第8章

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第8章

「愚行……だと?」  司祭は驪龍に問うた。驪龍は静かに答えた。 「あなたたち明教の僧侶には守るべき五戒がある。 第一戒曰く真実(レシユティアーク)。あなたたちは嘘をついてはならない。 第二戒は非暴力(プルザミア)。天地にあるもの全てを殺しても壊してもならない。 第三戒は不淫(デーンチレーフト)。あなたたちは貞操を守らなければならない。 第四戒は不飲酒不食肉(クーチズパルティアー)。体を清潔に保つため汚れたものを飲食してはならない。 第五戒は清貧(ディシユターチユ)。あなたたちは何も所有せずいかなる利益を受けてはならない」  異教徒の口からスラスラと五戒が出てくることに司祭は驚いた。驪龍は言葉を続けた。「司祭よ。あなたはこの“鎮綏椀”を手に入れるため、多くの犠牲を払いましたね。鎮綏椀の力を蘇らすために、教徒や(シャド)を騙して生贄の娘たちを手に入れ、殺した。第一戒と第二戒、第五戒を破っている」 「だから、何だというのだ」 「中でも第二戒。あなたたちにとって、この世界は闇の牢獄。この闇から抜け出し光の王国へ行くためには、決して破ってはいけない戒め。破ったら内なる光は損なわれ、闇の世界をさまようことになる」 「そんなこと、百も承知だ!!」  司祭は怒鳴り声を上げた。 「異教徒のお前が、我が教えを知ったように語るな。  ああそうだ。私は侵してはならない戒律を破った。だが、それも承知の上。この世界が我が師摩尼(マール・マーニー)の教えで、光に満ちるなら、我が身は喜んで永遠(とわ)の闇に落ちよう」 「そうか……」  驪龍はすっと一歩前に出た。 「では、上清派の道士らしく話を進めよう」  驪龍は訴状を手に取ると、声を張り上げた。 「明教の司祭マンベッド。汝、古来の禁呪を蘇らせ天地を擾乱し、罪なき乙女の命奪うことその数三百五十。玉皇上帝(ぎょっこうじょうてい)の命より、その罪、裁かせてもらう」 「面白い、受けて立とう」  司祭は眼光をギラつかせながらそれに応じた。  驪龍は呪符を取り出すと、口訣を唱えた。それは鬼神となって司祭の方へ襲いかかった。 「思い通りになるかな」  司祭は水晶玉を手にとり、祈りを捧げた、すると強いつむじ風が吹き上がり、鬼神を吹き飛ばした。つむじ風は鬼神を排気口まで運ぶと、一気に外まで吹き飛ばした。  驪龍は慌てた様子もなく、同じように呪符を取りだし鬼神を召喚した。  それは同じように、司祭が巻き起こした風によって飛んでいった。  さらに二度、三度と同じように鬼神を召喚しては、飛ばされるということを驪龍は繰り返した。 「口では偉そうなことを言って、その程度か」  司祭は驪龍が繰り出す技がたいしたことないと嘲笑った。  しかし驪龍は動じることなく、今度は黄色い呪符を取り出した。 「五星」  その名を唱えると、呪符は体格の良い武将の姿となった。しかし、それはただ驪龍を風から守るように立っているだけだった。  その様子を見て、さらに司祭は嘲笑った。 「仰々しく使い魔を出したと思ったらただの風よけか? なら、もっと風を強くしてやろう!」  司祭が水晶玉を掲げると、風はより一層強く巻き上がった。  強い旋風に耐えながらなおも驪龍は呪符を取り出した。 「そんな紙、何の意味がある」  同じ事を繰り返す彼の姿に、司祭は侮蔑を込めて叫んだ。しかし驪龍は構わず命じた。 「伽羅童子、翠羽童子、行け」  鬼神は小さな童子の姿となり、剣を手に司祭の元に飛んでいった。 「馬鹿にしているの?」  今度は炎の渦を水晶から出すと、二体の童子を燃やしにかかった。 「もっと手応えのある者かと思ったが、他愛のない道士だ」  司祭はカラカラと笑った。 「そう思うのは勝手だが」  驪龍は袂から払子を出すと、それで炎をなぎ払った。 「私が何の手を打っているのか、解ってから言うがいい」  炎が消えた後には、何事もなかったかのように二体の童子が剣を構えて司祭を狙っていた。  どちらも大きさは一尺ほど。伽羅童子は黒く、翠羽童子は緑の肌をしていた。  二体の童子が宙を舞い、その剣を司祭に振るおうとしたその時――  背後から別の刃が司祭の胸を貫いた。 「まだるっこしいんだよ」  司祭の影から雪豹の声がした。 