聡のノートは見ないであげて

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スタンドライトの明かりは聡の顔をはっきりと照らしはしない。ぼんやりとしか見えないとわかっていても、ほどんど泣きそうに歪む表情を見られたくなくてシーツに顔を埋めて隠す。鍋谷はあきれた顔でそんな聡を見た。 「そんなこと思ってたの。ほんと表に出さないのな聡は」 家族にも良く言われる。少しは声に出しなさい、エスパーじゃないんだからねと。 「もーおまえ危ないわ」溜息をつかれて、聡の気持ちが完全に萎んだ。 「だからそのぶんノート(それ)の中だと饒舌なのかな。悲劇のヒロインみたいに酔っちゃってるんでしょ? でもそれじゃ俺が困るよ、不安になるの」 悲劇のヒロイン……そんなつもりはない。でもそう見えるのだろうか? それが鍋谷を困らせている……。 「こっち見て」と言われて、聡はのろのろと手をついて頭を起こす。 ベッドに座って身体を捻りこちらを見る鍋谷は乱れた髪も絵になる。広告写真のモデルのようだ。東京に出てきて更に洗練され、きっと同年代の群れのなかでも際立って目立つ容姿をしている。その話を聡にすることはないが大学でも相変わらずモテているのだろう。 先月には、彼のクラスメイトが数人、家に来ていた事があった。一緒に課題をするためだったと後で聞かされたが、バイトが終わって家にたどり着いた聡は帰り際のその集団と遭遇して、ひどく気後れをした。 聡も知っているブランドのロゴを身にまとい、思い思いの流行のスタイルで決めている美しい彼と彼女ら。ぺこりと頭を下げて脇に避ける聡に無遠慮に視線を投げかけて、「友達?」と鍋谷に聞く。「ん、ルームメイト」と応える鍋谷に、聡は申し訳なくてたまらなかった。 高校生の時だって冴えなかったけど、いまだにあの頃と同じ服を着て、より確実に生活に疲れている自分は、彼らにどう見えているのだろうか? うつむく聡に、金色のピアスが揺れる大人っぽい女性が声をかける。「よろしくね」、そう微笑むつるりとした顔を見たら一層みじめになった。鍋谷が酔ってこぼした『告白されたサークルの彼女』の顔が彼女になって、はっきりと像を結ぶ。「俺も出てくるよ」そう言う鍋谷に寄り添う姿は、完璧で、完璧すぎて……手が届かないと思った。 やっぱり遠い世界だ。その日聡は見えない境界線をはっきりと肌で知った。 もう一度枕に顔をうずめたくなった聡を、鍋谷の声が引き戻す。 「ねえ聡。俺なんてたかが地方の個人病院の息子だし一浪してるし、周りにはもっとすごいやつごろごろしてるからそんなにモテてもないよ?」 聡の考えている事を見透かしたように鍋谷が言った。 だけどモテないなんて、そんははずない。鍋谷は太陽なんだ。謙遜しなくても自分にはわかっているのに。微かに反発する気持ちが湧く。 「それにもうガキじゃないし、告白されても返さなきゃなんて思わないよ。こんな俺を好きになってくれてありがたいとは思うけど、嬉しいとも思わない」 「…………」 黙り込む聡に目を細めながら鍋谷は言う。 「それって何でだと思う。自分のせいかも、とか、思わない?」 「……え?」 聡が怪訝な表情をすると、鍋谷はひとつ息を吐いてからあきらめたように目元を緩めた。 「やっぱり全然響いてない。俺はさ、もう自分の中の容量が一杯なんじゃないかなと思ってるんだけど」 「容量……」 「そう、一緒に暮らし始めてこの二年間で俺の中は聡から受け取る気持ちでいっぱいになった。だからこれ以上は受け取れないし応えられない、そういうこと。全然気づいてなかった?」 どういうこと? 自分はそんなにも鍋谷への思いを表に出していただろうか? じわじわと顔が火照ってくる。上目づかいでうかがうと、「な」と笑う鍋谷に射貫かれて世界がピンクの花吹雪で埋め尽くされた。 ぽーっと頬を染める聡を見れば、誰の目にも何を思っているのか見透かすことなんて容易い。 「もー何でそんなふうになるの? 可愛いな。やっぱり全然勘違いなんかじゃないじゃん!」 鍋谷が聡の髪を子供にするみたいにかき回す。すぐに離れて行った手を名残惜しく感じながらも、どう反応していいのか分からず視線を外す。下がった眉毛が聡の顔を悲し気に見せる。 「聡を見てるとさ、人って愛情を受けとるより、注ぐ方がより幸福を感じてるんじゃないかって思うんだ。聡はきっと、俺の事ずっと好きで、ずっとそういう状態なんだろうね」 幸福……そんな事は考えたことが無いけど……。 しばらく考えたあと、聡は鍋谷の言う通りだとこくんとうなずく。 確かに自分はずっと幸せだった気がした。 お金が無くて他の人がしなくてもいい我慢をした時や、試験の結果がめちゃくちゃ悪い時。自己紹介で面白いことひとつ言えなくて、自分には良い所なんて一つも無いと思う時、何もかも全部どうでもよくなることもあった。 だけど、そんなことを長々と考える暇はないくらい、聡は鍋谷が好きだった。 叶わなくても、鍋谷が好きで、その言動に一喜一憂すれば楽しかった。生きていると感じていられた。 だから高校を卒業する時の喪失感はことさら大きかったのだ。彼のものを盗んでもいいと思ってしまうくらいに。
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