第四章

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第四章

「こんな時間でも結構人の出入りがあるなぁ」  少し離れた丘に立ち、灯りがともる穹廬(きゅうろ)の群れをながめながら黒豹は言った。日が暮れてからかなり経つのに、それぞれの穹廬を出入りする人が耐えなかった。 「給仕かなんかだろうな……なんでも明教の連中は祭りが始まるまで、日が出ている間は飲み食いできないってさ。だから一日分を今食べてるみたいだよ」 「ふうん」  黒豹はあきれたように呟いた。 「なんちゃって食うや食わずか。何の意味があるんかね」 「知らん」  明教の大祭――ガーフ大祭は、ササン朝ペルシアの皇帝の不興を買い、投獄ののち殉教した教祖摩尼(マーニー・ハイイェー)を偲ぶ祭である。伝えるところに依ると、教祖摩尼は獄中にいた二十六日間、断食をして過ごしていたという。信徒たちも同じ二十六日間断食をすることによって、教祖の苦難を追体験しているのである。 「食い物があって食わないなんて、飢え死にしそうな連中からしたら贅沢だとは思うけどさ」 「贅沢知ってる"良家(いいとこ)のボンボン"が言うな」  黒豹が雪豹の頭を小突くと、反射的に雪豹も黒豹の鳩尾に一発喰らわせた。 「でも、大分羽振りがいいようだな。去年もっとやってやりゃ良かったな」  宿衙は予想以上に大きく、数多くの穹廬が並んでいた。 「今の司祭がこっちに来たのが半年ぐらい前らしいよ。おそらくはそれからだ」 雪豹は灯りの灯る穹廬の数を数えた。一番大きくて人の出入りが多いのが教会なのだろうか。守備する兵士は、遠目からだとよく見えない。 「薛延陀兵(あいつら)は結構やっかいだからな。そいつらがどれくらい詰めているかだな……」 「あん時も結構何とかなったから大丈夫じゃねえか」  黒豹の言葉を聞いて、雪豹の口元に笑みが浮かんだ。  あの時、薛延陀と唐の通婚を妨害するため、女狐たちは徹底的に仕掛けた。  唐への献上品となる馬や羊を運ぶ牧民たちや、部民から徴収した金子を運ぶ商胡たちを毎日のように襲った。  牧民たちは馬羊のほとんどが後から戻ってくることを知ると、涙を流して喜びながら進んで馬羊を差し出すようになった。  一方の商胡たちは、屈強な薛延陀兵が守りを固めていた上、狡猾な商胡たちが上手く金子を隠すので、場数を踏んだ女狐も手を焼くほどだった。  一味のほとんどが牧民たちに標的を絞る中、ひたすら商胡たちを襲っていたのが黒豹と彼を慕う連中だった。 「今回(これ)も面白くなるぜ」 「そうだな、兄貴。バカ騒ぎしようぜ」  これから合流する連中は、その時も一緒だった。危険を危険と思わない“紙一重”の奴らだ。  企てが上手くいくかどうかは、雪豹(じぶん)次第。何とかなるんじゃなく、何とかするんだよな。  雪豹は懐から巾を取り出すと、するりと顔と頭に巻いた、 「明日は大祭とやらの前になるから、各地に散っていた商胡たちも戻ってくるはず。動くなら早いほうがいい。とりあえず、下見に行こうぜ」 「ああ、アイツらは夜明け前には来るだろうから、それまでに動き決めよう」  黒豹もそう言うと、黒い巾で顔を隠した。二人は互いに目で合図をすると、軽やかにそして音もなく丘を駆け下りていった。 「こりゃ……ひでぇ」  宿衙に侵入する前、ちょうど真南に当たるあたり、山肌近くで異変を感じた雪豹は、黒豹を呼び止めてそこへ向かった。  そこは窪地になっていて、死体が山積みになっていた。暗くて正確な数は解らなかったが、相当数あるようだった。 