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第9章
(光……)
司祭は薄れゆく意識の中で、それを見ていた。
命が消える最後の瞬間、彼が見たのは、“光の場所(ガーフ・ローシユン)”に降り注ぐ光。
(光の王よ……我が師 よ……)
遠く離れてしまった光の王国を思いながら、司祭はその生涯を閉じた。
闇に落ちれば落ちるほど、光は強く感じられる。
驪龍は見開いたままであった司祭の目を閉じ、涙を拭ってやった。
「おい!」
黒豹は、胡服の男が振り下ろされた刃を避けきれずにいるのに気づき、慌てて割って入った。環首刀が間に合わず、その腕で刃を受けたが、衝撃を受けただけで無傷だった。
辟兵布の効果をその身に体験した黒豹はひゅうと口笛を吹いた。
「一回ぐらいは役に立つもんだなこれ」
黒豹は環首刀を構え直して胡服の男に声を掛けた。
「“忘れん坊”、もうだめか?」
胡服の男は息も上がり、剣を持つのもようやくだった。間合いを詰めてくる相手を何とか牽制した。
「――お待たせっ!!」
甲高い声が上から響いた。崖を利用して雪豹は上から駆け下りると、胡服の男の前にいた兵士の脳天に蹴りを食らわせた。雪豹は一回転すると、スタッと着地した。
「雪、遅せーぞ」
「悪い。ちょっと手間取って」
雪豹はふぅっとため息をついた。
「ちょっといろいろあってさ、俺、今、身も心もボロボロなんだよ」
「はぁ?」
「だから、ちょっと、すっきりしていっていいかな?」
雪豹は指をポキポキ鳴らした。その様子で何が言いたいのか、黒豹は理解した。
「ああ、いいぜ。好きにしな」
雪豹はニヤリと笑うと、柳葉刀を抜いた。
(なんだ、この連中……)
胡服の男はへたり込んで二人の動きを見ていた。
(とてもじゃないけど、真似できない)
自分の二倍以上は動いているはずなのに、黒豹の動きに疲れはまったく見られなかった。切れのある動きで兵士の馬を奪うと、兵士の方は雪豹がザックザックと斬り付けていった。
二人の息の合った動きに、胡服の男はただただ感服するしかなかった。
(強すぎる……)
あれだけいた薛延陀兵がどんどん減っていく。
胡服の男は、自分がどうしてここにいるのか考えた。
きっかけはまだ自分が小さな子供だった時。その頃は今の皇帝がまだ秦王で、天下平定のため各地を転戦した。曇りなき秋天のある日、たまたま秦王軍の凱旋に出くわした。
破陣楽が流れる中、煌びやかに凱旋する彼らを見て、自分もあそこにいたいと思った。
そのために剣も習った。徴兵に応じて軍にも入った。
しかしこのざまだ。
どこで、何を間違ってしまったのだろうか。
「おい」
黒豹は胡服の男の襟首を掴むと、ひょいと馬に乗せた。
「行くぞ」
見ると、追っ手は全滅していた。
「雪の見立てじゃこれ以上追っ手は来ないだろうって。行くぞ」
雪豹は、すっきりした顔でさっさと先に行っていた。
「は、はい」
胡服の男は戸惑いながらも、黒豹の後に続いた。一体いつまで彼らと行動を共にするのだろうか?
驪龍は、司祭の服を整え、拭える範囲で血の汚れを取ってやった。
「ずいぶん丁寧だな」
教会に入ってくるなり紫陽は言った。
「あのままだと、彼を信じていた信徒が可哀想ですからね。それに――」
驪龍は最後に司祭の髪と髭をなでつけた。
「解らなくはないのですよ。信ずるものを守るため、我が身はどうなってもいいという考えに」
「ああ、成る程。かの玄武門の時、血の滴る首級を掲げ、逃げる敵を追いかけて長安中を走り回った伝説を持っているだけはあるな」
その言葉に驪龍は苦笑いを浮かべた。
「それ、半分噂ですよ」
驪龍はふと遠い目をした。
「若気の至りでしたね、あの頃は。でも、後悔はしてません。あの時はあれが正しかったと思っていますから」
紫陽は手を伸ばして驪龍が立つのに手を貸した。驪龍も黙って彼の手を取った。
「何年ぶりですかね」
立ち上がった驪龍は紫陽に言った。
「こうやって手を貸してもらうの。茅山にいた頃以来……」
「私はいつだって手を貸すよ」
紫陽は手をヒラヒラさせて戯けた。
「今回のことだって、もっと表立って動きたかったが、下手に動くと元君の叱責を受けるからな」
「充分ですよ。これは仙界が関わるべきことではないのですから」
「だが、今回は危なかったな」
「ええ、調息も乱れ、結界も破られた時はどうなることかと思いましたが」
