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「ねぇ、あなた、今日こそは覚えているのかしら」
妻の美枝が突然訊いてきたので、良雄はコーヒーを飲む手を止めた。
妻は時々、こんなふうに不意をついた質問を投げかけてくることがある。
「覚えてる?」と訊かれたときの答えは、大抵が何かの記念日だとか誰かの誕生日、どこかへ出かける予定日など、日付に関することが多い。
良雄はリビングに飾ってあるカレンダーを横目に見ながら、頭の中でスケジュール帳を開いて何か符号するものがあるか確かめていく。
しかし、特に思い当たることはない。
「いや、何かあったかな」
「……そうね。いいのよ別に。訊いてみただけだから」
「……」
温度のない瞳で良雄を見ていた妻の表情がますます冷えていく。
良雄はばつの悪さをごまかすために、コーヒーを啜る。コーヒーはすっかりぬるくなっていた。
このところ、美枝の良雄に対する態度は悪くなるばかりだ。
いつもイライラと不機嫌で、突然怒り出したり泣き出したりと、精神的に不安定になっているようだった。
こちらが気づかって「何かあったのか」と尋ねても、どんよりと暗い目で見つめ返されるだけで何も言わない。
結婚して五年、だんだんと夫婦の仲が冷めていっているのには気づいていた。ささいなケンカも増えていた。
半年前良雄が事故で入院した頃から、美枝の情緒不安定がひどくなったように思う。
ケガは右足の骨折と、頭を打ったらしく事故前後の記憶が曖昧になっていたくらいで大したことはなかった。医師によれば、事故前後の記憶が飛ぶことはよくあることらしい。
美枝は当然見舞いに来て世話を焼いてくれたが、表情は頑なで、態度もどこか事務的だった。
良雄が退院してからも、美枝は良雄に対して線を引いて接している。
玄関からバタン、とドアの閉まる音がした。美枝が一足先に仕事に出かけたのだろう。
妻はこのところますます仕事に打ち込んでいる。自分が分担している家事も疎かになっていた。
以前なら家事のことで良雄が文句を言うと、美枝も言い返してきてケンカになったのだが、最近は良雄が何か言っても美枝は何も言い返さず、ただじっとりと良雄を睨み付けるだけだった。
かといって美枝が何か家事について改善するわけでもない。しかしそのことで良雄が怒鳴り付けても黙っている。ケンカにすらならないのだ。
良雄はため息をつくと、空になったコーヒーカップを洗うために立ち上がった。
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