婚姻届と離婚届

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婚姻届と離婚届

「ねえ、覚えてる?あのカフェ」  私は左斜め向こうを指差した。そこには区役所の端に併設されているカフェがある。  返事がないので、私の右隣を歩いているはずの夫を確認しようとして振り返ると、夫は「嫌悪感丸出しですよ」と言わんばかりのブサイクな表情をしていた。下唇をだらしなく前に突き出し、眉間には深い皺を作り、せっかくのパッチリした目を細目にして、私にネガティブな感情を訴えている。  ああ、また私に不満ね、はいはい。  不満があるときの夫のこの顔。何十回、いや、何百回、見たことだろう。ホントに嫌。ああ嫌だ。最悪。 「婚姻届を出しに来たときの思い出とか・・・・離婚届出しに来たときに話す?デリカシーないんじゃない?」  夫はその不満顔のまま、区役所の建物に入って行った。  せめてその下唇を元に戻してから入ってほしい。  今日、夫と私は離婚する。  十五年前、一緒に婚姻届を出しに来た場所へ、また一緒に離婚届を出しに来た。  調停だの、公正証書だの、弁護士に相談だの、そういったものは一切ない、円満な?いや、簡易離婚だ。要は二人とも日常からはずれたことをするのが苦手で、めんどくさがりなのだ。今住んでいるマンションからどちらが出ていくか、いつ出ていくかさえ、決まっていない。なぜなら二人とも引っ越しがめんどくさいからだ。これでは離婚届を出したところで、結婚生活が同居生活に変わるだけだ。しかし二人ともそこは気づかぬふりをして(口に出したほうが引っ越さなければならなくなるから)気持ちだけでも先に離婚しよう、ということになった。  なぜ離婚することになったのか。  あれもこれも、言い出したらキリがない些細なことまで、お互い文句はあるのだが、ひと言に集約するなら  愛が冷めた  それだけだ。  十五年という年月は、愛情が冷めるには十分な時間だと思う。 「市民課だっけ?」  私は夫に確認した。  夫は庁舎案内で市民課を探した。 「三階だってさ。全然記憶にないよ。エレベーターどこだろ」 「階段で行こうよ」  私は中央階段を指差した。 「三階くらい、平気でしょ?私は平気」  夫はムッとして、我先にと階段へ向かった。私も早足で階段を上る。  三十代半ばで結婚し、お互い現在五十代。でも全然衰えてないから。運動不足でもないし、なんならスタイルだって見せられるくらいバッチリだ。三階くらい息も切らさずに余裕で上れるから。  無言の闘い。無言の、くだらない競い合い。  バカだな、と心の片隅で思う。相手に別れたくない、と思われたい。別れてから、惜しいことをした、と思われたい。一生後悔してほしい。  そんなくだらない見栄を、お互いに張っている。だったら離婚なんてやめときゃいいのに。引き下がれない。  ハアハアハア。  二人とも肩が大きく上下に動いている。 「三階なんて・・・・すぐだな」 「うん・・・・わりと・・・・近かったね」  引き分けだな。お互いにそう思っている。  市民課は右側にあった。  カウンターでなにやら揉めている男性がいる。そして長椅子で待っている若いカップルがいる。 「私達、三番目ってこと?」  市民課の中に目をやると、三人職員がいる。が、対応できません、とばかりにパソコンのキーボードの上で、超高速で指が動いている。 「時間、かかりそうだね」  私が夫の顔を見上げた瞬間、夫のおなかが派手にグウー、と鳴った。 「ほら、朝ごはん食べないから」  今朝初めて、夫が私の作った朝食を拒否した。ああ、夫は離婚に向けて動いているのだな、と寂しく思った。 「どうする?」  私の「どうする?」は二択を意味していた。おなかをすかせて、どのくらい時間がかかるかわからないまま市民課の前で待つか、もしくは先ほど嫌がったカフェでおなかを満たし、時間をつぶすか。 「・・・・なんか食べる」  不本意だけど、と続けたい言葉を、夫が飲み込むのを確認してから、私達はカフェに向かった。  十五年前。  一生一緒にいる未来を思い描きながら、私達は区役所に婚姻届を提出しに来た。  簡単だった。  職員のおじさんは日付や印鑑のチェックをササッと済ませると 「受理しました」 とだけ、機械のように事務的に言った。 「はあ、どうも・・・・」  あまりにも心の入っていない言い方に、どうしてもありがとうと返すことができなかった。  カウンターを離れたものの、夫も私もなにか引っかかりを覚えて、廊下に立ちすくんだ。 「おめでたいよね?一応」  私が不安そうに夫に尋ねると 「たぶん・・・・」 と夫も区役所の人の言い方に地味に傷ついたらしく、沈んだ目をした。 「なんかちょっと食べて帰る?夕飯に差し支えない程度に」 「うん」  私達は明るい気分に変えようと試みて、区役所の端にあるカフェに入った。温かいものでも飲みながら、未来の楽しい話をしよう、と思った。  カフェの店員さんは出窓から外の景色を楽しめるテーブルに私達を案内してくれた。  コーヒーを注文し、窓から公園の景色を眺めた。遠くに池も見えた。  視線が遠くから近くの窓台に移ると、うっすら埃が乗っていることに気がついた。  出窓の手前の窓台には、窓台より一回り小さい白い布が敷かれ、布の上には一輪挿しの花瓶にかすみ草が挿してあり、その隣にはスマートフォンほどの大きさの猫のぬいぐるみが三つ並んでいた。敷かれている白い布全体に少し埃が乗っていて、猫のぬいぐるみは毛に埃がからんでいた。花瓶だけは毎日水を取り替えているのか、きれいだった。 