第二章

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第二章

 爆風と共に、何かが、肩や背中に打ち付けられるのを感じた。  痛みと言うよりも、痺れを感じながら、彼は腕の中の少年の様子を確かめた。爆風による影響を受けていないことを見て、ホッと息を漏らした。 「急がば回れとは、よく言ったものだ」  不意に、後ろから声がした。低く響くその声は、あまり聞きたくない声でもあった。 「”一つ目”と一緒に来れば、こんな目に遭わずに済んだものを」  それは、青藍の道服を身に纏った長身の道士、驪龍の声だった。 「しかし、よく、爆発することが解ったな」 「前にもあっただろうに。俺がお前んとこにくる度に、こんな目に遭ってる気がするぜ」 「ああ、そうか」  納得したように笑った。 「仙薬の調合は難しく、ちょっとした按配で破綻する。いつもお前が騒がしく来るから、その度に手元が狂うのだな」 「人の所為(せい)にするなよ!」  文句を言う黒豹に構わずに、驪龍は彼の手から少年を抱え上げた。  そして素早い手つきで止血の布を解くと、少年の傷の様子をつぶさに確かめ始めた。黒豹は、自身の傷の痛みに耐えながら、その様を凝視した。 (――!?)  布が解かれていけばいくほど、黒豹は己の目を疑った。肌にこびりついた、赤黒い血痕こそ痛々しかったが、新たな出血はもうなく、それどころか傷痕さえ、ほとんど見あたらなかった。驪龍が清水で丁寧に少年の体を洗っていくと、血痕の下からはふっくらとした幼児の皮膚だけが現れた。  致命傷とさえ思われた、あの額の大きな傷でさえ、跡形もなく消え失せていた。  黒豹の脳裏に先程の象牙色の膏薬が蘇った。あの薬、これほどまでに効果があるものだったのか――  体を拭かれている最中(さなか)に、少年は目を覚ましていたが、驪龍の作業が終わるまで、杏仁のような目をくるくるさせながらじっとしていた。 「さあ、これでいい」  真新しい服を彼に着せながら、驪龍は言った。 「今回はまた派手にやったな……もう、あそこに行っては駄目だぞ」 「……先生、お腹空いた」  懲りた様子なども微塵も見せずに、少年は呟いた。 「いつものところに、干し棗と甘露湯が用意してある。大怪我をした後だ、しっかり食べて養生しなさい」 「はーい」  少年は嬉しそうに頷くと、その場を立ち去ろうとした。が、あることに気付き、高い声を上げた。 「先生! 黒豹と雪豹は!?」  きょろきょろと見回すと、岩の影に寄りかかって痛みに耐えている黒豹の姿が目に入った。 「どうしたの!?黒豹!」  駆け寄ろうとする少年を、黒豹は右手で制した。 「来なくて良い! てめえのキンキンする声を聞くと、余計に傷が痛む」  叫んだらさらに痛みが増したらしい。黒豹の顔は苦痛に歪んだ。  それを見た少年は、慌てて先生の姿を捜した。しかし、捜すまでもなく、驪龍は新鮮な清水を入れた桶や、治療に必要な薬、油紙、包帯などを携えて黒豹の後ろにかがみ込んだ。 「バガトゥール、向こうに行っていなさい。休まなくては駄目だ」 「先生……黒豹は大丈夫?」 「ああ、大丈夫だ」  驪龍は黒豹の背に刺さった岩の破片などを丁寧に取り除きながら答えた。 「多少、待たせたが問題ない」 「そうだよ」  ふて腐れたように黒豹が呟いた。 「あいつが大丈夫なら、何で俺を後回しにする?」 「お前を先に診たら、怒るのはお前自身だろうに」  確かにそうだ。図星を指された黒豹だが、それだけでは腹の虫が治まらなかった。 