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『Salvation by faith』 作 シモン・レーベ
夏は嫌いだった。理由は汗をかくから。もし少女が汗をかかなくても生きていける生き物だったのなら、そこまで夏は嫌いにはならなかっただろう。暑いと否応無く汗をかく。それが嫌。健康美のアスリートならまだしも一般に汗をかいた姿は、他から見れば普段の姿より醜く映るのではなかろうか。そんなところを他人に見られるのがどうしようもなく嫌で、だから夏が嫌いだった。本日もなぜか2限から始まる夏期講習のために、少女は炎天下の中自転車を走らせていた。自転車を漕いでも風が生ぬるいし、止まったら止まったで途端に汗が出てくる。イラついて仕方がない。
校舎に着いても教室に入る前に、職員室前のお手洗いで汗を拭き、髪を整え、さらに制汗剤に頼る。少しでも自分をマシな状態にしてから少女は教室へ向かった。夏場はいつもこうだ。面倒なこと、この上ないがこれをしなければ自分の精神の安寧をはかれない。少しでもマシになりたかった。表面も、中身も。その為ならいくらでも予防線を張った。衣服のにおいが気にるなら制汗剤や着替えを何枚も持ってきて、だいたい最初に声をかけるであろう友人への対応を自転車を漕ぎながら何回もシュミレートして、場をつなぐどうでもいい話のネタを何個も考えて。歩き方や視線の動かし方、食事の取り方。普段のすべての行動を気にかけて過ごしていた。自意識過剰ではないかと自分でもよく思う。しかしこうしなければ、こうでもしなければ、少女は自分の身を守れない。
教室の扉を開けると今日はすでに6人ほど席についている生徒がいた。昨日より1人増えている。いつものごとく自分の席に座り、プリントや筆記用具を出していく。友人は今日はまだいないようだ。お昼は1人で食べることになりそうだと思い密かに息をつく。お昼休みは日陰で1人になれるところに行ってゆっくりしよう、そう思った。人前で食事をするだけでも少女にとっては重労働だったから。
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ひさびさに学校でのんびりと1人の昼食をとった後、本日の夏期講習5限目は演習ではなかった。去年、この高校から大学に合格した先輩たちを連れてきたらしい。この時間はその成功の体験談を聞くためのものらしかった。夏休みは1日に何時間勉強したか、模試はこのように活用したか、今通う大学はどれほど素晴らしいか。だんだんカルト宗教のセミナーを受けている気分になってくる。頭の中でそうは思っていても、やはり合格した先輩たちには純粋に尊敬するし憧れもする。基本的に少女は今まで素直で先生や親に反抗はしないように過ごしてきた。聞き分けの良い子で、聞いた言葉はそのまま飲み込んでしまう。こんな風になれるように頑張れと言われれば、その通りになれるように気を張って頑張ってしまう。そのせいで今まで何度か空振りをして失敗したこともある。そのおかげか、自分が大人の言うことをそのまま丸ごと飲み込んでしまうというたちにも最近ようやく気づけたわけだが。気づけただけで根は変わらないけれど。
夏休みは頑張らないと。宗教じみた成功者を讃える会が終わった後、見事に少女の頭の中の半分を占めてしまっていた。残りの半分はと言うとそんな乗せられやすい自分を揶揄する声が響いてる。どっちの声にも耳を傾けながら帰り道を進む。夏期講習は5限で終わったので現在、まだまだ日中。また別のところで時間を潰さなければならない。昨日の彼がいた画廊はどうだろうか。またおいでと、言ってもらえたが昨日の今日で行くのもどうなんだろうか。それはそれで恥ずかしい。けれど何よりこの暑さから逃れたくて、神社までは行こうと決めて少女はペダルを強く漕いだ。
