聡のノートは見ないであげて

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もう一度ボールペンを手に取ってみる。 あの頃はすらすらと書けていた。 でも今はまったく手が動かない。 書けなくなったということは、心が満たされたから――良いことの反動だ、そう思う。 ふーっと息を吐いてペンを置き、聡は立ち上がった。今日はもうやめておこう。いつものようにノートをビニール袋に入れてベッドの下に貼り付けようとして、手を止めた。 駄目だ、ここはもう鍋谷に知られている。 見られてもかまわないとは思うがやっぱり聡の秘密のノートだ。おおっぴらに置いておくのは抵抗があるし、恥ずかしいから出来ることならもう読まれたくない。 どこに隠しておこうか頭を悩ませながら部屋をうろうろと歩き回った。 しかし念入りに隠していても見つかってしまうのは本当に謎だ。自分では隠れていると思っているのにそうではないのだろうか。壮太にまでバレるレベルだ。 それに、鍋谷は普通に読んでしまう。一回目は偶然だったけど、二回目は違う。人の日記を勝手に見るような思いやりの無い人でもないのに……。 だが、その理由については、思い当たるところもあった。 きっと聡のせいなのだ。 普通の人ならばーー聡のように口下手でなければ、話し合いですむことなのだ。 相手が何を考えているかわからなければ不安にだってなる。……好きな人ならばなおさら。例え日記だとしても手がかりを探したくなるのだろう。 あの鍋谷が、聡の気持ちを知りたくて不安になるなんて、未だに信じられない気持ちはあるけれど……。その負い目もあって、強く読むなとも言えないのだった。 聡はクローゼットの扉を開いて隠し場所を探す。 一番奥に掛けてある入学式に着たスーツの黒いカバーが目にとまった。これ、存在を忘れていた。あれ以来一度も袖を通していないこの中に貼り付けておこう。ここなら多分大丈夫だ。 埃を払いながら黒い塊を取り出して床に置く。前面のチャックを下ろし、養生用のテープでノートを包んだビニールを貼りながら、ふと思ったことがこぼれ出た。 「こっそり読んでても分からないんだけどな……」 ノートを読んだとしても元に戻せば聡には気づかれない。自分なら多分そうすると思う。それなのに鍋谷は隠そうともせず、何も悪びれてもいなかった。 自己中心的だと言えなくもない。だがそれは、本人も自覚がなくナチュラルに自信にあふれた鍋谷らしいなと聡は思う。自信があるから非難されるのを恐れてごまかすための嘘をついたりしない。聡のように内に秘めて煮詰まったりしない。 同性の聡を好きになってくれたことについても、この前恐るおそる聞いてみた。女の子の方がいいんじゃないか、と。鍋谷はふいをつかれたような顔をしたが、すぐに笑って聡を見て言った。 「まだそんな事言ってるんだ。こんなに可愛がってるのに、しんぱい?」 そうして聡の顔を真っ赤に変えた後、「あーうん。俺もそれ考えて調べてみたんだけど、よくわかんなくて。聡が心配するならあえて言うと、パンセクシャルに近い感覚なのかな」 「パン……?」 「そう。どんな人でも魅力的なら好きになってもおかしくないし、逆に縛りがあるのにちょっと違和感があるなって気づいた。だったら俺が聡を好きなこの気持ちは?ってさ。なんかその枠自体が窮屈なんじゃないかな、俺みたいなのは」そう、あっさり言った。 ぽかんと口を開けてそれを聞いた聡は、じわじわくる嬉しさにどうしようもなく身体を火照らせながら、やっぱり『太陽みたいだ』と思った。 おそらく都会の大学で様々な価値観に触れた影響もあるのだろう。それでも鍋谷は、自分の湿った懊悩を一瞬でカラカラに乾かして、蹴散らしてくれた。人を嫌いになったことがないんじゃないかと思うほど、誰も彼も、みんなを引き寄せ照らす人。 その時から、聡も鍋谷を見習って、出来るだけ言葉にしよう決意した。 それから努力しているのだが……やっぱり自分には難しい。 考えていることが口に出るより先に、どう思われるかが気になって頭の中で言葉が渋滞してしまう。 鍋谷みたいな人間にあこがれていても、彼みたいな人は特別でそうそう鍋谷みたいにはなれない。 ――でも。 ふと考えて急に怖くなった。 ――そのせいで鍋谷が離れて行ってしまったら? 恐怖で、目の前が一瞬暗くなった。 想像だけしていた時とは比較できない。だってそれは現実になり得るから。 手足が凍てついてしまったのではないかと思うほど強張る。 聡はしばらくそうして固まっていたが、弾かれたように閉じてしまった黒いカバーのチャックを下ろし、今さっき自分で貼り付けたビニールを音を立てて引き剥がした。焦燥感にかられながら、乱暴に引いた椅子に座り、もう一度ノートを開き直す。 聡の頭の中では、今まで考えたこともなかったことを願っている。 ――お願い、読んで。 ――僕のノートを見つけて、読んで。 新しいページにペン先を置く。 僕は――幼馴染の彼のことが――。 ああ駄目だ。動悸がする。ただノートに書くだけなのに、信じられないくらい緊張する。 ペンを置いてためらって、ただの点でノートを汚して、一旦ペンを置く。 浅くなる呼吸のせいで渇いた唇を舐めて、再びペンを手に取りると、聡は目を閉じ、しばらく祈るように胸の前に握ったこぶしを掲げていた。 そして一つ深呼吸をすると、震える手に力をこめて書きはじめる。 僕は、幼馴染の彼のことが好きなのです。 出会った頃から十五年が経った今も、僕の気持ちはちっとも変わりません。彼のそばにいられるおかげで日々深く、より濃くなるばかりで、自分でも怖いくらいです。 彼も僕の気持ちを知っています。 だけど僕は彼に、一度も『好きだ』と直接伝えたことがないのです。情けない自分が心底嫌になります。伝えたいけれど、その場面を想像しただけで僕の体は高熱を出したように震えだします。僕は自分に自信がありません。そんな人間にはその一言を発するのが難しくてたまらないのです。臆病すぎて出来ないのです。 彼は、僕を『見ているだけで好きだと思っているのが分かってしまう』と言います。でも本当に伝わっているのでしょうか? 僕はもう……彼のそばにいられる幸福を知ってしまった僕はもう、離れては生きていけません。その切実さが本当に伝わっているのでしょうか? 鍋谷――お願いだ。読んでいるなら、知ってほしい。 鍋谷……子供の時呼んでいたみたいに、バスケ部のみんなが呼んでいたように名前で呼んでもいいかな? 仁志(ひとし)くん。 僕は、 だめだ書いてるだけなのに本当に緊張する! でも伝えたい。 僕は、 仁志くんに『聡が好き』って言ってもらえたときには、本当に天にも昇る気持ちになった。このまま死んでもいいと思ったくらい。 本当だよ? 一緒にいるといつも君が全てで、この瞬間と僕の残りの命を引き換えにしてもいいと思えるんだ。 でも、嫌だ。死にたくはない。だってこれからも仁志くんを見ていたい。一番近くで見ていたい。仁志くんが皆に好かれるのは知っているけど一番はずっと僕がいい。 無理なこと言っているかな? 身の程しらずかもしれないね。僕はどんどん欲深くなる。ちょっと、心配だ。重いってまた笑われるかな、だけど。 仁志くん、ずっと前から、 今も、これからもずっと、 僕は君が好きだ。 大好きだよ――
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