第6章

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第6章

高昌城市から草原への窓口である輪台へ向かう街道を彼らは行った。街道は高昌を出てから数里は荒涼とした大地を進み、その後は山に沿った曲がりくねった道となった。黒豹たちは朝焼けの中、その道をひたすら馬で駆け上がった。  雪豹は次のような指示を皆に出した。  石亀と蜉蝣は薛延陀兵に混じって中に侵入。まずは使った馬を厩舎に戻す振りをして宿衙内の馬を逃がす。  次は摩勒。 「これこれ」  雪豹は黒く丸い粒を出すと、山肌に向かって投げつけた。それはパーンと乾いた音をして弾けた。 「面白いだろーっ」  ケラケラ雪豹は笑った。 「最初は穹廬に火を付けてやろうかと思ってたんだけど、これもらったからガンガン使おうぜ」  目をキラキラさせながら、雪豹は摩勒に包みを渡した。 「これは火を付けると弾けるヤツ。これを穹廬に仕掛けてくれや。火は俺が付ける」  包みには仕掛ける場所が簡単な見取り図とともに書いてあった。  これは黒色火薬を使った爆竹のような物。先ほど投げたのは癇癪玉。火薬が広まるのは宋代に入ってからだが、火薬の材料はもともと仙丹を作る材料と同じであり、仙丹をつくる道士たちの間では知られた処方であった。  それから各々に“癇癪玉”を渡した。 「何かあったらこれを投げつけてくれ。派手な音が鳴るから、目くらましにはなるだろうよ」  さらに雪豹は手はずを説明した。 「摩勒が仕掛けたヤツは順番に鳴らす。爆音と煙が出るから、驚いた馬は逃げるだろうし、兵士たちも慌て統率が取れなくなるはずだ。石亀と蜉蝣、摩勒の三人はその騒ぎに紛れて六十人の娘たちを連れ出し、高昌方面へ南下しろ。途中で胡忇と合流できるはずだ。俺と兄貴は奥まで入って、亀茲のお嬢さんたちを助け出す」 「雪の兄貴」  摩勒が口を開いた。 「今回お宝は?」 「今回はとにかく娘さんたちを逃がして唐軍に渡すことを優先してくれ」  ただし、といいながら雪豹は笑った。 「懐に入るぐらいなら、土産にしてもいいぜ」 「唐軍は俺たちを捕まえないか?」  心配そうに石亀が訊いた。一応、彼らはお尋ね者の身ではある。 「今回に限っては、心配いらねぇ。そんなことしたら、京師(みやこ)から討伐軍が出て、都護の首が飛ぶぐらい功力ある“紹介状”もらったからな」  噂が本当ならば、驪龍は出家しなければ、今頃は皇帝の側近中の側近だったはずの人だったらしい。そして何より驪龍は人を売ったりするような下衆でもない。 「とりあえず、いつもながらの多勢に無勢。一気にやらなきゃ命はねえぞ。一気にカタを付ける」  黒豹と雪豹は他の連中と別れると、バガトゥールを連れて宿衙の裏の方に回っていった。  少し狭い道を抜けて少し行くと、広い草地に抜ける。そこに宿衙がある。簡単な柵で囲われ、遊牧民伝統の住居である白く丸い穹廬が点々と配置されていた。 「おい……」  点在する穹廬を線で結ぶと、幾何学模様が浮かび上がることに、黒豹は気づいた。 「兄貴も気づいたか」  おそらく、これは何か宗教的な配置なのだろう。 「実際の攻守を考えてないから、死角も多い。特に南側がおかしいと思わないか?」 「そうだな」  暗黒の王は南にいるという伝説が明教にはあった。執拗なまでに南を“霊的”に守護する作りが異様に見えた。そして南方への障壁が、逆に南からの侵入をたやすくさせていた。  出入り口もそうだ。わざわざ道を曲げて、西から入るようになっている。その曲がった道を“薛延陀兵”に連れられて行く姫君が見えた。 「薛延陀兵あいつら、結構素直に言うこと聞いてくれたよな」 「そりゃ、三娘さんにこき使われるよりは、こっちを選ぶぜ」 「そうか? 最後まで頑張りゃ、絶品の飯にありつけるのに……」 「三娘さんは高昌城市最強の三兄弟を産み育てた最恐の母ちゃんだぞ。体が倍ぐらい大きい薛延陀兵が涙目でこき使われるなんて……見てて面白かった」   雪豹は思い出し笑いをしながらバガトゥールを呼んだ。 「そろそろ下へ行くぞ」  それを聞いたバガトゥールは、黒豹の背にぴょんと飛び乗った。黒豹も慣れた感じで丘を駆け下りた。  宿衙内に入ると、三人は障壁の陰に隠れた。 「じゃあ、バガトゥール。こっからは一人で行け。お姫様がいるのは、あの中心にある大きな丸い建物の真北にある。反対側だからここからは見えない。もし、誰かに見つかって何か言われたら鉄勒語でこう言え“お祈りするところはどこ? ”って」  バガトゥールはこくりと頷いた。 「じゃあ、後で会おうぜ」  黒豹が言うと、バガトゥールはおうと拳を挙げた。