そのとき

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そのとき

 受話器の向こうで「頭、いた――」と聞こえた気がした。と、同時に何かが倒れたような音がして、それきり無音になった。 「お母さん? お母さん!」  何度も呼び掛けては、電話線で繋がっているあちらの気配を探る。  もしかしたら、突然トイレに行きたくなったのかも。もう少し待てば、ごめんごめん、放ったらかしにして、と笑って答えてくれるかも。  そうしてどれくらい時間が過ぎたのだろう。後から確認したら数分だったけれど、永遠にも似た長い時に感じられた。  きっと今すぐ救急車を呼ぶのが正しい。そう思っても、もしもなんてことない理由で離席しているだけだったら迷惑になるという懸念が消えない。  受話器はそのままにして、携帯電話で父を呼び出した。運転中なのか、留守番電話になってしまう。  私は、事実を伝え、一度携帯電話を切った。  こうなったら、実家に行ってみるしかない。どうせ救急車を呼んだとしても、同じくらい時間は掛かるだろう。  幸いにも夫が在宅しており、事情を伝えて車に乗せてもらった。  平日の昼間、道路は混んでいた。父から着信があり、急いで帰るとのこと。  妹たちに連絡を入れ、やきもきしながら実家に到着すると、救急車が停まっている。父が帰ると電話の傍に倒れており、すぐに消防署に連絡したそうだ。  救急隊員は、受け入れ先を探してくれているが、なかなか出発できない。その間に保険証などを用意し、戸締まりをする。  すぐ近くに総合病院も大学病院もあるのに、応急処置から先に進めない。  それは、母の貫く信仰のためである。
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