『誰そ彼の為の絵画廊』 作 一条 逢間

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『誰そ彼の為の絵画廊』 作 一条 逢間

夏期講習最終日の昼休み。この後の講義でこの暑い中わざわざここまで来させた夏期講習が終わると思うと清々した。よくもまあ、ここまで一回もさぼらずに出席したものだと、我ながら自分を褒めたくもなる。 相変わらず律は目の前の席でこの前と同じ銘柄の紅茶を飲んでいる。律は弟の看病で一回休んだが、それはもうほぼほぼ皆勤賞だろう。 「やっと終わった……」 「そーね。まだ午後に英語あるけど」 また教室に二人以外誰もいないのをいいことに手を伸ばして大きく伸びをする。2日前からあの画廊に通えなくなったので、校舎が閉まるまで律と教室に残って勉強していた。周りがなんとなく気になってあの画廊にいる時の方が落ち着けたが、律と向かい合って適当に話しながら勉強するのは楽しかった。凪と勉強していた時はわからないものは全部凪に聞いていたが、律と一緒に職員室に行って先生に聞くことも覚えた。思った以上にちゃんと話を聞いてくれてなんだか面食らってしまった。 「あ、蓮って結局祭り行くか決めた?」 「あー……」 まだちゃんと律や凪に言っていなかったなと、目を明後日の方向に向ける。 「ごめん、行けない」 先生がいない隙を見てスマホをいじっていた律に言うと、そっかーと軽い返事が返ってくる。元から感じていた申し訳ない気持ちに加えてなんとなく寂しく感じた窓の外に目をやった。 「なら、来年だな」 「え」 予想外の言葉に驚いて律の方を見ると、律もスマホではなくこちらを向いていた。 「まあ、受験生なのに遊びに行こうっていうのがもうトチ狂ってるよね」 「そうか……?」 「もともと白乃とその友達が花火行こうって言ってて、近くの祭りにも寄るなら私と蓮も誘うかってなってたらしい」 「へー……」 「明日バイトあるから、その時に白乃に言っとくよ」 「……ありがとう」 カバンから飴を出し始めた律をそのまま何となく眺めていたら、いるか?と飴を差し出される。とりあえず受け取ると、包みを剥がしながら律はまた口を開いた。 「受験終わったら遊べばいい。大学生になったらもっと遠い街のお祭りだって行ける。そしたら大きい花火大会に一緒に行こうよ」 「……そうだね」 高校を卒業してもまた一緒にいようとしてくれたことが嬉しかった。今まで通りなら高校を卒業したらその高校に関わる人丸ごと全部切り離していた。今度はそんな事しなくても済むだろうか。 ____ 8月31日。高校の夏休み最終日。休日だったので制服ではなく私服を着て出かける。用件なんてあの絵を受け取りに行くだけなのに、色々とぐちゃぐちゃ考えてしまって着る服を選ぶのに随分と時間がかかってしまった。結局何着たって中身は変わらないんだから同じじゃないかと思っても、どうしても決められなかった。おかげでもう夕方と言える時間は過ぎた。腕時計を見て慌てて彼がいるであろう画廊へと向かった。 扉を開けると、いつもより薄暗かったが前と何も変わっていないように思えた。片付けをすると言っていなかっただろうか。僅かに疑問を覚えながらも今回は他のフロアに寄らず、奥の書斎を目指す。 書斎の扉はすでに開いていた。ちらっと扉の影から覗くと彼が床に置いてあった絵を片付けていた。 「あの……」 いつまでも隠れて見ているわけにも行かず、中に入って声をかけた。目が合うと彼は、待ってたよと柔らかく笑った。 「とりあえずあの絵はこの中に入れておいたよ」 渡された紙袋の中には薄い箱が入っていた。言われるままに受け取るが、頭の中はしっちゃかめっちゃで。ああ、もう用件は終わってしまった。早く何か言わなければと思っても何を言えばいいのか分からなくなって。それよりもなによりも唐突に泣きたくなってしまって彼の顔を見ることができず、俯いて紙袋を抱きかかえていた。 