聡のノートは見ないであげて

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身じろぎする鍋谷に借り物の立派なベッドがきしむ。急に音が耳についてしょうがない。最中も派手に音を立てていたっけ。大丈夫だろうか、持ち主が戻る前に壊れたりして弁償するはめにならないだろうか? 余計なことにばかり気をそらせる自分は、きっと最後にあがいているのだと、わずかに残った冷静な脳みその一部が言う。 聡を観察するように見ている彼の目が細くなる。 濃厚な糖蜜みたいにとろりと甘さを増した空気に溺れてしまいそうだ。 鍋谷がにじりより聡の首を引き寄せる。息遣いさえ感じる距離で、彼は言った。 「恥ずかしがって目をそらせてないで、俺の事も見てよ。俺にも思いっきり可愛がらせて」 聡の眉が、困ったように下がった。 「俺にも幸せ感じさせて?」 ――俺、聡が好きになっちゃったんだ。 そう言う鍋谷の声はもうほとんど吐息のようで、よっぽど近くなければ拾えない。しかしキス寸前の距離にいた聡には何の問題もなかった。 僕の思いは、全く信じられないことに、叶ってしまいました。 あれから僕らの寝室はひとつになって、時間が合わなくても必ずお互いの隣で眠ることに決めました。僕が家に帰ってくると、彼はリビングのテーブルで教科書を開いている事が多いです。僕は邪魔をしないようにこっそり小さく『ただいま』と言って風呂に入り、パジャマに着替えて、そしてベッドに入り彼を待ちます。 もういい加減に慣れればいいのに、毎回この時間は胸がどきどきして苦しいのです。ある種のストレスと言ってもよいのかもしれません。こんなに心拍数が上がり血圧も上昇しては心疾患のリスクも高まってしまいます。いつか彼に相談した方がよいでしょうか? しかし、僕が寝ていると思ってそっと彼が毛布をめくり、隣に滑り込んでくる時、僕は得も言われぬ幸せな気分になるのです。 その瞬間はいつも、死んでもいいとさえ思われるのです。 『思いっきり可愛がらせて』そう言った言葉に違わず、毎晩彼は僕を引き寄せ、抱いて寝ます。そっと腰に腕を回して寄り添われると、僕の身体が思わず跳ねて、それでしばしば起きていることがばれてしまうのです。すると彼の手は、そのまま僕のパジャマの中に入り込み……。 「あー! こんなの書けないよ」 聡はボールペンを投げ出し白紙のままのノートの上に突っ伏す。頬に紙がざらりと触れるのは、あの夜聡の唾液で濡れてふやけたせいだ。指で辿れば思い出す。何度も激しくいかされた記憶にじんと腹の奥が疼き、あわててノートを押しやった。 しばらくそうしていたが、やがてのろのろと頭を起こしスマホを引き寄せる。そしてさっき届いたメッセージをまた表示させた。 ――今、虹が出てたよ。見た? それは写真の添付された鍋谷からもので、夕方バイト中に受信してからもう七回は見た。 本人は研究室の手伝いだとかで今日は大学に泊まりこむらしい。華やかで遊んでいるように見える彼だが、実はとても勉強熱心だ。聡にも教えてくれるのでいつも助かっている。だけど、今日はひとりで寝ることになる……少し寂しい。 聡はもう一度背筋を伸ばしてノートに向き合う。 鍋谷に言われているのだ、ちゃんと一緒に暮らしてからの出来事も書いておくようにと。 それはまた、聡のこのノートを読むつもりでいるのか、と聞きたいけど、そのことについて全く疑っていない様子の鍋谷には言いだせなかった。 彼は一体このノートを何だと思っているのだろうか? 聡個人の日記的な記録ではなく、もしかしたら交換日記か何かだと思っているのかもしれない。 それが証拠に鍋谷は自分も書くと言い出して、聡と同じキャンパスノートを買ってきた。 「俺のも隠しとくから、聡が見たいときに探して」と嬉しそうに言われた。読まれるの前提で書くのってやっぱり交換日記だと思ってる……そう思うがその顔がやけに楽しそうだったから言わないでおいた。多分、内容云々よりも、宝探しごっこみたいに隠したり見つけたりするのを楽しんでいるんじゃないだろうか。鍋谷は意外と子供っぽい遊びに夢中になる。 鍋谷の日記は読んでみたい気もするが、読むのが怖い気もする。 おそらく、読んでみたところで思ったことをちゃんと口にする鍋谷は、文章でもそのまんまなのだろうと思う。聡は今この現状に自分を慣れさせるので精一杯だ。意外な一面が暴露されたところでついていけない。 もしかしたら、彼の気持ちがわからなくなって手を伸ばすことはあるかもしれない。でも今はまだ、そんな勇気が出ない。 そんな時が来ないといいけどと思いながら、聡はパラパラとページめくって手元のノートを読み返した。 「……暗いなあ」 高校時代に綴った文章は、今となっては読み返すのも恥ずかしい。 そういえば鍋谷に『重い』とか『悲劇のヒロイン』とかさりげなく悪口を言われていなかったか? だって誰にも読ませるつもりは無かったんだ。改めてこれを全部読まれたかと思うと、今でも顔から火が出る思いがする。そういう所は、ちょっと察してほしい。 まあ文章自体はアレだが、こうして読んでいるとあの頃の心情がありありと蘇ってくる。 聡は、どこまで行っても蚊帳の外の自分に納得しながら絶望していた。考える余地もなく日々生まれる恋心をあきらめ続けながら、ノートの中でしか主役になれなかった。 行き場の無い気持ちをこうして書くことで、聡は救われていた。孤独な自分が自分のために編み出したセラピーだ。 このノートが自分の心を守ってくれていた。 そう思うと青臭くて拙い文章も全てが愛おしくて、せつなくなった。
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