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神社はやはり隔離されたように静かで涼しかった。少し入ったことろに自転車を止めてサドルにバランスをとって座り汗が引くのを待った。この神社は少女が高校に入るときに見つけたが、場所を教えてくれたのは姉だった。4つ上の姉は今は大学3年生。姉は1年間浪人していた。別にそのことにも何も思うところはないが、3年前姉が家を出る前に少女にかけた言葉がずっと、いつでも、頭のどこかにあった。
「お姉ちゃんのようにはなっちゃダメだよ」
少女の姉は名を氷室凛といった。凛と蓮。語感から明らかに姉妹だとわかる名前だ。姉は頭の良い人だった。そしてなにより努力家で、年下の少女からすれば、なんでもできる人に見えた。中学の頃から試験では首位をキープし、高校も少し離れた都会の私立の進学校へ特待生で入学した。高校の時も中学の時とからわず優等生であったように見えた。勉強する姿しか見なくなってしまったような気はしたが、変わらずに蓮にとってよくできた姉だった。しかし、姉にとってはそうではなかったらしい。姉が高校3年生の秋。突然姉は学校へ行かなくなった。行かなくなったのではない。行けなくなったのだ。体が動かせないの、と布団の中で姉は言っていた。だるくて、重くて、口を開くのも億劫で。昨日まで笑って会話していたのに、全く表情が動かなくなってしまった。両親は風邪だろうかと医者に連れて行ったが、何かにかかったわけではなく受験勉強による疲労なのでは、と言われたそうで。何日かしっかり休みなさいと、姉に言い聞かせていた。しかし何日経っても姉の具合は良くはならなかった。一日中ベッドの上から動けず何もしない。流石に退屈なのではと、姉に最近流行っている映画の原作小説を進めてみた。姉の好きなジャンルなのではと思ってやったことなのだが、それを見た姉はボロボロと無表情のまま突然目から涙を零して本を見つめていた。少女は姉が泣くところなんて初めて見た。どうしたのだろうとベッドの前でおろおろしていると、姉は静かに、重たそうに、口を開いた。
「ごめんね、お姉ちゃん字が読めなくなったの」
姉は鬱だった。風邪なんかではなかった。その会話の後すぐに両親に姉の状態を伝えたところ、すぐさま今度は精神科を受診した。そこで姉の、今の本当の状態が発覚した。字が読めなくなることは鬱の症状のようで、集中力、注意力が著しく落ちるために起こることらしい。診察を終えて帰宅した後、母親は少女に話した。
「お姉ちゃんは頑張り過ぎちゃったんだね。頑張りすぎて、頑張れなくなっちゃったのかもしれないね」
姉は高校は今までの積み重ねで卒業できたが、今回の受験は見送った。その後1年、両親は姉に何も強いることはせず、好きなように過ごしなさいと言った。後のことはまだ考えなくていいと。その通りに姉は過ごしたようで、日が経つにつれベッドから出て動けるようにもなりまた笑うようにもなった。しかし、前のように頭を働かせることは相当に疲れるようで、狙っていたランクの大学ではなく遠くの通信制の大学へ通うことにした。その大学の近くに祖父母の家があったので、少しでも通う時の負担が減るようにと今はそこで過ごしている。姉が祖父母の家へ行く日、荷運びや付き添いで一緒に行く両親が外で車の用意をしていた時、姉がポツリとそっぽを向いて少女に言ったのだ。
「お姉ちゃんのようにはなっちゃダメだよ」
姉は頑張っていたために頑張れなくなってしまった。今までのことが無駄になってしまうくらいの大きな負担を今も持ち続けて。自分のようにはなるな、なんて姉はどんな感情で言ったのだろうか。その言葉を聞いてから、頑張る、ということには慎重になるようになった。「頑張る」とはなんなのだろう。どのくらいが「頑張る」で、どうやったら「頑張る」になるのだろう。先生たちはこの頃、とくによく使う「頑張る」という言葉。少女にとっては恐ろしくて不気味な言葉だった。
