15人が本棚に入れています
本棚に追加
第三章
「せんせーっ」
鳥の背から飛び降りると、バガトゥールは鞠のように弾みながら二人の元に駆け出した。
二人――驪龍と紫陽は、煌びやかな刺繍が入った錦の上衣に、きちんと結い上げた髪に飾りの付いた道冠をつけた法服――太上化衣の姿で、積石庵の前に並んで立っていた。
華やかな法服を身につけた長身の二人の、凜とした立ち姿は遠目から見ても美しかった。
驪龍の方が少しだけ背が高く、ほっそりとしており、中性的な面持ちがより彼に神秘的な印象を与えていた。一方の紫陽は、男らしいがっちりとした体つきで、優雅な所作と相まって荘厳な雰囲気を醸し出していた。かつて茅山にいた頃、“【酉焦】”(道教の祭り)で教主の左右に立って補佐する二人の姿を見たさに、多くの信徒が集まったというのも納得できる。
少年の目にも、その姿がとても“特別”に見えた。目をキラキラと輝かせ驪龍の袖をしっかりと掴んだ。
「先生、すごいね、これ」
「ああ」
バガトゥールは、いつもの青藍の単衣とは違う絹の肌触りや刺繍の質感を、面白そうに手の中で確かめた。それから紫陽の方につつっと寄り、2人の衣装の手触りの違いを確かめようとした。
「師兄もすごいね、これ」
「そうさ、特別なんだ」
そう言いながら紫陽はバガトゥールを抱え上げた。
「神仙界から高貴な方々がいらっしゃっててな」
「こら、バガトゥール」
無邪気にはしゃぐ少年を、驪龍はとがめようとした。驪龍と紫陽は兄弟弟子に当たり、驪龍は彼のことを“師兄(兄弟子)”と呼んでいたのだが、バガトゥールもそれ真似するのを快く思っていなかったのだ。しかし紫陽は驪龍を制止した。
「いいんだよ。この子はお前の弟子ではないんだろ。ただの養い子だ」
「ええ……」
「私がこう呼んで欲しいんだ。もう、こんな無邪気に“師兄”なんて呼んでもらえることはないしな。この子で最後だな、こう呼ばれるのも」
「相変わらずですね、師兄は……」
仙界に身を置く立場となった今でも、茅山にいた頃と変わっていない。気さくで面倒見が良く、いつもたくさんの弟弟子たちに囲まれていた。自分も入山したての頃は、どれだけ彼に助けられたかと、驪龍は思った。
「仙界に移ってからというもの、かつての弟弟子たちは下心で“師兄”“師兄”と呼ぶばかりだ。まったくもってつまらん」
「仙界に行って、詰まらないはないでしょうに」
「詰まらないさ。なんで私はあっちに行けたのか、未だに不可解」
「だから行けたのですよ。仙縁とはそういうものです」
ふっと笑いながら、驪龍は必死の形相で黒豹を背負ってこちらに歩いてくる雪豹の方に向かって声をかけた。
「ずいぶん急ぎで戻ってきたな」
雪豹は答えの代わりに眉間に皺を寄せて驪龍を睨み付けた。
「飛廉にはちょうど良い時刻に戻るように言っていたのだが……まあ、いいさ」
驪龍が手をパチンと叩くと、岩陰から異形の者たちがひょこりと顔を出した。先ほどバガトゥールの面倒を見ていた一つ目の他にも、首と頭がなくて肩に耳、鎖骨に目といった人と似てに非なるさまざまな姿をした異形たちが次々現れ、驪龍の前に跪いた。彼らは驪龍の忠実な僕であった。彼らは驪龍の命を受けると、雪豹の背から黒豹を抱え上げ、大柄な彼の体を軽々と庵の中へ運び込んだ。
“飛廉”と呼ばれた怪鳥は、褒めて欲しいのか首を上下に振りながらドスドスと足音を立てながら驪龍にすり寄った。雛の頃から驪龍が手塩にかけて育てたためか、この漆黒の巨鳥は彼のことを親だと思っているらしい。
「“薬”を受け取りに神仙界よりの訪問があったので、彼らも払ってもらっていたのだよ。もう少しゆっくりであれば、湯を沸かせる暇もあったのだが」
「こっちは一時でも惜しいんだよ」
腕と肩をぐるんぐるん回しながら雪豹は答えた。
「では雪豹、本題は黒豹の手当を待たずに始めて良いのか?」