「あの時は禁を犯して出ようかと思ったが。金山のあのお方が出てきた以上は手も足も口も出せない」
「正式な御名も解らない以上、こちらとしてもどうすることもできませんが、バガトゥールは間違いなく金山の……」
「元君に伺えば、ある程度は教えてくれるかもしれぬな。たまには南岳に来ぬか? お前は元君のお気に入りなのだし」
「帰ってこれなくなりそうなので、当面はいいですよ」
元君とは、南岳魏夫人こと紫挙元君のことである。彼女は上清派の開祖であり、仙女となってからは南岳衡山におり、紫陽や驪龍の良き後ろ盾となっていた。
「それに、時が来たら、全てが明らかになるでしょうし」
ただ、と驪龍は続けた。
「どうにも“養父”としての感情が……。今回も、つながりを確かめるためにあの子を危険な目に遭わせた。そしてこの先のことも……」
「まだまだ修行が足りぬな」
「はい、師兄」
驪龍は茅山の頃を思い出して笑った。
「では、そろそろ教会を人界に戻さないか」
驪龍は信徒たちが教会に押し寄せるのを防ぐため、一時的に教会の次元をずらしていた。 驪龍は結界を二重に張っていた。一つは精を中から外に出ないため、もう一つは人を外から中に入れないため。二重の結界のうち、今は外側の結界がかろうじて生きていた。
「ああ、そうだ。明日の大祭は恙なく行われるような手はずは整えたよ。ない伝手をなんとか駆使してな」
「師兄、ありがとうございます」
「何、信徒たちには罪がないからな」
「本当に、仙人をこき使うのは私ぐらいですね」
「そうだな、ここまで道士に使われる仙人は私ぐらいだ」
「最後の仕上げがまだありますから、まだ手を貸していただけますか、師兄」
二人は教会を後にした。薄暗がりの中、椅子がぽつんと差し込む光に照らされていた。
「なんか、すごくないか?」
黒豹たちは、小高い山の上から集まっていた唐の軍勢を見ていた。兵馬の数もさることなら、助け出された少女たちの数も負けていなかった。
「圧巻だね……」
雪豹も呆れた様に見ていた。雪豹は将軍に挨拶をしている驪龍を見ていた。彼の周りには“伝説の武将”を一目見ようと集まった野次馬で、妙な人だかりができていた。妙な人だかりに目を奪われていた。
「そうじゃねえんだよ」
石亀は雪豹に言った。
「数が合わないんだよ」
蜉蝣も口を揃えた。
「娘たちは、雪豹の見立てより少なく、実際五十人もいなかったんだが……」
「どう数えても、あそこにいる数と合わない」
そう言われて、雪豹は改めて女たちの数を数えた。
「え……?」
合わないなんてもんじゃない。さっと見ても三、四百。十倍近い数だ。
「あれ、もしかして……」
教会に潜んでいたときに聞いた、驪龍が司祭に言った乙女の総数。自分が追いかけた人型の数……。
「深く考えるな」
ぬっと紫陽が現れると、雪豹の胸元に手を突っ込んだ。
「な、何だ!?仙人のくせになに“ふしだら”な」
紫陽が腕を抜くと、金色に輝く鎮綏椀が彼の手に合った。
「悪いがこれはもう人界には置いておけないものだ。持って行くぞ」
「何だよ、仙人が泥棒か」
「人聞きの悪い。取り引きだよ」
そう言いながら、紫陽は雪豹に小箱を渡した。それは昨日、二人が驪龍に持って行った狐の珠であった。
「必要のないものはいらないってさ。女狐が持っているのが一番だと」
さらに紫陽はもう一つの小箱を渡した。紫檀でできたそれは、飾り気がないながらも一目で上物だと解った。
「昨日の仙薬、お前、欲しがっていただろう? 大した量は渡せないが、この量でも女狐が女狐らしく、お前たちの前から姿を消せる分だけの功力はある。その先どうなるかはあいつ次第」
「畜生、紫陽先生、愛してるぜ」
雪豹はその二つを受け取ると、馬に飛び乗った。
「兄貴! 先に戻ってる」
言い終わるやいなや、あっという間に雪豹の姿は見えなくなった。
「なんだあいつ、仙人に愛の告白をして消えるって、新手の何かか?」
呆れた様に黒豹は言った。
「愛の告白って、何です?」
下の方から、上品で可愛らしい声がした。
見ると、驪龍に助けてもらいながら、山を登ってくる亀茲の姫君がいた。
彼の姿を見て、バガトゥールは嬉しそうに驪龍にしがみついた。
「あれ? 先生、まだ下にいるんじゃ?」
摩勒は唐軍の兵士に取り囲まれている驪龍の姿を確かめながら、こちらにいる驪龍に訊いた。