「その薬を塗れば、バー公みてぇにすぐ治るのかよ」  少年の名、”バガトゥール”は鉄勒(テュルク)の言葉であったため、黒豹は少年のことをそう呼んでいた。そのことは、驪龍も承知していた。 「さあな」  清水で傷口を洗浄しながら驪龍は呟いた。 「あの子は私と寝起きを共にしているからな。体の中が清浄なのだよ。だが、お前はどうだ? 清められていない分、時間がかかると思え」  その言葉に、黒豹はフンと鼻で嘲笑った。 「心身共に清浄な盗賊が、どこにいる。それだったら、死ぬまで治らねぇな、この傷」 「大丈夫だよ」  不意に、黒豹の目の前にバガトゥールが現れた。 「先生の薬は良く効くよ。すぐに治るよ」  黒豹の、ぼさぼさの頭を撫でながら、まるで子供に言うようにバガトゥールは言った。それから、掌に握っていたものを彼に差し出した。  それは、小さな、干した棗だった。 「食べなよ。元気が出るよ」 「いらねぇよ」  どうにも照れくさくなって、黒豹は目を背けながら言った。 「酒があれば、それで良い」 「いけないんだ!」  唇を尖らせてバガトゥールは叫んだ。 「酒なんて飲んだら、五臓六腑が腐っちゃうんだぞ」 「んなワケないだろ!!」  呆れたように黒豹は返事をした。一体全体、驪龍は、どんなことをこの少年に吹き込んだのか。   「だって先生が言ってたよ……えーと……」 「百害あって一利なし、だろ」 「うん、そうそう」  驪龍の言葉に頷きながら、バガトゥールは言葉を続けた。 「その、百害って、どんなんだか知ってる?」 「知らん!」 「いっぱい、体に悪いって事だろ? つまりさ……」  彼は少し声を低くし、顔を黒豹に近づけながら言った。 「色んなところが悪くなる。悪くなったら、そこが腐るんだよ。その辺に落ちてる屍肉みたいに。恐いだろ?」 「――それ、誰が教えた」 「教わったんじゃない。自分で考えたんだ、すごい?」  得意そうに言う彼の顔を見て、黒豹は思わず溜め息を漏らした。  人里離れ、こんな山奥に道士と化け物と籠もっているような生活だから、こんな素っ頓狂な考え方になるのか……黒豹は何でまたこの少年をこんな境遇においているのかと、いつも不思議に思っていた。 「俺はお前の何倍も生きてるが、そんな奴見たこともねぇぞ」 「えー?」  少年のふくれっ面を見て、黒豹は思わず吹き出した。 「解ったよ、そんな奴を見たらお前に教えてやるよ」 「絶対だよ!」  二人がどうでも良いような、たわいのない話をしている間に、背中の傷のほとんどは油紙で覆われ、その上に亜麻布が巻かれていた。  口惜しいが、驪龍の鮮やかな腕前は認めざるを得ない。 「あらら、怪我した人間が違うんじゃねぇ?」  ふいに背後から人を小馬鹿にしたような声が響いた。いつも聞いている、ちょっと高めの、癖のある声。 「なにヘマした……」 「っるせー!」   うつむいたまま、声のする方に向かって黒豹はひゅっと匕首を投げつけた。標的を見たわけでもないのに、匕首は的に向かって一直線に飛んでいった。  対して「的」の方は、ふん、と鼻で笑いながらそれを難なくかわすと、くるっと反転して黒豹の背中に思いっきり蹴りを入れた。  傷口を直撃された黒豹は、うぐっと声を上げて蹲った。 「――雪豹よ、相も変わらずの過激な愛情表現だな、」  二人の遣り取りを端で見ていた驪龍は、呆れたように言った。  驪龍の声を聞き、雪豹はあわてて彼の方を向き、両手を合わせて挨拶をした。 「先生、お久しぶりです」  彼は黒豹と違って不作法ではない。表向き女狐の使いで来た以上は礼儀に則って挨拶をした。 