「全部……若い娘だな」  無造作にうち捨てられている死体が全て若い娘のものだと知ると、二人の背筋に冷たいものが走った。例の、生贄なのだろう。 「こんなゴミみたいに打ち捨てられるなんて、親も浮かばれないな……」  月明かりを頼りに窪地の中を確かめている雪豹が呟いた。  明教は、血肉は悪魔からできており、光である魂を閉じ込めている牢獄だと考えている。それ故、他の宗教と違い亡骸を弔う習慣はない。 「新しい血の臭いはしないから、確かに“潔斎”の間はやっていないようだな。それだけは救いか……」  亀茲の十二人の他、まだどれくらい乙女たちが囚われているのか……。 (これが解らないと、動きが決まらねぇな) 「おい、雪」  今度は、黒豹の耳が何かを捉えたようだった。 「姫様、とにかく、逃げて……」  血の気の失せた顔で少女は言った。口の中には血の味がいっぱいに広がって、気持ち悪かった。追っ手が迫る音が聞こえてくるのに、足はもつれて、もう一歩も動けない。 「私が、彼らの気を逸らしますから、早く外へ」 「ダメ!」  もう一人の少女がギュッと手を握って励ました。 「私ひとりじゃ何もできない。アイーシャお願い、頑張って」  その時、薛延陀兵の声がした。見つかったのだ。少女たちはお互いの手を強く握って目をつぶった。  近づく足音に身を固くしていると、次の瞬間、大きな音がした。  二人は目を開けると、すぐ側に薛延陀兵が転がっていて驚いた。見上げると覆面をした二人の男が月を背に立っていた。 「おっさん、こんないたいけなお嬢さんたちをいじめるなんて、悪い奴だぞ」  そう言うと、背が高い方の男は薛延陀兵を軽々と持ち上げ、側にあった荷車へと放り投げた。 訛りが強いが、間違いなく漢語だ。少女たちは彼らが胡人でも薛延陀でもないことに少しほっとした。  それから男たちは、二人をさっと抱え上げると大きく飛び上がった。そして近くにあった胡楊の木の上へと一気に駆け上がった。 「シッ」  男は少女に静かにするように指示した。  下から、少女たちを探す薛延陀兵の声がした。追っ手が次々に通り過ぎていった。  どれくらい時間が経ったろうか。男の息づかいと心臓の鼓動の音に、不思議な安心感を覚え始めたとき、ふわりと体が浮く感覚を覚えた。と、次の瞬間には地面に降りていた。 「もう大丈夫。追っ手は今見当違いのとこ行ってるから安心しな」  少女はもう一人の少女――アイーシャの方に駆け寄ると、不思議そうな顔をして彼を見た。 「あー、俺たち怪しいけど怪しいものじゃ……って、雪、俺たちの言葉通じてるかな」  少女二人がぽかんとこちらを見ているのに困って、黒豹は雪豹に助けを求めた。  当時の西域諸国では自国の言葉以外にもいろいろな言語が飛び交っていた。交易に関しては(ソグド)語が主流。政治的には唐の勢力が強くなっては来ていたが、まだまだ西突厥の支配も強く、漢語も通じたり通じなかったりするのが実情だった。 「この服装は間違いなく亀茲のお嬢さんだと思うけど、俺も吐火羅(トカラ)語はわかんないよ」  大月氏の末裔である亀茲や阿耆尼は、周辺とは少し違った吐火羅語という言葉を使っていた。 「でも亀茲はこの間までは唐寄りだったから、多分、キレイな漢語なら解るんじゃね?」  訛りが強くて悪かったなと、黒豹は雪豹に悪態をついた。 「古都洛陽の“お貴族様”に戻って話してみらぁ」  そう言って雪豹は黒豹に目配せすると、二人の少女の近くに寄った。 「お嬢さんたち、もしかして阿耆尼に行く途中で攫われた亀茲のお姫様たちですか?」  