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「聡がうらやましいよ」
鍋谷がぽつんと落とした言葉に聡は耳を疑う。
「素直に愛せるのって一種の才能だと思うんだ。まあ大体は大なり小なり備わっているんだろうけど……正直言うとさ、俺はそういうのずっとわかってなくって。まあ恵まれてたんだろうけど、どんな子とつき合っても注げる程の愛情なんて感じたことがなかった。周りのみんなの恋愛の話もぴんとこなくて、適当に相槌打つだけだった」
「……そんな」
「だから好きだと思ってくれた分返せばいいやって、相手にまんま投げて適当にやってたんだ。相手の子の好意に甘えてたんだよ」
そんな風に思っていたんだ。聡には想像もつかなかった。たくさんの子とつき合って、それを存分に楽しんでいるように見えた鍋谷が。
「『優しいけど最悪のヤリチン』っていうのは、あながち間違ってないの」
「そんなことない!」
珍しくきっぱり否定する聡を流し見て鍋谷はふっと表情を緩める。そして思い出し笑いをする。
「聡ってさ、いつも好きでたまんないって顔で俺見てきてさー、あ、今なんか幸せなんだろうなってすごくわかるんだよ。でもこっちが見返すと『何も考えてません』って振りして視線そらすだろ? ついかまいたくなるけど、ちょっと重いよな」
「……え? お、重かった?」
呆然とつぶやくのに鍋谷はふきだした。
「重いだろー。最初の日記からだいぶ重かった。それまでは――気を悪くしないで欲しいんだけど、聡って俺には透明だったの。居てもいなくても別にいいって感じ。でもそのノート読んでそんなこと考えてたんだって知ったらさ、急に質量もって迫ってきた。あ、この子こんなんだったんだって急に」
「…………」
聡は言葉もなく鍋谷を見つめる。
触れているはずのシーツの感触が遠い。これは現実なのか? まるで繭に包まれているように世界が遠い。
「それなのに聡って俺に近づいてこないじゃん。俺のこと大好きなのに、他の子みたいに自分からは『愛してちょうだい』って求めてこないの。そんなの気になってしょうがないよ。ずるいんじゃない? 自分だけ幸せ感じちゃてさ」
そんな……ずるいなんて、そんなはず――。
聡にとっての鍋谷は、言うなれば額縁の中の白馬に乗った王子様だ。彼につながれるのは一方的に観察して綴ったノートの中だけのはずで、近づけないし触れられない。ずっとそう思ってきた。
もともと世界が違うんだ。自分が鍋谷に影響を与えることなんてあり得ない。
あり得ないはずなのに。
――いつの間にか世界は変わってしまったの?
そう思った時、指先からすっと凍えるような感覚がして、聡は思わず自分の腕を抱いた。怖い。反射的にそう思った。
鍋谷が言う通り、こうして一緒にいられるだけで自分は幸せだ。でもこんなのは聡には過ぎた幸せで、今は正直恐ろしい。嬉しいより怖いが勝っている。ノートに鍋谷と関係していることを書けなかったのはそのせいだと、やっと今腑に落ちた。無意識に自分の心を守っていたのだ。
現実が、憧れを追い越してしまった。
ひょっとしたら鍋谷も僕を好きでいてくれるかもしれない――一度そう期待してしまったら、また落胆した時の傷はきっと浅くはない。致命傷だ。忘れられないあの日のように、『一緒に暮らそう』なんて、彼がまた奇跡のように言ってくれることはきっとない。今度こそ一生立ち直れないかもしれない。
聡のノートのページはその後ずっと真っ黒に塗りつぶされる。
だったら、どうせ自分なんかと、都合よくあきらめた方が楽だ。最初から期待しなければ、ずっと幸せだ。
だから聡は、鍋谷がどうして自分を抱くのか聞かなかった。鍋谷の気持ちを知ろうとしてこなかった。
でも、それは……彼を遠ざけることと同じだったのだろうか?
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