そしてパタパタと駆け出した。  しばらく様子を見ていると、早速歩いている薛延陀兵に呼び止められていた。兵士はバガトゥールの目線までかがむと、にこやかに行く方向を指さしていた。バガトゥールもニコニコしながら手を振って指さした方に走っていった。 「――あいつが鉄勒族で助かった」 雪豹はほっとため息をついた。  ここは部族関係なく“明教徒”の教区を管理している。このところ明教に改宗する遊牧民も増えているらしい。ほとんどは今日の午後以降から明日朝に集まるらしいが、早めに来た信徒の子だと、薛延陀兵も勘違いしてくれたようだ。 「じゃあ、これを仕掛けてから行きますか」  雪豹は爆竹の束を黒豹に渡した。 「兄貴はお嬢さんたちがいる五つの穹廬に仕掛けてくれ。南側の障壁に掛けるだけでいいよ。おれは教会周辺を念入りに仕掛けるから」 「おい、雪……」  すごくイヤそうに黒豹は言った。 「本当に俺一人で十二人のお嬢さんたちを連れて行くのか」 「何だよ、お姫様もいるじゃん。手伝ってくれるって言ってたじゃん」 「だからだよ、今朝のアレ見たか? 昨日と打って変わったあの気の強さ。アイツらは手のひら返しという必殺技で気分をコロコロ変えるから苦手なんだよ」 「出た、女嫌い。の割には女遊びは好きだよね」  雪豹はまた手が出ると思って身構えていたが、意外にも何もされなかった。その代わり黒豹は苦虫をかみつぶしたような顔をしていた。 「ああ、悪かったよ。兄貴が巨乳好きなのはみんなに黙ってる」  今度はバシンと顔に掌底を喰らったので、雪豹は肘鉄で静かにお返しをした。 (知ってるよ)  古傷が疼く夜は、誰かに側にいて欲しいときがあるんだよな。でも雪豹は今更改めて言うつもりはなかった。 「お姫様を守るって約束した以上はやるしかないだろ?」 「――解ったよ。で、お前はあれか」 「そう、女狐の親分に言われたことやらないとね」  雪豹はにやりと笑った。 カーンと乾いた音が青空に響いた。  黒豹は環首刀を構えながら、“意外“なことに当惑していた。  亀茲の姫がいるはずの穹廬を守っていたのは、胡服を着てはいたが紛れもない漢人だった。しかもかなりの手練れ。長くしなやかな腕から繰り出される剣は正確に急所を突いてきた。  黒豹は一手一手を正確に躱しながらも、こちらからは打つ手を出せずにいた。 (こいつ――)  彼の手にある剣には見覚えがあった。これは…… (あらら……)  雪豹は黒豹と胡服の漢人のやり取りを穹廬きゅうろの上から呆れた様に見ていた。他の見張りはほぼ一発で片付けたというのに。 (何夢中になってるんだか……しかもどんどん穹廬から離れていくぞ) 見るところ、あの男はちゃんと剣術を学んだ者らしい。しかもかなり高い技術を持っている。 (あいつ、結構いい腕をしているな。だけど、内功なかのちからを鍛えちゃいないから底が浅い。今は互角でも、兄貴に勝つことは無理)  黒豹も雪豹も、驪龍が施した治療の副作用で功力は常人の修行百年分は軽くある。辟兵布を来ていなくても最初から勝負はついているはず。 (なのに。兄貴の野郎、遊んやがる)  楽しそうに相手の技を受けている黒豹にイラッと来た雪豹はヒュッと穹廬から飛び降りると、勢いで二人の首を両肘に抱え込みそのまま古井戸に投げ込んだ。  ボチャンと大きな水音が響いた。 「ありゃ?」  思ったより古井戸の水量が多かった。 「――雪!!」  同時にびしょ濡れの黒豹が古井戸から飛び出してきた。 「てめえ、殺す気か!?」 「イヤ、悪い。昨日見たときより水量が増えてるとは思わなかった」  雪豹は視線を合わさずに謝った。 (ケガしない程度の浅い水だと思ったんだが、一晩で増えたか。水脈が変わってるのか……?) 「お前、それが謝るっていう態度か?」 「まあまあ、時間がないってのに遊んでる方も悪いんだって」  そう言いながら雪豹は古井戸をのぞき込んだ。中では首まで水に浸かった胡服の男が、呆然と上を見つめていた。 「あんた、いい腕してるね。俺は無学だからどこの流派だか知らないけど、以前同じ太刀筋は見たことある。陝西の出かい?」 「いや……私は蘇州の出だ」  食いついてきたと雪豹はにやりと笑った。 「へぇ……じゃあ、あんたは同門と同じように武者修行したくて、府兵じゃなく志願して唐軍に入ったんだ」 「……え」 「その剣、唐軍の支給品だろ。わざわざ盗んで使うほどいいできじゃないしな。大方、師匠の反対を押して、修行中の身で従軍したはいいものの、途中でついて行けずに落伍したわけだ。師匠の手前、帰るに帰れず、死ぬに死ねずっていう感じだね」  男は黙って下を向いた。図星のようだ。  と、黒豹が井戸に飛び込み、男の襟の部分をひっつかむと上へ放り投げた。 