【第1話 黒い瞳に映る世界は、果ての闇か救いの閃光(ひかり)か】

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「……………………」 言葉にならず、ただ目の前の状況を必死に受け入れる。 薄暗くてよく解らないが、華やかな貌立ちをして、唇に紅をひいている女性が安堵の表情でこちらを見ている。どことなく無表情に見える、整った人形のような、肩幅や首筋でやっとそうだとわかる男。そのすこし後ろから、体格も、貌立ちも雄々しく精悍な癖毛の男が関心の混じった瞳を向けてくる。 何が、起こっているのだろう。 ふと視線を落とした先に手首があって、鎖があって、手首の辺りが少し重くて…まさしくそれは自分の所有するものであって、走馬灯のように情景が甦ったーーー 天井の高い小屋の中で、することもないので眠りの世界に身を預けようとしていた。 子供の泣き叫ぶ声が聞こえた。 低い怒声が聞こえた。 女の半狂乱な声や、馬の足音。馬車の音。 見えない外の様子が怖くなって、真っ先に兄のことを案じた。 しばらく逢っていないけれど、隣の屋敷にいるはずの彼。 けれど確かめるすべもなく、扉は開くこともなく、ただ美しいくらいに鮮やかな橙色の炎が現れた。 どんどん熱くなっても、苦しくなっても、心の底だけ冷たくて。 これが本当の絶望なのかと思った。 その先はもうなにも憶えていない。けれど、夢でも嘘でもないことは手首に絡まる鎖が証明している。 生きている。 あの扉は開いて。 自分は、援けられたのか。 なんとかそれを受け止めて理解して、もう一度視線を上げた。 「からだ…平気?」 女性の声が心配そうに訊いてくる。女性的で、でも甘ったるくない、芯のある優しい声。 ランゼはすこし思案したのち、なにも違和感がなかったので頷いた。 「そう、よかったわ」 と、優しい笑顔が向けられる。その傍で、癖毛の男も鼻を鳴らした。無表情の男も、よく見ればその瞳の奥に穏やかな色を覗かせている気がした。 からからに渇いた喉を感じながら唇を開いた。 「……たすけて、くれた…?」 久しぶりに出す所為で時々掠れる声を他人のもののように聴く。ああ、と癖毛の男が頷いた。 「俺は、ロトス。傭兵団、っていってわかるか? その一員だ。ここは、俺らの本拠地の砦」 ロトス、と名乗った癖毛の男は、見た目にそぐう、太くて低い男らしい声をしていた。 「ユイよ」 「シーディだ」 やはり違和感のない、低いけれど、透き通るような声。 傭兵団、というのはなんとなく解った。本は、兄がいろいろと読ませてくれていたから。 「……ありがとう。私は、ランゼ」 一瞬、空気がぴんと張ったことに、ランゼは気づかなかった。 ランゼは目の前の整った横顔を、なにを想うわけでもなく眺めていた。長い睫毛が規則的に上下するのをなんとなく追う。思わず息を潜めていることに気がついた。 カチャン、と唐突に音が響く。 「…開いた」 ぽつりと、低く呟く声。左手の重みがするりと抜ける。久々に軽くなった左手は、どこか違和感があった。思わず胸元に引き寄せる。 「ごめんな、時間がかかった」 シーディは少し眉根を寄せて云った。先ほどまで横から眺めていた瞳にまっすぐ見られて、ランゼは思わず鼓動が早まるのを感じる。 「あ、いや……ありがとう」 「どういたしまして」 彼の形の整った唇が弧を描いて、切れ長の瞳がすぅっと細められる。笑った、とランゼは心の中で呟いた。そう思ってから、自分もしばらく笑っていないことに気がつく。いつからだろう、そう考えて、兄の姿を思い出す。心臓をわしづかみにされるような胸の痛みにくらくらする。 「気分、悪いか」 心配そうに覗き込む胡桃色の瞳にぶつかる。ランゼは首をふったが、胸の奥には鉛のような冷たい重みが残ったままだった。 「とにかくゆっくり休んだらいい。なにか欲しいものがあったら、遠慮なく云っていいから」 シーディがそう云い終わったか終わらないか、そのくらいでランゼは言葉を押し出した。 「戻りたい……街に、戻りたい」 思わずあふれた言葉だった。声に出してから、自由になった左手を握り締めていたことや、自分が情けない表情をしているだろうことに気がついた。 云った瞬間に、シーディがどんな表情をしていたかは解らない。 ただ、彼はすぐにやさしい表情をして、ああ、解ったと頷いたあと、瞳を伏せ気味に逸らした。
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