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廊下を曲がるとき、背中越しに誰かが僕の名前を呼んだのが聞こえました。僕は弾かれたように走り出し、その場から逃げました。
同級生の誰かに見られたようです。もしかしたら、盗んだのは僕だと彼にわかってしまったでしょうか?
それでも構いません。
息をあえがせてひとり校門への道を走りながら、僕はカピバラを抱きしめました。ぎゅっと握るとそれは、まるで彼の体温が乗り移っているように温かく感じました。触れたところから僕の体もじんと痺れるように熱くなりました。
ああ、こんなもので、卑怯にも盗んだもので、こんなにも幸せになれる僕は、なんと情けなく憐れなのでしょう。
しかし誰に蔑まれてもかまいません。この素晴らしい感情は、歓喜は、僕以外だれも味わえません。
ひとりだけ、僕だけの――。
「『僕だけの秘密。背徳の……かー、甘露?』」
「あっ…………、あぎゃぁああああ!!」
聡の叫び声に驚いて、ここにいるはずのない人物がギッと古びた椅子を回して振り返った。
「あービビった。聡くん、帰ってきたんだ」
「おかえりー」と椅子を軋ませた彼がのん気に笑う。床に座って積み木で遊んでいた弟の壮太が「にいちゃんおかえりー」と弾丸のように腹に飛びついてくる。いつもなら重いと笑いながら引きはがす。が、しがみつく弟の重量も遠く感じるほど混乱した頭で、聡は必死に言葉をひねり出した。
「あ……、……え……?」
ぶるぶると震える指で示すものは、自分の勉強机の上に開かれた薄青色のキャンパスノートだ。彼は「これ?」と言ってそれを持ち上げて見せた。
これ、じゃない!
なぜそれを見ている? 家族にも秘密で、厳重に封をして絶対見つからないところに隠しておいたのになぜ!?
そもそも何で家にいるの? 2LDKのボロい木造アパートに家族五人で住んでいるこの僕の家に。まぼろし? 僕はとうとうおかしくなってしまったのか? もつれたまま回る糸車のように思考があふれかえり、そして聡の頭は真っ白になった。
「兄ちゃんお帰りー。友達の鍋谷さん来たから上がって待ってもらってたよ。どうぞお茶です♡」妹の恵莉が鍋谷の前にグラスを置く。
「鍋谷さんとうちらって幼馴染なんですよねー。私もうあんま覚えてないけど、子供のとき遊んでもらってたって聞いてます」
鍋谷もグラスを取ると親し気に恵莉に笑い返す。
「うん、そうそう、なつかしいね。うちすぐそこの角曲がったとこだから。あ、知ってる? 鍋谷クリニック。うちの兄ちゃんと聡くんちの長男の健さんと聡くんとみんなで、道端で鬼ごっことかしてたんだよ。その時は弟の壮太君はまだ生まれてなかったな」
「もちろん知ってますよ鍋谷クリニック! へー。でも鍋谷さんと兄が今も仲良しだったのは意外だなあ。鍋谷さんめちゃめちゃイケてるってうちらの女子高でも超有名じゃないですかー。すっごいファンいますよね」
「そうなの? ありがとう」と如才なくあしらう鍋谷に対して、うんうんとうなずく恵莉は頬を染めてでれでれだ。ほっといたら延々話をしていたそうにしている。
「うちの聡兄は大人しいでしょ? 陰キャって言うか見た目全然違うタイプなのに、高校まで一緒で、しかもずっと友達でいるってすごいですよね」
ちがう! 何も知らない恵莉の言葉に叫びたいほどの羞恥が聡を襲う。
鍋谷とはもう仲良くなんてないんだ! 鍋谷から時々挨拶はしてくれるけど、僕からは話しかけたりできない。小さいころは何も考えずに遊んでいたけど、今はもう本当に世界が違うんだよ。
――なのに本当になんでウチにいるの? 夢なのか?
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