「女狐のお頭からの使いでお邪魔しました」  懐から例の小箱を取り出すと、それを恭しく驪龍に差し出した。 「これは……狐の珠ではないか!?」  驪龍は箱を受け取るより早くに、その中身を言い当てた。そして長い指で丁寧に箱の中身を取り出した。  滑らかに光り、手のひらにすっぽりと収まるその珠は、真珠でもない、(ぎょく)でもない、数々のお宝を見てきた黒豹・雪豹ですら初めて見る代物だった。七色に光る珠を(たなごころ)に転がしながら、驪龍は言葉を続けた。 「これは珍宝中の珍宝。このようなものを私に託すとは……女狐は己の寿命がそう長くはないと悟っているようだな」  黒豹と雪豹は嫌な予感を同時に抱いた。二人は顔を見合わせると無言で頷きあった。 「――先生、来た早々で悪いが、これでお(いとま)します」 「頼まれた品は、確かに渡した。怪我の治療の礼は、そのうちする」  二人は交互にそう言い、軽く会釈をすると、雪豹が引いてきた馬に跨がってその場を去ろうとした。 「まあ待て」  驪龍は腕を軽く上げると、二人を制した。 「せっかく来たのだ。焦ることはあるまい」  驪龍は、丁寧に狐の珠をしまいながら言葉を続けた。 「女狐の寿命は今日明日に迫っているわけではない。まだ間に合う。そう慌てるな」  その言葉に、二人の動きは止まった。それは言外に「まだ死に目には間に合う」ということであった。  驪龍道士は、何でも見通す千里眼と、何でも聞こえる順風耳という二つの能力(ちから)を持っていた。彼の目と耳は、時には時空を超え、予言めいたことを告げることも少なくなかった。  「知りたいことがあるのだろう? 訊かなくていいのか?」  それは、例の銅椀のことを意味していた。 「それは……」 「高昌(カラ・ホージャ)にも通はいる。それに訊けばいいことさ」  言葉に詰まった雪豹の代わりに、黒豹が答えた。 「嫌な気分になってまで、あんたに訊くことはない」 「ずいぶんな言われ様だな」  彼の言葉に、困ったような声色で驪龍は返した。だが、表情は一切変わっていない。それが妙に荘厳で不気味ですらあった。まるで作り物のような、中性的で完璧なまでに整った顔立ちが、そう感じさせるのかもしれない。 「頼みたいことがあるのだ。もし、引き受けてくれたら、それなりの礼はする」 「タダじゃないってことか?」 「ああ」  驪龍は静かに頷いた。この道士が頼み事をするなど、滅多にないことだ。 「兄貴、話を聞こうぜ」  雪豹は黒豹の肩を叩きながら答えた。 「う……」  困ったような、妙な顔立ちで黒豹は頷いた。損得勘定が頭の中を渦巻いていたのだ。「それなりの礼」とは、「それなり」ではなく「とてつもない」礼であることは間違いない。  この道士のことを死ぬほど嫌ってはいるが、損得には聡い盗賊家業(しょくぎょうがら)、彼の話を受けるしかあるまい。 「ありがたいな」  驪龍は言葉を続けた。 「今日は、天地を巡る気が、この地に一堂に集まる日なのだ。秘薬中の秘薬と言われるある仙薬を完成させることができる貴重な機会。この日を逃すと、あと九〇〇年は巡ってこない。私は数年前からここに籠もって、今日、この日のために準備をしてきた」  驪龍は陽関を越えて以来、あちこちを転々として西域各処を彷徨していたのだが、積石庵をこしらえて以降は、ここに腰を落ち着けていた。 「だがな、仙薬を調ずるには、子供の気は邪魔なのだ。邪気となって、仙薬の効果を損じてしまう」 「それでバー公を追い出してたのか」 「追い出すとは、ひどい言い方だな」  驪龍は黒豹に一瞥をくれると、一瞬悲しげな顔になった。 