「兄貴ぃ」  もっといびってやろうと思ったのにと、雪豹はむくれた。 「雪、遊んでる時間はねぇって言っていたのはてめえだろ!?」  そして立ち上がろうとする男に向かって怒鳴った。 「お前も、その身の上に同情するところは無くはないが、手を貸しちゃ行けない連中に手を貸したのは許せねぇ」 「え……?」 「理由が知りたかったら、ここを出て南に一里ほどいった山側にある窪地を見てみろ。この連中がどんな非道なことをしてるか解るから」 「あの娘たちは昇天の儀で天国に行くと聞いていたが……。死体があるのか?」 「あれが天国に行った姿だと思うんだったらもう一度来い。改めて勝負付けてやる」  黒豹はそう言い残すと穹廬の方に走って行った。雪豹もその後に続いた。男は濡れた体を拭きもせず、二人が見えなくなるまでその姿を見ていた。  奇蹟――?  司祭アフターダーンマンベッドは教会の中で祈りを捧げていた。明教の聖職者は一日に七度祈りを捧げる。それはその日の二回目の祈りを捧げていた時であった。  鎮綏椀が大きく呻った。  かすかに震えながら、低く長く音を響かせた。  同時に司祭は、光明が近づいてくるのを感じた。  その時、亀茲の姫が無事戻ったという知らせを受けた。 「祈りの最中です。下がりなさい」  報告に来た者を下がらせると、司祭はさらに深く祈りを捧げた。それに応じるかのように音はさらに大きくなった。光明ももっともっと強く感じられた。 「これは……」  探していたものが、すぐ側にあるしるし。  祈りが終わると、司祭は徐に立ち上がった。 「アイーシャ!」  亀茲の姫は天幕に入ると開口一番、侍女の名前を叫んだ。 「姫様?」  その声に、胡床ベッドに横たわっていたアイーシャは反射的に飛び起きた。 「ダーメ! 寝ててください」  バガトゥールは胡床をぽんぽんと叩いて横たわるように促した。 「あなたの方が先に来てたのね……よく入ってこれたわね」 「うん、見張りの人が黒豹と一緒にあっちに行っちゃったから、簡単に入れたよ」  その言葉に、姫はクスッと笑った。黒豹はいつ来てくれるのだろう? 「アイーシャ、ケガの具合は?」 「それが……」  アイーシャは、バガトゥールの様子をチラリと見ながら少し起き上がった。 「朝日が昇るか昇らないかの頃、青い服を着た不思議な方が音もなく現れると、この肩の傷を治してくださいました。まだ、少し痛みますが、もう大丈夫です」 「それ、先生だよ」  嬉しそうにバガトゥールは言った。 「朝方……?」  朝日が昇る前と言えば、高昌でこの子とその道士会っていた頃だ。一瞬で二十里も移動するなんてこと、どう考えてもできるはずなんてない。 「飛廉だよ。飛廉はね、あっという間に遠くへ連れて行ってくれるんだ」 「飛廉?」 「先生の鳥。黒くて可愛いんだよ」 「……?」  黒豹雪豹の尋常ならぬ動きといい、一瞬にして十数里の距離を移動する道士といい、漢人とはどのような人種なのか。天可汗が統べる彼の地は、人ならぬ人は住まう地か?  姫は大きくため息をついた。伯父上はそれに楯突こうとしているわけか……。 「姫様」  アイーシャは彼女の頬に手を伸ばした。 「顔色がお悪いですよ」 「大丈夫」  姫はアイーシャの手を握って微笑んだ。 「そう、姫様はいつもそうやってお笑いなさいな。その方がずっとよろしゅうございます」  姫は微笑みを続けながらアイーシャの話を聞いた。 「あなた様は幼い頃から男のようでしたから、アイーシャはいろいろと心配をしておりました。お輿入れが決まって、やっとホッとできると思ったらこんなことになってしまって……。でも、無事、阿耆尼に参りましょうね」  目に涙を浮かべながら、姫は頷いた。 「大丈夫」  バガトゥールが吐火羅語で呟くと、にっこりと笑った。 「あなた、吐火羅わたしたちの言葉が分かるの?」 「ちょっとだけ。ちっちゃい頃、覚えた。もうあんまり覚えていないけど、この言葉好き」  ニコニコしている彼を見て、姫も同じように「大丈夫」と言った。  道士と共にいる鉄勒の子。亀茲との縁もあるらしいし、不思議なことだと彼女は思った。 「黒豹、遅いなぁ」  退屈そうに彼は言った。 「そうね……遅いわね」  その時、穹廬の入り口が開き、黒い人影がそこに立っていた。  骨に皮が付いたような細い体に黒いローブをまとい、ギラギラとした大きな目をしていた。 「そうだ……これが探していた光明……」  男は細く長い指が付いた手を伸ばしながら三人の方に一歩踏み出した。
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