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汗も引き、そんな姉のことを考えながらぼーっと、ふらふらと、境内を歩いていたら境内を一周したではなく、昨日の画廊の前に来てしまっていた。無意識で道になっているところをそのまま歩いてきてしまったようだ。暑さのせいだと、八つ当たりしたくなる。せっかくだからまたお邪魔してみようかとも思ったが、昨日の今日はやはりなんとなく憚られる。どうしたものかなとしばらく自分だけが感じる恥ずかしさと、ここ以外に行くところがないという意見を天秤にかけ悩んでいたが、結果的に暑さが勝った。いくら涼しくても暑い外には変わりない。
扉には『開館』の文字。迷いを振り切るというかは消去法のやけくそで扉をガチャリと開けた。
中は自然光と人口の光とで明るかったが、入口のホールには誰もいなかった。やっぱり勝手に入ってよかったのか、この後どうしたら、と後ずさりしかけた少女の頭上から声がかかる。
「また来てくれたの、ここ気に入った?」
入口のホールを見下ろす二階の手すりに手をつき、彼はにこりと笑った。
「あの、また、ここで勉強しててもいいですか」
「ああ、構わないよ。でも昨日の場所は今少しごちゃごちゃしてるから、こっちにおいで」
こっちとは彼がいる二階のことだろうか。誘われるまま中央の階段を登り彼の後をついていく。彼のすらりとした後ろ姿を追いながら、突然わいた不安を口にする。
「ここ、図書館とかじゃなくて画廊なんですよね。絵を見に来るところで。本当にここで勉強なんかして大丈夫ですか」
彼はちらりとこちらに視線を寄越して、のんびりと答えた。
「大丈夫だよ。こんなに広いのにここ誰もこないし、好きにしていいよ」
でも、もし気にするのなら、と彼は続ける。
「祖父の集めた絵たちを見てあげてくれないかな。君がここに来るたびに1枚ずつでいいから」
本来ここの場所はそういう場所で。違う使い方をしているのは自分なので、使わせてもらう礼儀として当然だと少女は了承する。
「ありがとう」
振り返って微笑んだ彼はやはり綺麗だった。
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通されたフロアは装飾品のから雰囲気から厳かな感じがした。部屋の奥にある大きなステンドグラスを中心にして、その両脇に均等になるよう絵画が並んでいる。垂れ込めた薄いカーテンや燭台。なんだか教会のようだ。
「ここは宗教画が多いんだよ」
やはりそうなのか、ときょろきょろと部屋の中を見渡す。部屋の端の方に4人がけの大きなテーブルを見つけた。彼もそこを指差して、あそこに座るといい、と勧める。このテーブルもテーブルで高価そうなものなのだが、大丈夫だろうか。テーブルは上がガラス張りで内部に額に入った絵が入っていた。これも彼のおじいさんの収集物だろうか。
「この絵も展示してるものですか」
そう尋ねると彼はなにかを思いついたのか楽しそうに笑い、そうだよ、と答える。
「なら、今日はその絵を見てあげて」
絵はテーブルの形に合わせた大きさで、昨日見た絵よりもずいぶん大きい。中央にとても綺麗な女の人が描かれている。纏う白の布が幾重にも重なりふわりと広がっている。上からは後光のように光が降り注ぎ周囲が薄暗い中、女性の金髪をさらに明るく輝かせている。ここは宗教画の場所と言っていた。ならばこの女性は神様だろうか。そしてやはり周囲を見回してもタイトルらしきものが書かれたのは見当たらない。
くすくすと笑いながら彼も後ろから覗き込んできた。自分の髪の色と違う、長く淡い髪が近くに見えてびくりとする。
「この作品は『Salvation by faith』、作者はシモン・レーベ」
唐突に滑らかな発音を聞かされはてなが浮かぶ。今なんて言ったのか。
Salvation by faith、と今度はゆっくり彼は繰り返す。
「学生さん、日本語ではなんて言ってるかわかる?」