「当然」
雪豹はにやりと笑った。
「どうせ兄貴は話の八割は理解できない。要点だけわかりゃいいんだよ。後は俺が聞く」
「成る程」
そう言うと、驪龍は雪豹を庵の中へ招き入れた。
「お前たちの知りたいことはいろいろな事情が絡み合って、かなり複雑だ。だが、目的は単純」
室内に入ると、驪龍は上衣を脱ぎながら徐に口を開いた。部屋の奥では、黒豹が薬湯の桶に入って、異形たちに体を揉みしだかれていた。
「まずは“鎮綏椀”について話をしよう。私たちは便宜上あれを鎮綏椀と呼ぶが、本当の呼び名は失われてもうない」
それは二千年も前に遡ることであった。
山を越え、ここより北に広がる草原は、古来より草と水を求めて居住を移動する遊牧の民のが支配する土地であった。
秦や漢と戦った匈奴が誕生する遙か昔、後に月氏と呼ばれる部族がまだ名も無き民だった頃。彼らは輪台よりもさらに北、遙かに広がる草原と蒼々たる空の下にいた。
あるとき、彼らの王が死んだ。
後嗣がないことを嘆いた后は、墳墓に入ると王の骸と交わり身籠もった。月満ちて男児を産み落とした后は、この子は先王が神となったその精より生まれたと、王位を主張した。
新王と部民たちは当然后の話を聞き入れなかった。そこで后は告げた。
この子は神の子であり、その徴を見せると。
后は先王の墳墓の前に祭壇を築くと、息子をその前に寝かせた。そして、その腹を割き、はらわたを抉り出し、先王の祭壇に捧げた。
すると、先王の墳墓の中から光る玉が飛び出し、はらわたの入った什器の中に入り、一つになった。
后はそれを息の絶えた息子の、空ろになっていた腹に戻した。すると、光と共に傷は癒え、息子は大きな声を上げて泣き出した。
后は、まだ首の据わらぬ息子を抱え上げると、新しい王の誕生を部民たちに宣言した。
これが後に月氏と呼ばれる、最初の遊牧騎馬国家の、王の誕生の瞬間でもあった。
「うわお」
雪豹は驪龍の話に声を上げた。
「なんだよ、死人と交わるって? 何々、どうやって」
さらに興奮しながら黒豹に向かって早口にまくし立てた。
「な、兄貴どう思う? 逆ならできそうなんだけどさ」
「よく解らんが」
ちょうど頭から湯をかけられ、体中をゴシゴシと洗われていた黒豹は、不機嫌な声を上げた。
「おめえは“人でなし”ってことだけは解る」
「なんだよぉ、つれないなぁ」
「まあ待て、話を続けても良いかな」
膨れっ面の雪豹を制するように驪龍は続けた。
「后の行った儀式は門外不出の秘術として、可汗(王)の一族の、極限られた者たちのみが密かに受け継いでいた。血と臓物と光玉を受け止めた明器とともに」
「もしかして、それが……」
「ああ、そうだ。それが鎮綏椀だ。元は赤子の血と臓物を受けた器だ。そして数代にわたって贄の血を受け止め続けた」
「うわ……」
雪豹は思わず息を飲んだ。
「……ってことは、月氏は死人を蘇らせる術を心得てたって事か?」
驪龍は一瞬言葉に詰まった。
「死人を蘇らせる術は、実はそんなに難しいことではないんだよ」
代わりに紫陽が口を開いた。彼は、大真面目な顔をしながらバガトゥールに囲碁を指南していた。話しながら正装をどんどん着崩していく驪龍とは対照的に、一糸の乱れもなく綺麗な法服のまま碁盤に向かっている姿がとても対照的であった。
「ただ蘇らせるのであれば、私はもちろん、当然驪龍にもできる。ただな、人の寿命というのは定められている。その定めを違えた時、色々な“歪み”が生じる。その歪みが我が身に降りかかるだけならともかく、時と場合によっては、天地を揺るがすものとなる。
それ故、死人を蘇らせられるのはその者が“死ぬべき時ではなかった”という場合だけに限られる。それ以外は禁呪だ」