ゆっくり丁寧に話す雪豹の言葉に、二人はゆっくりと頷いた。 「そう、良かった。私たちは“女狐”の一党なんだが、ご存知で?」 「あっ」と小さく声を上げると、少女たちはほっとした表情を浮かべた。去年の騒ぎは亀茲へもしっかりと伝わっていたらしい。 「知っているなら話は早い。私たちはこの薛延陀とそこそこの因縁がある。そして女狐の親分から、あなた方お嬢さんたちを助けるように命を受けている。だから安心して大丈夫ですよ」  二人の少女はもう一度頷いた。 「じゃあ、教えてください。他の十人はどこへ?」  今度は二人とも首を横に振った。 「解りません」  アイーシャが口を開いた。 「私は、この姫様の侍女で、幼き頃より身の回りのお世話をしています。だからでしょうか、私たち二人だけは別の穹廬に連れて行かれました。先ほど夕餉の給仕が出入りする隙をついて抜け出てきましたので、他の者がどこにいるかまでは……」  薛延陀兵の隙を突くとは、勇気あるお嬢さんたちだと黒豹は感心した。 「雪、これじゃ下見どころじゃないな。追っ手がこっちに気づく前に、いったん高昌へ戻ろう」 「ああ、でもこっちのお嬢さんは無理、連れてけない」  そう言って雪豹はアイーシャの手を取って脈を診た。弱々しい脈が触れた。 (やっぱり……) 「こっちのお嬢さん、かなりのケガをしてる。おまけにそこから邪気も入ったらしく熱もある」  アイーシャはゆっくりと頷いた。それを見て亀茲の姫は悲鳴を上げた。 「アイーシャ、あの時なの? 私が下手に抵抗したから……」  姫はこの宿衙に入る前にも一度逃亡を企てていた。その時振るわれた鞭から姫を守ったのがアイーシャだった。 「大丈夫、大丈夫です」  姫君を宥めるようにアイーシャは微笑んだ。 「姫様を守るのが、私の役目です」 「でも……」  黒豹は手を伸ばして、それでも何か言おうとする姫君の口を手で塞いだ 「気持ちは分かる。でも静かにしてくれ。連中に気づかれる」  姫は涙を流しながらも、黒豹の言うことに従った。 「こっちのお嬢さんは全然大丈夫じゃないよ。傷口が開いてかなり出血してる。下手に動くと命の保証できない」  よく見ると、右肩のあたりにうっすらと血がにじんでいた。 「手当は?」  黒豹の問いかけに雪豹は首を振った。 「油断した。今回は辟兵布を着てるから、そういうもん全部高昌に置いてきちまった。今あるのは古傷が疼いたときに使う散薬ぐらい。まあ、古傷に効くもんは新しい傷だって変わらないだろう。とりあえず、この散薬と応急処置で一晩頑張ってもらうしかない」  アイーシャは雪豹の目を見て頷いた。 「イヤよ!」  姫の方は大きく首を振った。 「アイーシャと一緒じゃなきゃ……私。だったら私も一緒に戻る」 「ダメだ」  雪豹は姫を制止した。 「儀式には十二人必要だから、お嬢さんたちは攫われた。逆を返せば十二人揃わなきゃ儀式は行われない。亀茲のお嬢さんが一人欠けることで、もう一人も守られるんだ」 「どういうこと?」 「とりあえず、薛延陀兵はああだが、明教の信徒は“闇落ち”しなきゃ善良だ。悪くは扱われないはずだ。だから今は信じて高昌へ行ってくれ。明日、夜が明けたら必ず全員助け出すから」 「絶対……?」 「ああ、天地神明に誓って」  大げさな身振りで言う雪豹を見て、姫は泣くのを止めて笑った。 「お嬢様、私は、大丈夫ですから」  アイーシャはもう一度力強く言った。それを見て、姫は納得するしかなかった。 「兄貴、俺はこのお嬢さんを送ってくる。ついでに中を見てから戻るから、亀茲のお姫様は頼む」 「ああ、解った。