「こんな奴、生かしておいて何の意味があるんだよ。てめえのことしか考えない、最低のヤツだろ」  雪豹は柳葉刀を引き抜くと、そこから血飛沫が上がった。 「先生も何、手間取ってるだ、あんたらしくもない」 「いや、雪豹。お前こそ珍しく短絡だぞ」  驪龍がそう言うか言わないかのうち、地面が大きな音を立てて揺れた。鎮綏椀がその弾みに祭壇から転げ落ち、まるで意思があるかのように、倒れている司祭の元へ転がっていった。そして血だまりにはまると、喜んでいるかのように大きく打ち震えた。 「その司祭が、長き修行で育んだ“光”があったから、鎮綏椀を押さえこんでこれたというのに。歯止めが利かなくなった今、“溢れる”ぞ」 「何?」  辺りが急に暗くなり、生臭い風が吹いた。 「長く祀られたものは、やがてそれ自体が意志を持つ。それが精と呼ばれるものだ。鎮綏椀の精の元は、長きにわたり捧げられた生贄。その魄(たましい)が血と共に鎮綏椀に溜まり、邪悪な塊となった」  雪豹は血だまりに蠢く何かを見た。かろうじて人型を保つか保たないかのそれ。頭とおぼしきものはいくつある? 腕は? 足は? それが融合と離散を繰り返しながら、ムクムクと膨れ上がっていった。 「マジかよ……」  あまりのおぞましさに、雪豹は柳葉刀を手に後ずさりした。数歩下がったところでハッと気づくと、目の前に驪龍がいた。  驪龍は一枚の呪符を取り出すと、雪豹の額に貼り付けた。 「五雷法」  その言葉を聞いた途端、雪豹は自分の体が自分のものでなくなった。  彼は、三本の尾を持つ白い狐に姿を変えていた。 「兄さん!」  山道にさしかったところで、向こうから白馬に乗った胡忇が駆けてくるのが見えた。 「胡忇(コロ)、戻りが早いな」  彼の姿を見て、嬉しそうに黒豹は言った。 「あのお嬢さんは石亀の兄さんに頼んできました。ちょうど唐軍の斥候も来たところで、いい案配で娘さんたちを引き渡せそうです」 「そうか、良かった」 「こっち側からは味方しか来ませんよ。敵が来るとしたらあっちだ」  胡忇は黒豹たちが来た方を指さした。馬も彼らの元に戻ったらしく、十数騎がこちらに向かってきていた。 「胡忇、お前は本当にいいところで来てくれたな」 「兄さんにそう言ってもらえると照れますね」  胡忇は少しはにかんだように言った。 「胡忇、頼みがある。この先、道が一番細くなっているところがあるな」 「ええ、荷馬車もすれ違えないほどの」 「そこから先は、お前だけでこのお嬢さんたちを連れて行ってくれ。俺はこの“忘れん坊”とあの追っ手を防ぐ」 「へ?」  胡服の男と胡忇は驚いて奇妙な声を上げた。  特に胡忇は見慣れない胡服の男をいぶかしんで睨み付けた。 「当たり前だろ。胡忇は顔はいいが腕は今ひとつ。逆に“忘れん坊”、お前は腕はいい。お前がやらなきゃ剣の持ち腐れだぞ」 「は、はい。そうですね」  勢いに押されるように胡服の男は頷いた。 「胡忇、行ったり来たりで悪いが頼んだ」 「私が兄さんの頼みを断るわけないでしょ」  胡忇はやれやれといった感じで答えた。 「何往復だってしますよ、あなたのためなら」 「ありがとよ」  それから黒豹は亀茲の姫の方に言った。 「お嬢さん、ここから半時ほど頑張って歩いてくれ。走る必要はない。追っ手は俺たちが防ぐから、大丈夫。安心しろ」  姫はその言葉を聞くと、黙って頷いた。そして羽織っていた辟兵布を脱ぐと、背伸びして彼に着せた。  筋肉質のたくましい体には、たくさんの傷痕があった。背中の傷はまだ癒えていないというのに、この人は……  姫は顔を上げて、黒豹の顔をのぞき込んだ。 「大丈夫、先に行っています」  そう言うと、胡忇と共に先に進んでいった。  黒豹と胡服の男は、道の細くなっているところまで来ると、後ろを振り返った。薛延陀兵はもう目と鼻の先まで迫っていた。 「じゃあ、一暴れしようぜ、“忘れん坊”」  黒豹は環首刀を構えて言った。 「ここで半時ほどこらえれば、お嬢さんたちは唐軍のところまで辿り着く。たいした時間じゃない」 「は、はい!」  胡服の男は、掌の汗を拭った。落ち着かないと、剣も上手く握れない。 「行くぜ、血の紅い雨、降らせてやろうぜ」  黒豹はにやりと笑った。 (何やったんだ!?)  雪豹は口をパクパクさせた。