「ここから離れたところで、一つ目に面倒を見させていたのだが、子供というのは何をしでかすか予想しがたい。まさかあんな目に遭うとは」 「それで俺たちにバー公の面倒を見させようという魂胆か?」  「まあ、そういうことだ。先程も、バガトゥールの怪我で私の気も散ってしまった結果があの爆発だ。もう、この後何度も機会がない。こちらも切羽詰まってるのだよ」 「まあいいさ」  黒豹は両手を挙げた。 「だいたい、あんたがあんな子供を育てていること自体、間違ってるんだよ。ったく、可哀想に。今日ぐらいは、気持ちよく一日を過ごさせてやるさ」  なんだかんだ言って子供好きな黒豹は、あっさりと引き受けてしまった。その様を見て、雪豹は思わず苦笑した。  しかし、それが彼のいいところでもある。悔しいが、雪豹は黒豹のそう言うところが好きであった。  ふうと、大きく息をつくと、雪豹はごろりと草むらの上に寝転がった。  今、自分はこんなところで、こんな事をしていていいのだろうか?  そんな焦燥感を、頭の中から追い出すように、意味もなく左右に頭を振ってみた。 (どっちがガキなんだか……)  耳をつんざくような嬌声に呆れつつ、あの二人を横目で追った。  すり切れた毛氈に乗って、なだらかな丘を滑り落ちていく黒豹とバガトゥール。勢いよく滑り降りたときはもちろん、大きく転んでもげらげらと大きな声で笑い転げていた。雪豹はふん、と鼻を鳴らすとごろりと寝返りを打った。 (二人ともあんな大ケガした後で、よくまあ、あそこまでバカやれるもんだ。傷口が痛んでも知らねぇぞ……)  と、そこで雪豹はあることに気づいた。  ガバッと勢いよく起きあがると、二人の方を見た。  案の定、二人は驪龍からもらった薬を、擦り剥いたところに擦り込んでは丘に上がって滑り降りていた。 「おら! 勿体ないことするな!!」  大声を上げると、雪豹は大きく飛び上がった。そしてひらりと二人の前に舞い降りると、その手から膏薬の入った壺を奪い取った。 「唾付けとけば治るような傷に、こういう薬を使うなよ。……ったくぅ。勿体ない」 「何、ケチ言うんだよ。ほれ見てみろ。ツルツルだぞ」  そう言いながら、黒豹はさっき擦り剥いた腕を見せた。傷が瞬く間に治ったことを教えたいらしい。  古傷の跡があちこちに残っていて、おまけに腕毛がモジャモジャ、この腕のどこがツルツルなんだと、雪豹は鼻に皺を寄せた。そして黒豹の腕に向かってペッと唾を吐いた。 「げっ! 汚ねぇな!! てめえ、何しやがるんだ!?」 「だから、唾付けときゃいいんだよ。ひでぇケガをしたとき、この薬が無くなったらどうすんだよ」  悔しいが、雪豹の言うことはもっともだったので、とりあえず黒豹はその場を引いた。だが、腹の虫が治まらなかったので、彼が顔を背けたとたん、怒濤のごとく罵倒し始めた。  背中でそれを感じ取った雪豹は、くるりと向きを変えると、側にあった、やや大きめの石を彼に向かって蹴り上げた。  黒豹はバガトゥールを抱えてそれをひょいと避けると、大声で嘲り笑った。 「付き合ってらんねーよ」  雪豹はそれを無視すると、壺をじっと見つめた。壺の中はほぼ空になっていたので、顔を上げて冷たい視線を黒豹に投げかけた。 (驪龍先生の作る普通の膏薬だってこの効力だもんな。千年だか、九〇〇年だかに一度しかできない仙薬……それは一体どういうものなんだろう?)  わずかに残った膏薬を眺めながら、雪豹は考えた。  