碁盤から目を逸らさずに紫陽は言った。バガトゥールが長考のすえ一石置くと、嬉しそうに次の一手を打った。勝たず負けず、どれくらい長く打ち続けられるかを考えた手だった。
「実際、鎮綏椀も蘇りの術を使ったのは最初の一度きりだけだった。結局、月氏の高祖も寿命で薨っているから、その術の効力は一度限りであったのだろう。そしてその時、跡継ぎを選んだのは他でもないこの鎮綏椀であった」
高祖には三人の息子がいた。巫覡は黄金に輝く鎮綏椀を三人に示した。長男が手に取ろうとするとそれは赤く燃えた。次男も同じように燃えて手に取ることができなかった。
三男だけは燃えることなく、むしろ輝きを増してその手の中に収まった。そこで長男も次男も、三男を跡継ぎであると認め、ここに揺るぎない帝国の地盤ができあがった。
「以降、鎮綏椀はその名の通り国を鎮め、さらに強大にする力を、代々の可汗に与えたのだ。月氏の”由”になったその部族は、最初は波斯国より西の方で強大となり、後、東に渡った一支が漢の世に月氏と呼ばれる民となり、私たちの知るところとなった。月氏はやがて西走して大月氏と呼ばれ、その裔は今、西域に散らばっている。
その長い存亡を経て、直系のみに秘されていた儀式の詳細は失われ、鎮綏椀も忘れ去られた。そして祀りが絶えたまま千年の時が経った」
それが、ほんの偶然から蘇った。
かつての秘宝は、長い間地中の奥深く他の明器とともに眠っていた。欲得に駆られた盗人から眠りを覚まされたとき、あまりにも多くの血を注がれていたためか、長い間祀られることがなかったからか、かつて黄金に輝いていた器は、鈍い黒紅色にくすんでいた。
しかし、大変凝った意匠が彫られていたため、捨てられずに市場に流れた。
「そこで、鎮綏椀はかつての輝きを取り戻すために、能力ある者を探め、それに応じる者が現れた。それが、明教の者だった」
「明教……」
「……って何だ?」
「商胡たちが信奉している教えの一つだが、気にしたことはないか」
「まあ、あいつらを相手にはするけどね。商売は悪辣なくせに信心深いのは知ってるよ」
商胡――ソグド商人は大沢(アラル海)沿いにありかつては粟特国と呼ばれ、今は史国、康国、安国、石国などに分かれている地域の出身で、西域の通商を一手に担っていた。そして彼らは三夷教と呼ばれる西方発祥の「【示火】教」「景教(ネストリウス派キリスト教)」「明教」を主に信奉していた。
「私たちと違い、彼らの教えは“預言者”と呼ばれる者が伝える“神の言葉”を第一に置く。その中でも、一番新しい流派の明教は教祖摩尼を“最後の預言者”としていた。ところがだ」
驪龍は己の目と耳を遙か西方に集中させた。千里眼と順風耳を持つ彼は、今起こっていることはもとより、過去に起こったこと、そしてこれから起こることを見聞きすることができる。
「摩尼よりももっと力強い言葉を発する預言者が現れたのだ。彼の言葉はしっかりと広がり西方を覆い始めている。明教の本山がある蘇隣国もすでに彼らの手に落ちている」
「へぇ……。西の方でそんなことが起こっているのか。あちこちのいざこざが多すぎて、噂を聞き漏らしていたかな」
「仕方あるまい。やがて強大な力と共にこの西域もその言葉が覆い尽くすことにはなるが、お前たちが生きている間はまだ遠い国の物語だ」
イスラムがメッカを占領し、アラビア各国を従わせてから、まだ数年しか経っていなかった。広大な西域でも、西域北道の東側を本拠とする雪豹たちまではあまり深刻さを以て伝わってはいなかった。
「だが、明教は事情が違う。理由は二つ。一つは明教の本山・蘇隣国が陥ちたことと、もう一つは最後の預言者・摩尼の後に新たなる“偉大な預言者”が登場してしまったことだ。明教の僧侶たちには動揺が広がっている。そこに、鎮綏椀の精はつけ込んだ」
明教の僧侶たちの夢に、鎮綏椀の精は囁いた。強大な力を与えると。