「布を敷いちゃうと、拭けなくなるんだよね」  几帳面で、掃除には特にうるさい私は、無意識に自分の価値観で、そう言葉にした。 「掃除しにくくなるから、私なら何も置かないな」  すると夫は、あり得ないような言葉を軽く言った。 「小姑かよ」  夫の冷ややかなひと言に私はとても驚いた。心臓がバクバクした。 「え?なに・・・・」  私がうろたえていることに、夫は気づかなかったのだろう。 「重箱の隅をつつくみたいなこと言うなよ」  私はもちろん、お店の人の掃除が行き届いていないことに文句を言ったわけではなかった。私だったら窓台をいつもきれいに拭いておきたい。せっかくの出窓なのだから、埃が積もるようなことはしない、と思っただけだ。しかし口に出してしまったせいで、店内の掃除に文句をつけたようなかたちになってしまった。  だが直接店員さんにクレームをつけたわけでもないのに、夫の言い方はひどいのではないだろうか。小姑だの重箱の隅をつつくだの、結婚したばかりの相手に言うにはきつすぎる。  私は傷ついた気持ちを抑えられなかった。  涙が溢れてきて、どうしても止められない。 「え、なに、泣くほどのこと?」  夫は私の気持ちを理解しようとしていない。理解できないにしても、理解しようと努力すらしていない。それが伝わってくる。夫は今、『こんなことくらいで泣くのかよ、めんどくさいな』 と思っている。かすかに聞こえてきた夫のため息と舌打ちがそれを証明した。 「結婚、やめる・・・・」  私は涙声だった。  夫はさすがに焦り出した。 「ちょっと・・・・ちょっと待って。えーと・・・・そう、結婚やめるとなるとさ、またさっきの、仕方なく対応してます、みたいな職員さんと関わらなきゃならないよ?それは嫌じゃない?」  それは確かに嫌だ。がんばれない気がする。でも私の意思を嫌みな言い方で否定する男と結婚したら、幸せにはなれない。  私は苦悩した。泣きながら脳をフルに使った。 「一日、考えてから決める」  私はそう答えを出した。  あとで思ったのだが、区役所は時間外や土日に離婚届を受け付けている。その手があったのだ。そうすればあの仕方なく仕事をするおじさんに会うこともなく、嫌みな否定をして尚且つ舌打ちまでする夫と別れられたのに。そのことに気づいたのはずいぶんあとだった。  私が一日考えると決めて、さっさとカフェを出ると、夫も急いでお会計を済ませて、追いかけてきた。  そして、その『一日』はずるずると十五年かかることになるのだが、このときの私はまだ知らない。  離婚届を提出しに来た私達夫婦は、昔、婚姻届を出した日に座った、出窓のそばのテーブルで向かい合っている。 「このテーブル、呪われてない?」  夫は居心地が悪そうに、周りをキョロキョロ見回した。 「呪われてない。私達の相性が悪かったのよ」  私はコーヒーを一口、ごくりと飲んだ。十五年前と変わらず、おいしくないコーヒーの味がした。私達そのものだと思った。 「そう?僕は相性、良いと思うけど?」  夫は空腹を満たすために、トーストをコーヒーで流し込んでいる。 『水分で流し込んで食べないで。よく噛んで』  この十五年、数えきれないほど注意してきたが、食べ方は直らない。  私は出窓の手前の窓台にそっと目をやった。また小姑と嫌みを言われるのが怖いので、夫にばれないように、視界の端だけで窓台を見た。  白い布も小さい猫のぬいぐるみも、もうそこにはなく、花瓶と花だけがあった。  きれいに拭いてある窓台には、あのときとよく似た一輪挿しに、オレンジ色の可憐な花が飾られていた。 「サンダーソニア・・・・」  思わず口をついて出てしまった。  サンダーソニアはスズランに形も大きさも似ている、オレンジ色のかわいい花だ。私が好きで、よくダイニングテーブルに飾っていた。夫は一度もなにか感想を口にしたことがなかった。興味がないとはいえ、家族の食卓を彩っているのだから、一度くらいなにか言ってほしかった。  そんな小さな寂しさや諦めが積もり積もって、十五年も一緒にいたのに、離婚することになったりするのだろう。  私の独り言に気づいた夫は、窓台からテーブルに、その小さい花瓶を移動させた。 「ちょっと!勝手にそんなこと・・・・」  私が驚いて、花瓶を戻そうとすると 「このくらい、いいんじゃない?この花が近くにないと、なんか足りない感じがする」  夫はまたトーストを頬張るとコーヒーで流し込んだ。  この花がテーブルにないと、足りない感じがする?本当に?  私は言葉にならない切ない感情で、胸がいっぱいになった。涙で視界が滲んだ。  夫はこの十五年、私が何かに悩むたびに否定はする。嫌みは言う。ゆっくりよく噛んで食べてと何度言っても流し込んで食べて、早食いの大食い。花を飾っても一度もなにも言わない。まるで私のすべてを否定されているような十五年だった。  そんな十五年だったのに。 「ないと、足りない感じ・・・・するの?」  私は恐る恐る訊いてみた。 「ん?だって家ではたいていこの花が飾ってあるだろ?あ、泣くほど嫌だった?ごめん」  夫は慌てて花瓶を窓台に戻した。 「マナーとして悪かったな、お店のものなのに」  夫は私の涙のわけを誤解しているようだ。  お互い、きちんと言葉にして、その都度話し合うようにしていれば。傷ついて辛いから、共感してほしい、味方になってほしい、といつも言えていたら。まだ間に合うだろうか。 「離婚、やめる・・・・」  私はまた涙声で言った。 「は?いいけど。なんだ、このデジャヴ」  夫は思い出せないまま、トーストとコーヒーをまた注文した。
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