「そうだ、もう一つ渡すものがあった」 手を出してごらんと言われて、素直に掌を上に向けて右手を出した。 カチャリという音と共に手に置かれたのは自分の家の物より一回り大きい鍵。 なんのことか分からなくて思わず彼を見上げると、楽しそうにくすくすと笑っていた。 「この、鍵は」 「君にあげるよ」 「?」 「合鍵」 なんてね、と笑って彼に頭を撫でられる。 「この画廊をしばらく君に預けようと思う。好きな時に好きなだけここにいればいい。ここは君が居ていい場所だ」 漠然と不意にかけられたその言葉が嬉しくて、決して彼の前で泣きたいわけではないのに視界が徐々に滲んでくる。 「前に、ここは僕の祖父が作った画廊だと言ったね。『逢間の絵画廊』。ここはそういう名前だけど、祖父がここを作ったってだけでここが祖父だけの場所というわけではない。祖父の名は逢魔時から来ている。つまりは黄昏時。君は黄昏の語源を聞いたことはあるかい。薄暮の中に映る人影が誰なのか分からなくて、誰そ彼と尋ねた。誰そ彼と書いて黄昏と読む。顔も分からない誰か。ここが必要な誰かの為の画廊。ここはそういう所。だから、ここが君にとって必要な場所ならその鍵を君に渡そう。どうかこの画廊が君の助けとなるよう願っているよ」 彼の言葉全てが優しくて、ずっと自分の中に抱えていた重くてぐちゃぐちゃしたものが全部涙になって出て行っているようで。俯いているからポロポロと溢れた涙が床に落ちる。ここに居ていいという言葉がたまらなく嬉しくて、ありがたかった。どうしていいかわからないほど、安心できた。 「お兄さんは」 「僕は父親のところに行ってみるよ」 「戻って来ますか」 「そうだね。時間はかかってしまうだろうけど」 やはり彼は行ってしまう。なら、それこそ何か言わなければいけないのに、頭の中がかき混ぜられたかのように何も言葉がまとまらない。彼に言いたいことならたくさんあった。なのに自分の奥底の感情を言葉にしようとすると苦しくて、やっぱり余計に涙が流れてしまう。それでも何か言おうと震え声にならないように、涙が止まるように一度息を止めてから口を開く。 「あ、の」 「うん」 「ありがとうございました」 「……僕も君の言葉で父に会う決心がついた。おあいこだね」 彼の声を聞くたびに涙が出てくるようで、もう堪えるのも限界で、思わず両手で顔を覆った。でもやっぱりちゃんと伝えたくて、一番大事にしていた思いを聞いてほしくて。 「ねえ、サキさん」 「なあに」 「あなたが、好きです」 涙を拭ってもキリがなくて、嗚咽を堪えているから息が苦しくて、相変わらず頭の中はぐちゃぐちゃで。もう自分ではどうにもできなかった。 「ありがとう」 ぽんぽんと宥めるように頭を撫でられる。 ゆっくり息をしてごらんと言われて、少しずつではあるがだんだんと落ち着いてきた。 「そうだね、君がもう少し大人になって、もう一度会った時。まだ同じように思っていてくれたならその時に、きちんと返事をしよう」 止まってきた涙を拭って、彼を見上げる。本当だよ、と彼は続ける。 「君は外に出ていろんな人に会うといい。顔を上げればそれだけでたくさんの物が視界に入る。そして、いずれは君だって、もっと楽に息ができるようになる」 遠くで花火の音が聞こえる。書斎の大きな窓から鮮やかな光が入ってくる。 「大丈夫だよ」 最初に会った時と変わらず、彼は目を細め綺麗に笑った。 ____ 夜、自分しかいない部屋の中で彼から渡された箱を開けてみた。 この前見た時よりも遥かに精巧に描かれた星空があった。射手座は蠍座ではなく獅子座を狙い、神の怒りを受け天の川の中にいるはずのカシオペア座は見事に救出されている。ここにしかない星空を眺めていると彼が何を思ってこのように描いたのか、考えるととても愉快で、そしてやっぱりとても悲しくて。収まったはずの涙がまた溢れてくる。絵を濡らしてしまわないようにと絵を動かすと、箱の中に名刺ほどの大きさの紙が入っていた。 