「司教は暗闇の王の声だと、耳を貸さなかった。多くの司祭たちもまた、その言葉を無視した。たった一人を除いて。
彼は鎮綏椀の力を借り、教祖摩尼を蘇らせ新たなる光明神の言葉を広める企てを立てた」
「じゃあ百緡の値で買ったというのは……」
「そう、彼だ。そしてこの金がどこから出たか解るか?」
「え?」
「これには薛延陀が絡んでくる」
唐は貞観四(六三〇)年に東突厥の頡利可汗を討伐し、北狄(遊牧騎馬国家群)を支配下に置いた。唐の太宗は天可汗となり、各部族の酋長を支配下に置くという、いわゆる羈縻支配の始まりである。
しかし、その支配は一枚岩ではなく、突厥内や各部族の間で争いは絶えなかった。中でも薛延陀の真珠【田比】伽可汗は突厥に変わる盟主になろうとし、唐もそれを利用し突厥の弱体化を図っていた。
「件の司祭は薛延陀の設の庇護下にいるのだ」
当時、胡商たちは遊牧騎馬国家の庇護を受け通商を行っていた。彼らに道中の安全を保証してもらう代わりに、政治・経済といった内政や文化的な面を支えるという、持ちつ持たれつの関係を築いていたのだ。
設とは位の一つで、将軍のような地位にある。鎮綏椀を買った司祭は、その設の庇護下でマニ教会を設け、商胡たちや遊牧民の教化に当たっていた。彼は商才もあり、商胡たちを指導して多大な利益を設に与えていた。
「その金儲けの手段が人さらいか……とんでもねぇ野郎どもだ」
「この間の、お前たちが“やり過ぎ”た反動でもあるぞ」
雪豹は「あ」と声を上げて真っ赤な舌を出した。
先だって真珠【田比】伽可汗は唐の公主との通婚を望んだが、公主を迎え入れるだけの財力がなかった。そこで足りない費用を配下の部族から集めたようとしたのだが、どうにもこうにも上手く集まらず、結局話が流れてしまったということがあった。
「あん時は毎日祭りみたいで、面白かったんだけどなぁ」
「娘たちを攫ったのは――もちろん中原に贈った者もいたが――鎮綏椀の儀式のため。千年途絶えた祀りを復活させるためだ」
その言葉を聞いて、雪豹は一瞬背筋が凍った。
「まさか千人の乙女の血を……」
「鎮綏椀はそのつもりだ。幸い、今は大祭前の断食月。潔斎の期間のため、生贄の儀式は止まっているが」
(千年の渇きを、乙女の血で潤すなんてどんな化け物だ)
「しかしおそらく、その教祖を偲ぶ大祭で動きがある」
「大祭って何だよ」
「昇天した教祖摩尼が光となって地上に舞い戻り、光の場所で教徒たちに教えを示す祭だ。ちょうど明後日から始まる」
ガタンと音を立てて、雪豹は椅子から立ち上がった。
「まあ、落ち着け」
今にも飛び出しそうな雪豹を、驪龍は制した。
「さらに悪いことを伝えなければいけない。先日のことだが、亀茲(クチヤ)の姫君とその侍女十二名が攫われた」
「どういうことだ」
「明教の教えには、王権、英知、潔白、確信、廉直、強靱、信仰、忍耐、正直、善、正義、光、この十二の要素ををそれぞれ象徴する十二人の光の乙女がいる。亀茲の姫君たちはその役割を担い、光の使者を迎える力を与えられるはずだ。しかも亀茲人は大月氏の末裔。鎮綏椀も喜ぶ血だ」
「それって、かなり不味い話だよな」
「ああ、術が成った場合、間違いなく天地は揺るぐ」
「とりあえず、雪、一言で言うとぶっ潰すでいいんだよな」
異形に気・血・精の流れを整えてもらい、おまけに紫陽に導引も施してもらった黒豹はすっかり回復し血色の良くなった顔で言った。
「ああ、薛延陀と明教の奴らの企みをぶっ潰して、お嬢さんたちを助け出す」
「おし、行くぜ」
「――まあ待て」
驪龍は二人の会話に割って入ると、二人に呪符を渡した。
「迅行符だ。これがあれば今夜中に目的地に着ける。彼らは高昌城の北二十里ほどのところに宿営地を設けている。そこまではこの迅行符が使える」
「亀茲のお嬢さんたちもそこか?」
黒豹の問いに驪龍は頷いた。
