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卒業して立派な医師になり、そこから先も揺るぎなく輝かしい未来が待っているのは疑いようがありません。
一方僕は成績も良くないし、就職するか、ぎりぎり地元の専門学校に通わせてもらって手に職をつけ、早く独り立ちをして家計を助ける。それ以外の道はありませんでした。
彼の未来に僕はいません。
もちろんです。当然のことです。性格も暗い僕など、日陰の苔がお似合いです。おとなしく退場することになんの異議もありません。
ただ、どうしてもつらいのです。
もう二十年近く彼だけを見てきて、彼だけが好きなのです。
だからせめて、せめて最後にひとつだけでいい。彼の存在のかけらが欲しい。僕はそう思いつめました。それがあれば彼の声を思い出せます。澄んだ瞳の中の光彩の輝きさえ思い出せるでしょう。
いま教室には僕しかいません。
三日後の共通テストに備えて集められた受験組の生徒たち――彼と、彼の仲間たちは、不安を紛らわすように記念だとはしゃぎながら雪の積もる校庭へ写真を撮りに行きました。専門学校志望の僕が見つかれば何故学校に来る必要のない人間がいるのか疑われるでしょう。急がなければなりません。
僕は彼の机に忍び寄ると、放り出したままになっていた通学鞄にそっと手のひらを這わせました。
三年間使っていた鞄です。紺色のナイロンはほつれかけていて汚れも著しいです。しかし、愛しい彼の手が触れたものだと思うと僕にためらいはありませんでした。
人差し指で縁をなぞり、チャックの凸凹をたどった先には鞄以上にくたびれたマスコットのキーホルダーがついています。
ああ。
僕は震える手でそれに触れました。
ああ、なぜ彼はこれを未だに持ち歩いているのでしょう。
元は地元サッカーチームのマスコットでした。首元に巻いた赤いバンダナとかろうじてまだついているタグを見れば確かです。
茶色の肌はもう色あせ毛も抜け、詰められた綿もへたり、見る影も無くなっています。それもそのはずです。これを購入したのは小学校に上がるときでしたから。
かつては僕も同じものを持っていました。いや、彼が持っているこのキーホルダーこそが僕のものでした。
十年前、彼と僕と友達幾人かのグループで、サッカーの試合を見に行きました。親にねだっておそろいで買ってもらったのがこのチームマスコットのカピバラのキーホルダーです。
ところがしばらくたったある日、彼が無くしたと肩を落としていました。それを見た僕は、自分のぶんを躊躇なく差し出していました。彼は「いいの?」と不思議そうに僕を見て言いました、君も大事にしていたじゃないかと。ですが僕はそれを彼の手に押しつけて走って帰りました。
はぁはぁと息を乱してたどり着いた家の中で小躍りして喜んだのを覚えています。僕の大切にしていたものを彼にあげた。今は彼の手の中にある。そんな些細なつながりが幼い僕にはたまらなく嬉しかったのです。
そして、そのマスコットは今、ぼろぼろになりながらも彼の鞄にぶら下がっているのでした。
実は決めていました。彼の鞄でこれが揺れているのに気づいた時から。僕が手に入れるべきものはこれです。最初から僕のもとに戻ってくるものだったのです。
ぐっと爪を差し込み、苦心しながらカピバラの留め具のリングを広げくるくると一周回して、それを外しました。一緒についていた合格祈願のお守りは置いてくるつもりだったのに、そのとき廊下の向こうから声が聞こえたので咄嗟にそれごとポケットに詰め込み、足速に教室を出ました。
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