思うように声が出ない。 「すまない。ちょっと“人手不足”でね。手伝ってくれ」 (はあ? だからって俺をこんな姿に――!?)  声なき声で罵倒する雪豹に驪龍は苦笑いをした。 「五雷法をかけてもなお、そこまで文句が言えるとはさすがだな」  驪龍はさらに口訣を唱えた。 「溢れだしたものを片付けるぞ。伽羅童子、翠羽童子」  二体の童子は屋根まで届こうとする“塊”に斬りかかった。童子は剣で塊を細かく斬り刻むと、その欠片はもの凄い速さで室内をぐるぐると飛び回った。 「雪豹! あれを捕まえてこちらへ寄越せ」  雪豹は驪龍の命を受けると、自分の意思とは関係なく、その欠片を追いかけ飛びかかった。  雪豹は、欠片を口に咥えると、それが人型になっていることに気が付いた。粘土で作ったような手足に、のっぺりした顔。眼球はなく、窪んだ眼窩は涙のように何かの液体がたまっていた。口はパクパクと、何か言いたげに動いていた。 (うげっ)  吐き気を堪えながら、雪豹はそれを驪龍に投げつけた。  驪龍は宝剣を手にとると、上下左右、奇妙な動きでそれに斬り付けた。すると、それは乾いた土になり、サラサラと崩れて消えた。 (何だよ、これは?) 「いいから、次を寄越せ」  驪龍の言葉に、雪豹は気持ち悪いのを我慢して次を捕まえて投げつけた。気がつけばもの凄い数の人型が、室内を所狭しと飛び回っていた。 (これ全部!?) 「そうだ」  雪豹は、せわしなく動く二体の童子と対照的に、まったく動かない武将に気づいた。 (なんで、あのおっさんは動かないんだよ) 「五星にぶつかるなよ。一歩でも動いてしまうと、結界が壊れてこれが外に飛び出してくぞ」  驪龍は、司祭と対峙するように見せかけてこの教会を外界から隔離していた。四体を外に配置し、要となる鬼神を中央に配置することでその結界を完成させ、鎮綏椀の力が教会の外にいる他の信者たちに及ばないようにしていた。 「早く次!」  驪龍の言葉にビクっとした雪豹は、慌てて一体を捕まえて彼に投げた。 「足を止めるんだよ! 足を」  黒豹の言葉に、胡服の男は慌てて剣を構え直した。 (強い……)  黒豹は崖を上手く利用し、高さを使った攻撃を巧みに仕掛けていた。数が圧倒的に不利だというのに、それを感じさせない動きで次々と薛延陀兵を崖の下に落としていった。  一方の胡服の男は、黒豹にやられてもなおその隙をついて前に進もうとする兵士を片付けるのに精一杯であった。 (ここで食い止めなければ)  気を取り直して剣を振るう胡服の男の横を、何かがもの凄い速さで通り過ぎていった。 (え……)  それが何であるのか、見切る暇もなかった。 「黒豹さん、何かがあっちに抜けた」 「何?」  黒豹は耳を澄ませた。先に行った足音は聞こえない。 「人馬じゃないな……だったら、妖術か。ならバー公がいる。心配するな」  黒豹は胡服の男の肩を叩いた。 「まだへたるには早いぞ。祭はまだまだこれからだ」  環首刀を構え直すと、彼は薛延陀兵に突っ込んでいった。  数限りなく飛んでいた人型も、ようやく姿を消し雪豹は一息ついた。 「では、次にかかるぞ」 (まだあるのかよ……ったく人使い荒い)  声にならない声で、雪豹は驪龍に文句を言った。  鎮綏椀からは、得たいのしれない何かはもう出ていなかった。驪龍はそれを拾うように雪豹に命じた。  雪豹が恐る恐る近づくと、突然、何かが鎮綏椀から飛び出した。  びっくりして飛び上がった雪豹は、弾みで五星にぶつかった。 (しまった――!)  五星はパンと弾けて散った。 「伽羅童子、翠羽童子」  二体の童子とともに、驪龍は宝剣を手にその何かに向かっていった。それは、二体の童子を食いちぎると、驪龍を突き飛ばした。  これは、鎮綏椀の精の“核”。最も古い部分。 (こいつはバガトゥールを取り込む気だ)  驪龍は体制を直すと、外へ飛び出したそれを追おうとした。  と、扉の前に誰かが立った。  彼女は金色の筒状の冠を付け、紅い毛織物のマントを頭から羽織っていた。その服装は胡服に近いが、かなり古めかしい。 「大丈夫」  吐火羅語に近い響きを持つその言葉でそう告げると、彼女は扉をパタンと閉めた。 「金山(アルタイ)の……」  こちらの手出しは無用と言うことか……。 (先生、追わなくていいのか!?)  雪豹は驪龍の足元に来て訊いた。 