いつものところで待っている」  雪豹に目配せしながら、黒豹は姫を抱え上げた。 「お嬢さん、悪いが馬は丘の上の方にいるんでね。このまま駆け上がるよ。しっかり掴まってくれ」  そう言うや否や、黒豹はさっと丘を駆け上がって行った。 「じゃあ、お嬢さん」  一方の雪豹は、気丈に意識を保っているアイーシャを穹廬へ運びながら言った。 「一晩、頑張ってくれよ。明日絶対迎えに来るから」 高昌城市の外れ、往来の多い街道沿いにこぢんまりとした飯屋があった。 「お嬢さん、もう着くよ」  黒豹の腕の中でウトウトしていた亀茲の姫は、その言葉にハッと目を覚ました。黒豹は何も気にしない感じで、馬の足を進めていた。 「あの、これ……何の香……ですか?」  不思議と落ち着くのは、この服からふんわり香る不思議な香りのせいかもしれないと思って聞いてみた。 「香? 何じゃそりゃ」 「この服から……」  彼女が何を聞きたいのか解った黒豹は笑いながら言った。 「これは知り合いの道士からの借り物だから、いっつも作っている薬の臭いが染みたんじゃねえかな。ヤバイ薬じゃないとはは思うが」  笑い声にビックリして、彼女は黒豹の顔を見上げた。両目以外を布で覆っているので、どんな表情か読めない……。 (一体どんな顔しているのかしら)  そう思うと同時に、姫は不思議に胸の隅っこがきゅっとなる感覚を覚えた。  飯屋に着くと、黒豹は慣れた感じで裏庭に馬を止め、周りに誰もいないことを確かめてから裏口から中に入った。  薄暗い厨房の隅に、燭台の灯りを頼りに、少し恰幅のいい女性が縫い物をしていた。 「三姐さん」  黒豹が声をかけると、女性は嬉しそうに立ち上がった。 「休んでていいのに、起きてたのか」 「当たり前。久しぶりに会うかわいい弟の帰りを待たないなんてできないよ」  彼女は背伸びして手を伸ばすと、嬉しそうに黒豹の頬をぱしぱしと叩いた。そして黒豹の後ろに、年の頃十五ぐらいの少女がいるのを見て、「あら、まあ」と驚きの声を上げた。 「この子は?」 「亀茲のお嬢さん。薛延陀から逃げていたところを助けた」  彼女はまた「あら、まあ」と声を上げた。  その様子をキョトンと見ていた亀茲の姫に、黒豹は照れくさそうに彼女を紹介した。 「これは俺の三番目の姉さん」 「この子は私の三十番目の弟」  壮年の女性は笑いながら言った。姉弟と言ってもあまりにも似ていないので、姫は二人を見比べた。背が高く色黒で筋肉質の黒豹に対して、彼女は中背で恰幅が浴く色白で、典型的な漢人の顔立ちをしていた。 「こんな可愛いお嬢さんが来ると解ってるなら、水菓の一つでも用意しておけば良かったわ」  三娘はそう言ながら厨房を出て、客席のホコリを払うと姫に座るように促した。別の席では三人の男が座って黒豹を待っていた。 「なんだ、三兄弟も雁首揃えて」  三人は三娘の息子たちで、長男と次男はそれぞれ家を出ていたが黒豹が来ると言うことで集まってきたのだ。 「おう、叔父貴。こっちこっち」  長男の手招きに応じるように、黒豹は顔に巻いていた布をほどき席に着いた。  無造作に巻いていた布の下から現れた、左半分が無残にも潰れ、大きな傷痕に覆われたその顔を見て、姫は思わず悲鳴を上げた。どんな顔かといろいろ想像していたが、これは予想外だった。 「ああ、悪い。“初心者”には刺激が強かった」  黒豹は側にあった皿で、すっと左半分を隠した。 「何やってんの、いい男が台無しだよ」  三娘は彼の手から皿を奪うと、彼の前に肉が盛られた皿と杯を置いた。 「二郎が持ってきた上等な肉だよ。