「ああ、あれは陽神だよ。将軍への挨拶は済んだのだし、そのほかの連中の相手をする義理はない」
こともなげに驪龍は言った。
「黒豹、こちらの姫がお前に話があると」
それを聞いて黒豹は彼女の近くまで飛び降りた。
「何だ」
「お礼とお願いを言いたくて」
亀茲の姫は黒豹の目をじっと見つめながら言った。
「礼なんて別にいいさ。面白かったし」
「でも、ありがとうと言わせてください」
目をそらさずに言う彼女に、黒豹は戸惑った。
「ああ、そうか……で、お願いって何だよ」
無理難題じゃなければいいと、黒豹は内心思った。
「はい、私たちを阿耆尼まで送ってください」
「ああ、そうか。そんなの、お安いご用……って、は?」
我に返った黒豹は素っ頓狂な声を上げた。
「何で? 唐軍は?」
「文句言わずに送ってやれ」
黒豹の右側に紫陽が立って言った。左側には驪龍が立ち言葉を継いだ。
「他の娘さんたちは、みんな南道沿いで阿耆尼とは方角が違うし、何より今回は反唐の同盟となる通婚。唐軍が助けるというのも妙な話」
驪龍はさらに畳みかけるように言った。
「何より、これは姫君たっての願いだ」
「解ったよ」
黒豹は自分より背が高い人間にはそうそうお目にかからないのだが、この二人は揃いも揃って黒豹より長身。この二人が左右から黒豹を見下ろすように言うのだから、正直気分が悪い。
「だけど、俺らみたいな盗賊がこんなやんごとなき姫君たちを送って大丈夫なのかよ。その場で輿入れの話もなくなったらどうする?」
「心配するな」
驪龍は封書を渡した。
「阿耆尼の王都に入る前にこれを開けるといい。開けると同時に軍隊が現れる。ただし一刻を過ぎると消えるから、開けるのは必ず王都に着く直前に」
「――たく」
黒豹は不承不承それを受け取ると、懐に収めた。それから、上の方にいる仲間に声を掛けた。
「お前たち、休憩は終わりだ。支度しろ」
「悪い、先約があって俺は行けない」
石亀はあっさりと断った。続いて蜉蝣と摩勒も同じように断った。
「俺たち、三郎さんに用を頼まれてて、これから高昌城市に戻るんだよ」
蜉蝣が黒豹に理由を告げた。
「はぁ?」
そんなこと聞いていないと、黒豹は三人の言っていることをいぶかしんだ。
「ほら、三娘さんが膝が痛いって言ってただろ。んで、ちょっと歩きやすいように店を手直ししたいって三郎さん言ってたからさ」
「そう、それで、戻ったら俺たちが手伝うよってな」
「そうそう、なんと言っても一宿一飯の恩義があるからな」
三人は口々に言った。
黒豹はチッと舌打ちをすると胡忇に聞いた。
「胡忇、お前も行けないなんて言わないよな」
「まさか」
胡忇は黒豹の方をポンポンと叩いた。
「黒豹の兄さんの用以上に重要な事柄なんてありませんよ。地獄の底までお供します」
「ってことは、またこの三人か。“忘れん坊”、お前、荷物とかある?」
「はい?」
胡服の男は驚いたように言った。
「なんで、私だけ都合も聞かずに行くことになっているんです?」
「え? 何? お前都合あった?」
「……ないです」
「だろ」
石亀、蜉蝣、摩勒の三人は上の方で黒豹たちのやり取りを窺っていた。
ちょうど下では、胡服の男の旅支度はどうするだと言う話で、黒豹が唐軍から“拝借”すると言うのを聞いた姫が怒って、二人を驪龍が取りなしているところだった。
それから、驪龍の口利きで多少の物資をもらえるということが解ると、姫は黒豹の腕を引いて山道を降りて行った。
「あれ、どう思う?」
石亀は二人に訊いた。
「どう見てもベタ惚れっすね」
ニヤニヤしながら摩勒が言った。
「でも、兄貴は奥手だからな」
「そ、自称女好きのウブ」
蜉蝣の言葉に摩勒は同意した。
「どうせ他の娘連中は胡忇のとこ行くとして、あの新参がジャマするかどうかだ」
「まあ、そんなことないよう、付かず離れず見張ってますよ」
摩勒はニヤニヤしながら言った。
「でもとりあえず、結局手出しできないのに十銭」
「あっしも手出しできないに十銭」
蜉蝣の賭けに摩勒も乗った。
「いや、賭けにならない賭けは止めようぜ」
石亀は苦笑いを浮かべながら言った。
「まあ、やんごとなき姫君の泡沫(うたかた)の恋だ。ちょっとは良い夢見られるといいな」
まだあと何日か一緒にいられる。それだけで姫は嬉しかった。
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