった。
黒豹、雪豹の名の由来は、この軽く素早い身のこなしから来ていた。
生死の境をさまよい、そこから生還したときに身についた力だった。驪龍の治療の、いわゆる副作用ではあったが、“盗賊”という稼業ではまたとない宝となった。
程なくして、大きな岩をくりぬき、礫と草で覆われた住居のようなものが目に入ってきた。積石庵だ。
もう、案内は必要ない。
そう判断した黒豹は、大きく飛び上がると、鬼神の前に飛び出した。
鬼神は、うう、と妙な声を上げて黒豹を止めようとした。しかし、黒豹は構うことなく一直線に走り去っていった。
と、妙な音が聞こえた。
まずい、と直観的に判断した彼は、少年をかばうように、その場に踞った。
同時に、大きな爆発音がして、爆風が彼を襲った。
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