たんとお上がりよ」 「おかげで明日売るものがなくなっちまったけどな」  同じ城市で肉屋をしていた次男は、笑いながらそう言った。  普通に“団欒”をしている彼らを見て、姫はどうしようもない罪悪感に囚われ、真っ青な顔で震えていた。  助けてもらった恩と、道中与えてくれた安心感。酷く醜い傷痕を見て、強い嫌悪感を抱いた自分。  どうしよう、どうしたらいい……。 「お嬢さんはこれを召し上がれ」  必死に涙をこらえている彼女の前に、三娘は薬草茶(ハーブティー)を差し出した。 「よく生き残ったと思うぐらい、酷い傷痕だろう? でも、これを一杯飲んでる間に、見慣れるから、安心なさい」  そう言って笑いながら、三娘は彼女の前に座った。  香りの良い薬草に、三娘は貴重な糖蜜を奮発した甘く温かい飲み物。一口飲んだら確かに気持ちが落ち着いてきた。 「姉弟、なんですか?」 「そうよ。腹違い種違いのね」  三娘はケラケラ笑った。 「私らは涼州の遊郭の生まれ。遊女の子供さ。遊郭の主人は生まれた子供をひとまとめにして育てるから、姉弟になるの。それで育ったら女は遊女、男は適当に外へ出す。私は不器量だから客を取ることより下働き中心でね、その働きぶりを見初められて、涼州からこの高昌くんだりまで来て、今は飯屋の女将。あの子はあの子で家を出て唐の軍隊に入ったら、死にかけてあの顔さ」  三娘はもう一杯お茶を注いだ。 「唐軍が攻め込んできたときは主人も死んで、もうどうなるかと思ったけどね。何とかこうやって生き延びて、孫にも恵まれた。もう会えないと思っていた弟にも不思議な縁でまた会えた。大変なことがあったって、命あればいいこともあるのよね」  よっこらしょと声をかけて、三娘は立ち上がった。 「今日は怖いことがいっぱいあったことでしょうけど、この先いいこともありますよ。もう夜も更けたし、ゆっくりおやすみなさい。今、休むところを支度してくるから、ゆっくりそれを飲んで待ってなさい」  三娘は姫のショールをきれいに畳んで手渡した。そしてパタパタと足音を立てて奥へ歩いて行った。 「じゃあ、叔父貴、まずは一献」  太郎が差し出した盃を、黒豹は断った。 「雪が来るまで待ってるよ」 「叔父貴が酒を断るって……何か厄介なことでもあるんかい」 「まあな……」  他愛もない世間話をしていると、ガタンと音がして裏口から雪豹が入ってきた。 「早かったな」  そう言って黒豹は酒の入った盃を雪豹に渡した。雪豹は黙ってそれを飲み干すとガタンと椅子に座った。 「隙だらけだったから、楽勝」  そう言うと、肉の塊にかぶりついた。 「亀茲のお姫さんは?」 「三姐と奥で休んでいる」  黒豹は空になった雪豹の盃に酒を注ぐと、残りを自分の盃に注ぐとそれを二人で飲み干した。  さらに肉を頬張り、それを酒で飲み下すと、雪豹は大きなため息をついて言った。 「なあ、三兄弟。唐軍に伝手なんてないよなぁ」 「まあ、飯食いに来る客の中にはそれなりに唐兵はいるけど……」 「むしろ、軍にいた叔父貴たちの方が伝手はあるんじゃない」 「俺たちがいた軍は全滅してるんだ。知ってる将校は全部草葉の陰」  二郎と三郎に酒を注ぎながら、黒豹は言った。三兄弟のうち太郎だけは黙々と手酌で酒を飲み、肴をつまんでいた。容姿は三人とも母親によく似ていたが、婿に行った先で日がな一日田畑を耕している太郎が一番たくましい体つきをしていた。末っ子で店を手伝っている三郎は細くてひょろっとしているのと対照的だった。  雪豹が前歯でギッと肉を引きちぎり、口に酒を含んだ。 「いや、悪い。聞かなかったことにしてくれ。