仙界・人界あわせて、驪龍ほど仙薬造りに長けたものはいないという話も聞く。  そんな彼が、必死になって――彼にしたらあれでも顔色を変えて――作ろうとする仙薬。あれさえあれば、女狐の病も癒えるのではないか?  問題は、どうやってそれを手に入れるのか? だいたい、こう考えた時点で、相手にこちらの考えていることなどすべて筒抜けな気がする。  いやいや、今は仙薬造りで頭が一杯で気付くこともないかもしれない。彼の千里眼と順風耳は、全てを見通し、全てを聞き取る訳ではないはずだ。  つまりはだ、相手が気付かない、ほんのわずかな隙があるかもしれない。  それはいつだ? 「いや、やめておけ。ろくな結果にはならないぞ」  不意に後ろから声を掛けられ、雪豹は全身総毛立った。人の気配には聡いはずなのに、知らぬ間に誰かに背後を取られたことに、一瞬命の危険すら感じた。  しかし、その声色から主が誰だかすぐに解り、彼は匕首(えもの)を懐から出さずにすんだ。 「なんのことです?」  努めて平静に、眉一つ動かさないよう気をつけながら言葉を返した。 「やめておけってことさ」 「だから、なんのことです?」 「解ってるだろう? 企みなんぞ、通じる相手か?」  雪豹はチッと舌打ちをした。  この連中と来たら、お天道さまの下で物を見るように、腹の中の隅々まで覗き込みやがる―― 「師兄(しけい)ー!」  毬のように飛び跳ねながら、バガトゥールが雪豹の頭を飛び越え、後ろの男に飛びついた。 男は口元を綻ばせながら、ひょいと少年を抱え上げた。 「また少し大きくなったな」  バガトゥールはうれしそうに男の頬に自分の頬をすり寄せた。 「師兄は大きくなった? 小さくなった?」  突拍子もない問いに、思わず雪豹は吹き出した。 「さあ……どっちかな?」 (こいつらはどっちだって思いのままだろうに)  雪豹は心の中で毒づきながら男の顔を見た。 「ご機嫌斜めなようだな、雪豹」  青藍の道服をまとった長身の男は、パチンと指を鳴らした。同時に息をつけないくらいの大風が巻き起こった。目に砂が入り、雪豹は一瞬目をつむった。そして目を開いた次の瞬間、目の前の風景が変わっていた。 (ここはどこだ……) 足元は先ほどまで寝転がっていた草原ではなく、黒い羽毛に覆われ、温かく血が通う何かであった。風は相変わらず強く吹いていて、目を開けているのにも苦労した。 「“この子”はバガトゥールが慣れているので借りているんだが、扱いが良く解らなくてな」 そう言うと“地面”が大きく右に傾いた。雪豹はうわっと声を上げていると足元の羽毛を掴んで転げ落ちるのを防いだ。 「悪い悪い。なるべく水平にするように気を付けるが、しっかり掴まっていてくれるかな」 男は仁王立ちのままそう言った。いつの間にか彼らは、巨大な黒い怪鳥の上にいた。そして恐ろしい速さで空を飛んでいた。  “慣れている”バガトゥールは、羽毛の中に体を埋めて四肢でしっかりと怪鳥の体を掴んでいた。 「積石庵(あの)の周辺は今、仙界と人界の区別がなくなっているのでね、お前やこの子のような者は居てはならないのだよ」 「なるほど……」 雪豹は怪鳥の上にあぐらをかきながら呟いた。黒嵐に比べたら、こんな風などたいしたことはないと腹を決めた。 「ってことは、紫陽先生は驪龍先生(あいつ)に俺ら込みで子守を頼まれてたって事かよ」  忌々しげに雪豹は言った。 「上手い調子で兄貴を言いくるめて、あんたら何を企んでる」 「企んでいるわけではないさ。ただの巡り合わせ」 “紫陽先生”と呼ばれた男は、雪豹の不貞腐れる様を面白そうに見ていた。 