『天盤』 ヒムロ レン様へ 神谷咲妃 細く綺麗な字で書かれた文字。一度口頭で伝えただけで、彼はもう自分の名前なんて覚えてないと思っていた。ちゃんと聞いていてくれた。ちゃんと見ててくれた。 本当に彼がいたところは自分の居場所だった。 改めてそう感じると、嬉しくてつらくて部屋に一人でいるのをいいことにしゃくり上げて泣いてしまいそうだった。ゆっくり息をしようとしても今度はどうにもならなくて、胸の前で手を握りこんで涙が止まるのを切に願った。 ____ 秋になると三者面談がある。今まで勉強はしていたがなんとなく誤魔化していた自分の将来。そこで親にも初めて自分の進路を告げた。 「大学で学芸員の資格を取ります」 何も言ってなかったから当然驚かれて、どうしてそれを選んだか聞かれた。どうしても言われても、どうにも答えようがなくてやっぱり結局はぐらかした。 律に話したら学部は違ったが、同じ大学を志望していた。学芸員の資格を取ろうとしてることを律に言ったら、いいんじゃない?と言われて何となく笑ってしまった。 秋から冬にかけて律と凪は予備校に通い始めた。普通の受験生ならばそれが妥当だろう。でも少女は予備校には通わず、あの画廊で過ごした。人が多い教室が苦手というのもあるし、姉だって最後まで予備校には行かなかったから、自分もそうしようと思った。なによりあの場所に居たかった。もう彼は居ないけれど安心して自分が入れる場所だったから。彼がいていいと言ってくれた所だったから。 合格発表の日は律と一緒に見に行った。こんな事故りそうなことよく自分もやるなと思いながら番号を探す。あ、と思った時には律に飛びつかれていた。 「蓮!あったよ!一緒の大学だね!」 「……そうだね」 大事な縁をまだまだ切らずに済みそうで心から安堵した。 ____ 律とは同じ大学。凪は少し遠くの国公立に進学した。高校を出ても縁は切れなかった。本当に大学1年の夏休みに3人で別の県の大きな花火を見に行った時は、これは本当に現実のことだろうかと思うほど前までは想像がつかないことだった。 大学に行って、やることが増えて、関わる人が増えて、目に見えて忙しくなった。でもそれだけだ。自分は変わらない。中身を他人に曝け出すのは苦手だし、スマホの連絡欄は全部リセットしたくなる。外に出て、いろんな人がいることはわかった。いろんな人がいるとようやくわかるようになった。前は自分以外の人なんて見てもいなかった。 で、だからなんだ。自分の中の変化としてはそれくらいで、後は変わらない。律と凪は好きだが、それ以外はやっぱり怖くて息苦しくてたまらない。何も変わらない。から、自分がどうすればいいのか分からなくて、楽な息の仕方なんてみつからなくて。だからもっと彼から教えて欲しかった。 時間ができるとすぐにあの画廊へ行った。扉をくぐると深く呼吸ができた。できたはずなのに、苦しくなって少しでもこれを緩和しようと、奥の書斎でほとんどの時間を過ごした。 大学1年生から2年生への春休み。大学の春休みは基本時間が有り余るので、ほぼ毎日のように画廊にいた。 いつものように、大きくてつるりとした鍵で扉を開けようとした。が、扉はすでに開いていた。はっとして息つく暇もなくガチャリと開ける。 扉を開ききるとちょうど振り返った人物と目が合った。 「どうしたの。入らないの?」 くすくすと笑って、おいでと手招きされる。 彼の顔を見たいのに、涙が溢れてそれどころではなくて。どうしてこんなに彼の前で泣いてばかりなのか。 ねえ、私はあなたの言った通り、あの時よりは大人になれたのだろうか。でもまだ何も変わってなくて、息の仕方なんて分からなくて。 でも、もし叶うなら、どうかもう一度聞いてほしい。あの時と同じように、あなたに伝えるから。
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