カタギのあんたらを巻き込むわけにはいかないし」 「何、兄貴、水くさいことを」 「その通りだよ。これ以上は三姐に迷惑かけられねえ」  黒豹は二郎の盃に酌をすると、笑ってその肩を叩いた。 「軍の師団ぐらい動かせりゃ楽なんだけどなぁ」  ため息交じりに雪豹は言った。 「雪、弱音か、珍しいな」  詳しい話を黒豹にしようとして、雪豹は目配せした。 「ああ、俺たち宵の口から飲んでるんだ。明日の朝には飲み過ぎて記憶がなくなるよ」  彼の様子に気づいた二郎は言った。太郎と三郎も笑って盃を掲げた。 「悪いな」  雪豹はそう言って黒豹に顔を近づけた。 「やっぱり真ん中の一番大きいのが教会でさ」  雪豹は箸の先に酒をつけて、卓の上に丸を書いた。 「亀茲のお嬢さんたちはこの教会の周りに配置された、五つの穹廬に二、三人ずつ分けて囚われてる。その周りに、商胡たちが寝泊まりする穹廬。そして一番外側に、生贄になるであろう娘たちがいる穹廬がやっぱり五つ。配置は、多分、明教の教えとやらに従っているんだろうが隙だらけ。南側を背にする形になっていて、そこが思いっきり死角だ」  ちょんちょんと配置を示しながら、雪豹は続けた。 「問題は、この娘さんたち。さっと中を見ただけだから正確な人数は解らないが、一つの穹廬に十人前後。結構な数だ」 「何?」 「俺の見立てでは全部で六十人。明教は、どうやら特定の数にこだわりがあるようだ。亀茲のお嬢さんたちが十二人。この十二と五に意味があるようだし、ここしばらく生贄の儀式を行っていないようだから、おそらく最大数いる」 「ぞっとするなぁ」 「ぞっとするぜ。石亀たち四人が来て、こっちは六人。亀茲のお嬢さんたちだけなら俺たちだけで何とか連れて行ける。だけとあと六十人。俺たち一人当たり十人だぜ。手に負えると思うか?」  無理無理と黒豹は首を振った。遊郭育ちの彼は、子供の頃の経験から年頃の娘たちの集団が苦手なのだ。 「一気に運ぶなら馬車だけど、亀茲のお嬢さんを合わせて七十人以上も運ぶ分だけ調達する時間がない。明日からの大祭に備えて宿衙は賑やかになるだろうから、動くなら人が少ない早いほうがいい。夜中まで飲み食いしているようだから、連中の動きが鈍くなる朝一で動くのが一番なんだけど……」  亀茲のお嬢さんたちだけなら、問題なく助け出せる。だが、これは下策。女狐だったら、市居の貧しい娘たちを助け出せなくては意味がないと怒るだろう。それに、質より量で大祭中一気に六十人やられたら、どうなるか……。あの無造作に捨てられた骸から感じた狂気は忘れられない。 「だから師団か」 「軍隊ぶっつけたら、楽なんだよ、マジで。いや、俺だって“親戚筋”当たればどっかのつながりで何とかなると思うけど、そんな時間が合ったら別の手を仕込む。一ヶ月……いや半月あれば俺たち六人だけでも余裕で七十二人連れてける準備はできる。問題は、仕込みする時間がないってこと」  もう夜明けまでもう時間がない。 「今、手詰まりなんだよ。どう出るか……」 「口の雪豹(おまえ)と顔の胡忇(あいつ)で女七十人、何とかなりそうだけどな」 「兄貴、それ本気で言ってる?」  頭をかきむしりながら、イラッとした口調で雪豹は言った。  その頃、飯屋の外で不穏な動きをする者がいた。 「ここで間違いないか」 「ああ、間違いない。この中にいる」  男たちは、手に持った怪しげな枯れ草に火を点けると、扉を押し破りそれを店内に投げ込んだ。
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