「この日、この時に、たまたまお前たちが“鎮綏(ちんすい)椀”の件で来ただけ。私はその巡り合わせを上手くいくように物事を回すだけ」 「鎮綏椀!?」  雪豹は紫陽先生の言った言葉を聞き逃さなかった。 「何だよ! その鎮綏椀って」 「まあ、落ち着け」 紫陽は立ち上がろうとした雪豹の肩を押さえてもう一度座らせた。 「残念ながらこれは仙界が関わるわけにはいかんので、私からはこれ以上は教えないよ。あとで“弟”に訊くがいい。あいつもそのつもりだ」 「じゃ、なんで“鎮綏椀”なんて名前を口に出すんだよ」 「知らないより、ある程度は知っていた方がいいだろう? “宥める”のに」 そう言うと紫陽は鳥の頭の方を指さした。巨鳥の嘴には黒豹が挟まっているのが見えた。 (あーあ、目が合っちまったよ) こちらを向いて悪態をついている黒豹と目が合って、雪豹はため息をついた。今は地上からかなり離れた天空を飛んでいる。下手に動くよりは地上に降りるまでは嘴(あそこ)に居てもらった方が良いだろうけれど、本人は今すぐ降ろせって絶対思っている。どう転んでも、下に降りたら機嫌を取るのが至難の業だ。 (だったら少しでも情報を引き出した方が得策) にやりと笑って手を振ると、雪豹は紫陽先生のほうに顔を向きけた。何か大声で叫んでいるようだが、知ったこっちゃない。 「じゃあ、あの気難しい唐変木を納得させるだけの“何か”をもうちょっと教えてもらえないですかね」 「あいつの相手は大変なようだな」 「面倒くさいちゃ面倒くさいけど、兄貴といると面白いからな」  照れくさそうに雪豹は言った。 「俺らの人生は、あの時に終わってる。今はただの“おまけ”。だから俺は好きなように生きる。義理も道義も知ったこっちゃねぇ」  ただ……と 一呼吸置いてから雪豹は続けた。 「一つだけ、捨てられない義理がある」 「女狐のことか」  紫陽の言葉に雪豹は苦笑いを浮かべた。 「"俺たち”は存在しているだけで天帝に疎まれているからな」 「女狐の寿命は今更どうこうできるものではない。だが、豊都(ほうと)(あの世)では必ず彼女を助けよう。それだけは約束する」 「ありがたいって言って良いのかね」 「私は普段は仙界に身を置き、人界とは関係ない立場だが、彼女は古い友人だからな」 「仙界の住人って割には、先生の姿よく見かける気がしますがね」  紫陽の言葉を遮って、雪豹が茶々を入れた。 「驪龍がこっちにいるからな」 「仙界(あつち)は時がゆっくりだって聞くけど、大体何日置きにこっちに来てるんです?」 「何日か……この頻度だと、どちらかというと何刻か置きかな」  それを聞いた雪豹は馬鹿にしたように舌を突き出した。血のように赤かった。 「それだけ時の流れが違うのだ。いちいち人界に起こったことなど、こちらではどうこうしようもない。そして驪龍もまた、何もかも見え何もかも聞こえるようで、見ること聞くことを選んでいる。自分の手に余ることはやらないし、予想外のことに戸惑うこともある。さっきのこの子のケガのようにな」 (ああ、あれで慌ててたんか、驪龍先生は……)  黒豹がケガしたバガトゥールを担ぎ込んだ時の姿を思い出すと同時に、雪豹はちょっとほっとしていた。あのケガも込みで「解って」いたのならどうしようもない“人でなし”だ。あれでもまだ、少しは“人らしい”ところもあった訳だ。 「だが、女狐は違う」  雪豹はあっと声を上げて紫陽の言葉を遮ろうとしたが、彼は気にせず続けた。 「彼女は、見ること聞くことが義に沿わぬ事、道に違う事であれば、何が何でも全て正そうとする。