「ああ、こちらはこちらでやることがある」  驪龍は、袂から呪符を出し、それを金色の鷹に変えた。 「頼むぞ、孔鷹」  金の鷹は一声鳴くと、排気口から外へ飛び出した。 「あの邪悪な精が戻ってくる場所をなくす。鎮綏椀を清める」  驪龍はそう言うと、光の場所(ガーフ・ローシユン)にある椅子の上に鎮綏椀を置くように雪豹に命じた。  代々の祈りが通じているなら、ここには光の通り道がある。  そして、昨日は積石庵周辺に集まっていた天地の気は、ゆっくりと西方に流れてこの近くまで来ている。その気を、こちらへ流す。光の道へ。  驪龍は禹歩を踏み、秘呪を詠唱した。 「孔鷹!」  彼の呼びかけと共に、孔鷹は天井から光と共に鎮綏椀に向かって一気に降りてきた。 (うわっ)  まぶしい光に、雪豹は目を背けた。  キラキラと光の柱が、天空から椅子まで真っ直ぐに続き、教会内部を照らした。 「純粋な祈りがあればこその光か」  光の柱はゆっくりと細くなり、やがて髪の毛ほどとなって消えた。  薄暗くなった室内の中で、鎮綏椀だけが金色に輝く光を放っていた。 「二千年前の姿に戻った。これで、血を求める邪悪な明器はなくなった」  驪龍は雪豹の額に手をやると、さっと呪符を剥がした。 「これで五雷法から解放する。悪かったな」  姫とバガトゥールは、一番後ろをゆっくりと歩いていた。バガトゥールは普段から岩山でならした健脚で、もっと速く歩くこともできたのだが、姫にあわせてゆっくりと歩を進めた。  一番後ろなら、一番初めに黒豹に会えるから。そんな気持ちで姫はいた。  急に、つないだ手が冷たく感じられた。 「バガトゥール、どうしたの?」 「……お腹、痛くなった」  姫は慌てて周囲を見渡し、岩陰に彼を休ませた。 「大丈夫?」 「解んない。何か、変な気持ち。お腹がもぞもぞする」  バガトゥールはお腹を抱えてうずくまった。  姫はどうしていいか解らず、ただ彼の背中をさすった。  ここで休んでいれば、いないことに気づいた誰かが助けを寄越してくれるはず……そう考えた姫は無理に進むことは止めて、彼が落ち着くまでここにいることを決めた。  ふと、何かの生臭さい気配がすることに、彼女は気づいた。 (何?)  臭いがする方を見ると、奇妙な生き物がいた。  四つん這いではあったが、蝙蝠のような翼もあった。そして顔は猿のような、人のような、何とも言えない顔をしていた。  姫はギュッとバガトゥールを抱きしめた。  そいつは一定の距離を保ちずっと二人を見ていた。 (どうしよう……助けを呼ばないと)  苦しそうに息をするバガトゥールを抱えながら、姫は途方に暮れた。  その時、柔らかい手が、彼女の肩に触れた。  彼女は驚いて上を見上げた。  とても綺麗な女性が、二人に微笑みかけた。そしてバガトゥールの額に口づけをした。 「息子よ……」  吐火羅語に似た、古めかしい言葉でそう言うと、彼女は化け物の方に近づいていった。  彼女が手を触れると、化け物は輝く炎の鬣(たてがみ)を持った獅子に姿を変えた。彼女は獅子に跨がると、そのまま天空に駆けていった。 「何あれ……?」  姫はただその様子を見ているしかなかった。バガトゥールも、額に手を当てて空を見上げていた。 「大丈夫か!?」  二人を捜しに戻ってきた胡忇の声で、二人は我に返った。 「あれ、何かしら?」 「何って?」  姫は空を指さしたが、灰色の雲の切れ間から、うっすらと光が差しているだけだった。 「雲?」  怪訝そうな顔で胡忇は言った。 「ケガでもしたのか?」 「ううん、お腹痛かった」  そう言いながら、バガトゥールは立ち上がった。 「あ、でも、もう大丈夫。痛くないや」 「君たち、お腹空きすぎでおかしくなったのか? 干し肉あるから食べなよ」  胡忇は困ったように言いながら、干し肉を取り出すと二人に渡した。姫は肉は断り、代わりに水をもらった。 「ねえ、胡忇」  干し肉を噛みながらバガトゥールは言った。 「俺、母さんに会ったかもしれない」 「え?」 「よく解んないけど」 「こっちが解らないよ。夢でも見た? 疲れてるならあと一息だよ。頑張って」  胡忇は二人を馬に乗せると、自分は馬を引いて歩き出した。
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