5人が本棚に入れています
本棚に追加
ラベンダーの香り
「ねぇ、私のこと覚えてる?」
ふいに言われて僕は戸惑った。
白い肌に茶色の澄んだ瞳。ラベンダー色のふわりとしたワンピース。まだ小学生低学年くらいだろうか、でも僕には大人びて見えた。
「えっ、いや、ごめんね、何処かで会ったかな?」
僕は過去の記憶の引き出しを開けまくりながら答えた。全く会った記憶はない。
「いいの、ちょっと言ってみただけだから。」
とその女の子は少し寂しそうな顔をした。僕はそれが気にかかった。すると、女の子が言った。
「ねぇ、今暇なの?」
「えっ、まぁ暇っちゃ暇かな。」
「じゃあ今日は私に付き合って!」
女の子は強引に僕の手を引っ張った。
勘弁してくれよ。こんな時に…。
僕は先日、大好きだった愛犬を亡くした。愛犬はメアリーといった。メアリーはゴールデンレトリバーの女の子で、僕が生まれた時から一緒だった。友達のように遊び、毎日同じ時を過ごした。メアリーは特にお花畑で遊ぶのが好きで、夏になると近所で咲き誇るラベンダー畑へよく出かけた。爽やかな風とともに香ってくるラベンダーの香りを、メアリーは目を細めて楽しんでいた。食欲も旺盛だったメアリーはサバの味噌煮という渋い料理が好きだった。缶詰を開けると一目散にやってくる。人がせっかく食べようと開けた物をメアリーは横取りして、満足そうに頬張っていた。その姿が愛らしかったけど。けれどもいつの間にかメアリーはおばあちゃんになった。大好きだった散歩も嫌がるようになり、サバの味噌煮の缶詰を目の前で開けても食べなくなった。目に見えてメアリーは衰えていった。そして、先日、天国へ旅立ってしまった。僕はメアリーが逝ってしまってから数日間ずっと泣きっぱなしだった。毎日涙が枯れるくらいまで泣いた。
そして、ようやく久しぶりに外へ出たところだった。どこへ行くわけでもなく、ただ外の空気を吸って気分転換しようとしたところだったのだが…。
僕の手を引っ張りながら、女の子はまぶしい笑顔で笑っていた。僕は不思議とその笑顔をかわいいと思ってしまった。
女の子に連れてこられたところはお花畑だった。ラベンダーの花が咲き乱れていた。
僕は悲しくなった。またメアリーのことを思い出してしまったからだ。せっかく別のことで気を紛らわそうとしていたのに…。
「どうしたの?綺麗でしょ、ラベンダー畑。」
「う、うん。そうだね…。」
「あんまり嬉しそうじゃなさそうだね。ほら、ラベンダーの香り感じてみて!すごく爽やかな香りでしょ!」
女の子は目を細めながら、気持ちよさそうに風を感じていた。
すごくその姿がメアリーとタブって見えた。しばらくすると、
「お腹すいたなぁ。ご飯食べようよ!」
と女の子が言った。
「あ、うん。そうしようか。」
さっきから僕はこの名前も知らない女の子に振り回されてばっかりだが、不思議と嫌な気はしなかった。逆にいい気分転換になるのではと期待していた。
ついたのは、和食屋さんだった。
「何にしようかなぁ。」
メニューをぐるりと見ながら女の子は、輝くような目で言った。
「じゃあ、これで!」
女の子が指さしたのはサバの味噌煮定食だった。
その瞬間、僕はまさかと思ってしまった。こんな偶然あるものか?
知らぬうちに、僕はまじまじと女の子を見つめてしまっていた。僕の視線に気がついた女の子は、僕の目を見てにこっと笑った。僕はあわてて目を逸らした。
「サバの味噌煮ってやっぱり美味しいよねぇ!」
女の子はほっぺが落ちそうと言いながら、もぐもぐ食べていた。
そのあとは、美しい夕焼けが見える丘まで歩いていった。
「うわぁ、綺麗な夕焼け!」
女の子ははしゃぎながら言った。
「そうだなぁ。」
僕はメアリーともよくこの夕焼けを見ながら過ごしていたことを思い出した。この夕焼けを見ていると、不思議と穏やかな気持ちになる。
「ねぇ、私のこと覚えてる?」
ふいに女の子がまた聞いてきた。
僕はドキッとした。間違っていたら…いや、間違いない!
「…メアリー??」
その瞬間、女の子の顔が綻んだ。
「気づくの遅いよ。」
女の子…いや、メアリーは、ちょっと拗ねて言った。
「私がいなくなってから元気なさそうだったから心配してきたの。でも、もう大丈夫だよね?」
メアリーは澄んだ瞳で僕を見上げた。
「うん、ありがとう。わざわざ来てくれたんだね。」
僕とメアリーはしばらく思い出話に浸った。楽しかったこと、面白かったこと、メアリーは輝くような笑顔でずっと喋っていた。メアリーの笑顔は、僕を元気にしてくれた。
夕日はすっかり落ちてしまった。あたりが暗くなって、僕はそろそろかと思った。
「もう泣くのはなしだよ。」
メアリーは柔らかな笑顔で言った。
「うん。」
僕はメアリーとハグをした。それを最後にメアリーはふっと消えていなくなった。
ラベンダーの花が1輪、そこにはあった。
最初のコメントを投稿しよう!