どんなに血と涙を流してもな。だが、彼女が私たちの何倍も天に則った行いをしても、生まれ持った宿命(さだめ)で天に裁かれなくてはならない。皮肉な物だ」 「あーあ、言われちまった」  頭をボリボリかきながら雪豹はぼやいた。 「紫陽先生(あんた)にお頭のことを褒められると逆に穢されたような気分になる。勘弁してくれよ。俺たちは自分たちのことをよく解ってるのさ。どうあがいたって天帝に憎まれる存在には変わりないって」 「そうか」  紫陽はぼやく雪豹の姿を静かに見た。 「そんなことより、さっきの何とか椀の話……!」 「刻が来たな」  雪豹の言葉を無視して紫陽は言った。 「お前の目なら見えるだろう、あの仙気を」  紫陽は遙か後方を指さした。 山間から五色の雲が棚引きうっすらとした光や天上へ向かって伸びていた。 「忌々しい景色だ」  雪豹はそれを見て呟いた。 「私にも役目というものがあるのでね。行かねば」  そう言うやいなや、紫陽は怪鳥の背からひらりと飛び降りた。 「え、ちょっ……待っ!」  雪豹が叫ぶと、下の方から紫陽の声が聞こえた。 「大丈夫、こいつは頭が良いから、全てが終わった頃には積石庵まで連れて行ってくれる。それまでバガトゥールを頼んだぞ」  声がした方を見ると、紫陽が五色の雲に乗って仙気が上る方へと向かっているところだった。そしてあっという間に見えなくなった。 「やっぱりあんなんでも仙人は仙人なわけだ」  紫陽は、驪龍の兄弟子にあたり、上清派の本山・茅山でともに修行した仲であった。 共に教主に次ぐ立場である八大高弟に名を連ね、どちらかが次期教主になると、当時は誰もが思っていた。  しかし、二人とも教主の座を望まず、紫陽は「白日昇天」を行って仙人となり、驪龍は陽関を出て西域を彷徨する流浪の道士となった。 「あの二人が同時に茅山を去ったのには理由(わけ)がある。だが、それを誰も知らない」  いつだったか、女狐は雪豹にそう言った。 「二人の実力は同等か、場合によっては驪龍先生が上。なのに何故、仙界に昇っていったのは紫陽先生だけなのか。この秘密(なぞ)、いつか解き明かしたいねぇ」  女狐は少女のように、いたずらっぽく笑いながら言っていた様を思い出し、雪豹は切なくなった。 (そうだよ、お頭。それを知るまでもう少し……) 泣きそうになるのをぐっとこらえていると、視界の端にもの凄い形相の黒豹が目に入った。怪鳥の涎にまみれた上で強風にあおられ、かなり体温が下がってきたようだ。 「ああ、お前も可哀想に」  雪豹は天を仰ぎながら大げさに言った。 「あんな不味いもんずっと咥えてるんじゃあ、腹壊すぜ。いくら仙人の命令っても、こりゃないぜ。鳥さんよぅ、お気の毒様だな」  雪豹の言葉を聞いて、黒豹は真っ赤に怒って怒鳴り声を上げた。  黒豹が罵詈雑言を上げる様を見て、雪豹はケラケラと笑った。 (あれだけ元気があれば、まだ大丈夫だな)  静かだな、と思っていたらバガトゥールは羽毛に埋もれたまま熟睡をしていた。 「おいおい、落ちるなよ」  もぞもぞと動く少年を抱きかかえると背中を軽く叩いた。気がつけば五色の雲も消え去り、いつもの蒼天が広がっていた。もうそろそろ戻れるようだ。 (あんまり時間をかけたくないが、さて、どうなることやら)  こんなに早くお頭のところに帰りたいなんて事は、今まで無かったな。雪豹は、ふと思い立って馬に拍車をかけるように、鳥の胴を蹴ってみた。
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