そう聞かれ、頭をはたらかす。これでも一応は受験生だ。Salvationは確か救済、faithは信頼とかそんな感じの意味ではなかったか?ならば信頼による救済。なんだそれは。でも救済という意味があるなら、たしかに宗教っぽいような。なんとなく。
少女の頭の上にはてなが増えていくのが見えたのか、彼がとても楽しそうに答えた。
「これ、他力本願って意味だよ」
「は?」
思わず心の声がそのまま出る。彼は至極楽しそうにくすくすと笑っている。
「いや、これ、宗教画」
「確かにそうだけど、その絵は少し違う」
笑いを収め彼は話し出す。
「この絵の女性は確かに神様らしいんだけど、キリストとかギリシャ神とか、そういう神様ではないみたいなんだよね。この神様はどの文献にも存在しない神様。作者だけの神様。つまり自分の理想を詰め込んで神様を描いてみたらしい」
そんなのありなのか、というか、それも宗教画に入れていいのか、だんだんと訳が分からなくなってくる。なによりタイトルが他力本願ってどういうことだ。
「シモン・レーベと言う人は宗教家ではないよ。無名のただの画家。ただ、すごい努力家だったらしい。頑張って頑張って、たくさん頑張って。でも絵は売れない。ならもう神に縋るしかない、しかも今まで助けてくれなかった神などではなく、自分だけの神に縋るしかない、そう考えたそうだよ。そして、この絵を描き終えた後は頑張るのをやめたらしい。趣味がたくさんある人だったみたいで好きな事をして過ごして楽しんでいたらしいよ」
「それで他力本願…」
それはヤケを起こしたのではないか、という気もしたが最後にシモン・レーベと言う人は盛大な皮肉をかまして気が済んだらしい。愉快な人だな、友達になりたい。なんて思ったが、この人の頑張りはどこへ行ったのだろうと思ってしまう。報われなければその頑張りは虚しいだけになってしまう。報われない努力はしないで、と姉は私に言ったのだろうかとふと思う。
「この人はそれでよかったんですか」
どうしても、この作者に姉を重ねて見てしまう。姉は本当は何を思ってたんだろうか。悔しかったのか、悲しかったのか。
「さあ?知らない」
この人もう死んでるから聞けないし、と彼はあっけらかんと答える。思わず彼の方を向くと思いのほか綺麗な顔が近くてピシリと体が硬直する。さっと顔を絵に戻したが不自然ではなかっただろうか。
「やりたいことやって気が済んだんじゃない?結局、物事の報われる報われないなんて運なんだから。どうしようもないよ、人間なんていつか突然死ぬし」
すごい極論をぶっ込んで来た彼に驚きながらも、なら仕方ないのかと納得しそうになる。しかし極論がすぎる気もするが。
「頑張ってもいいし、頑張らなくてもいいんだよ。頑張らないと行けない時はだいたいつらいときだ。なら無理しないで助けを求める方法だけ覚えておけば、後は運でなんとかなるよ」
そう言って彼は、フロアから出て行った。
姉は本当はなんと伝えたかったのだろう。
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頑張ろうと思うことはやめにした。どうしても気を張ってしまうし、疲れる。それにもともと好きで使いたい言葉でもない。とりあえずやる、くらいのスタンスで構えておけばいいのだろうかと息を吐く。そのくらいが自分のように変なとこで真面目で、大人を丸のみで信じてしまう奴にはちょうどいいのかもしれない。そう思ってノートを開きシャーペンを取る。
頑張ったせいで頑張れなくなり、突然壊れてしまった姉。いつから苦しかったのだろうか、そんなこと同じ家、同じ部屋にいながら全く気づかなかった。姉は助けを求めることができたのだろうか。少なくとも、私に向かっては何も言っていなかった。
無理しないで助けを求める方法だけ覚えておけばいい。
姉は私に無理はするなと言いたかったのだろうか。
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