「ちょうど宿衙に向かって山道を進んでいるところだ。彼女たちも夕方には着くだろう」
「何でまた、亀茲の姫君なんか」
雪豹は腑に落ちない感じで聞いた。
「阿耆尼との通婚が決まっていて、そのために亀茲を出たところで連中に掴まった」
「あー成るほど」
高昌討伐の時、亀茲は唐側につき阿耆尼を討ったが、その後王が代替わりしてからは唐から離れ、阿耆尼同様西突厥側につくようになっていた。今回は「関係改善」の意図があったらしい。
「ごちゃごちゃうっせーぞ、雪。行くぜ」
「まあ待て」
驪龍は二人に服を渡した。
「この服には辟兵の術をかけてある。どうせ多勢に無勢で行くのであろう? これを着ておけば剣戟や弓矢から身を守ってくれる」
「この服趣味じゃないが、助かるな。ありがとうよ」
黒豹にしては珍しく素直に受け取った。子守の礼だと思ったのだろう。
「それから、明日の朝には合流できるよう、お前たちの仲間にも迅行符を用意してある」
「色々親切だな」
「本来なら、お前たちが“関わる”べきことでなないことだ。手を貸すよ」
「何言っているんだよ」
絹でも綿でも麻でもない、不思議な風合いの上衣に袖を通しながら黒豹が言った。
「薛延陀の金子やら家畜やらを奪ったのは俺ら一味。だから俺らが落とし前つける」
「そういうこと」
雪豹もにやりと笑った。
「では、迅行符は私が届けるよ。ついでに女狐の顔を見たいのでね」
紫陽がそう言うと、雪豹は眉間に皺を寄せて睨み付けた。紫陽もいつでも出られるような、青い単衣の道服に着替えていた。
「言っただろう、彼女は古い友人なんだって」
「解ってるよ。とりあえず、落ち合う場所と符牒を教えておくから、アイツらに伝えてくれ」
軽く舌打ちをしてから雪豹は言った。口惜しいが時間が無い。
「じゃあ、行くよ」
二人は急いで支度を済ませると、馬の背に跨がった。
「そうだ、紫陽先生」
去り際に黒豹は言った。
「面白いことになりそうだって、親分に伝えておいてくれよ。“無理難題”にワクワクしてるってな」
二人は馬に拍車をかけると、呪符の力によって砂塵のように姿が消え去った。迅行符は、千里の距離を一刻に縮める力があるのだ。
「たくましい連中だな。女狐がギリギリで動いても大丈夫と踏んだわけだ」
二人を見送りながら紫陽は驪龍に言った。
「若造二人に任せるにはやっかいすぎる案件だがな」
「それについては申し訳なく思ってますよ。彼らの動きを察知しながらも、今日の件があって動くに動けなかった……」
「全てを見聞きする能力があるとしても、万能ではない」
「解っています……ただの感傷です」
「相変わらず、可愛気のないやつだな」
紫陽の言葉に驪龍は思わず苦笑いをした。
「この件は、女狐がやると言った以上、任せておけ」
「ええ、でもあの鉄勒の子を育てている以上、私も無関係ではありません」
ちょうどその時、庵の中からバガトゥールが飛び出してきて驪龍に抱きついた。ウトウトしていたら部屋の中に誰もいなくなっていることに気づいて不安になったらしい。
「――しかし、今日の仕事は見事だったな。元君も褒めていたよ。早く仙籍を得て仙界に来るといいのに」
「嫌ですよ」
驪龍はきっばりと断った。
「私はその時が来るまで、この子と荒涼としたこの地にいると決めています」
冷たい風が頬に当たった。間もなく日が暮れる。
「師兄、早く女狐のところに行かないと、日が暮れますよ」
「解ってるよ」
紫陽は驪龍から預かった荷物を見せて笑った。
「天地広しといえど、仙人に物申せるのはお前ぐらいだな」
彼はゆっくりと歩きだし、あっという間に視界から消えた。
長い一日が終わろうとしていた。そしてまた、長い夜と昼が始まる。
※文中【】の文字はあわせて一文字です。(環境依存文字で表示されないための苦肉の策汗)
最初のコメントを投稿しよう!