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⑧
「しばらく来れないんですか?」
「そう、裏の方の関係でゴタゴタしているらしいの、仕事もあって忙しいし、ここへはしばらく帰ってこられないからって……」
あの遊園地の夜からしばらく瑛士は忙しそうだった。そして今日、食材を持ってきてくれた綾子に、しばらく来られないことを告げられた。
しゅんと萎れてしまった俺を見て、綾子は噴き出して笑った。
「いやぁね……。うちの猫は寂しがり屋だから心配なんて言ってたけどその通りじゃない。ほら、元気だして。雑誌とかDVDとか持ってきたし、寂しかったら話に付き合うわよ」
綾子にまで頭を撫でられてしまって本当に猫になったような気持ちになった。
気を使わせてしまうのは悪いので、あまり甘えたくはなかったが、作った料理を一緒に食べてもらった。
それだけでも、だいぶ心は落ち着いたのだった。
それから一週間、瑛士は姿を見せなかった。今日は綾子は来ない日で、リビングで毛布にくるまってテレビを見ていたら、玄関のベルが鳴った。
瑛士も綾子も鍵を開けて入ってくるので、初めてのことだった。
恐る恐るモニターを覗くと、そこには忘れもしない、あの黒い箱にいた頬に傷のある強面の男が映っていた。
確か滝澤という名前で、綾子の話では瑛士の直属の部下。瑛士がいないときはあの店を任されている男だと聞いていた。
もしかしたら瑛士に何かあったのかと思って俺は慌ててドアを開けた。
どしどしといかつい体を揺らして入ってきた滝澤は、見た目通り低い声を出した。
「山崎が見つかった」
滝澤が言ったその言葉は、俺がずっと待っていたもののはずだった。
しかし、鋭く尖ったナイフとなって俺の心臓に突き刺さった。
なぜなら、それはこの生活の終わり。
瑛士との別れを意味していたからだ。
しばらくぶりに見た黒い箱は、変わらず周囲から浮いていて威圧感があった。
その中に連れてこられた俺は、元同僚で俺を騙してくれた男、山崎に再会した。
しかし、山崎はもう山崎ではなくなっていた。
「逃走先でヤケになったんだろう。薬のやり過ぎて頭がイカれちまっている。まともに話せない状態だ」
滝澤が説明した通りだった。山崎は目も虚ろで、受け答えには応じず、ずっとブツブツと何かを言って繰り返していた。
「この状態じゃ、店でなんて使い物にならない」
「そんな……それじゃ……俺は……」
椅子に座った滝澤は乱暴に足を組んで、俺を上から下まで見下ろした。
「角龍さんはずいぶんとお前にご執心だが、この問題は組の方でもえらい騒ぎになっている。単純に金を用意すればいいわけではない。角龍さんに反対の勢力が責任を取らせろと騒いでいてな……。このままだと、角龍さんの立場は危ない」
「そんな……瑛士が……!?どっ…どうすれば…」
「予定通り、お前が山崎の代わりになるんだよ。金を稼げるやつが見つかれば、反対派のやつらも黙るしかない」
それを言われて俺は頭がパニックになって整理ができなかった。
裏の世界の事情とかがよく分からない。瑛士はもう手を引きたいと言っていたが、そんなに簡単にできるものだとは思えない。
責任をとるというのは、指二、三本だけの話ではなく、きっと表の仕事まで影響して瑛士が困る事態になるのだろう。
そこまで考えて、俺の腹は決まった。
瑛士は俺に温もりをくれた人だ。
ずっと閉ざしていた心をこじ開けてきて、まるごと奪ってしまった人。
寄生虫で特売のもやしみたいな俺だけど、ちっぽけな力でも瑛士を守りたいと思った。
「俺でよければ……、それで瑛士が助かるなら、俺を使って……」
俺を見る滝澤の目には何も映っていなかった。感情がないように見えるがきっとこの人も瑛士を助けたいと思っているのだろう。
もともと、俺なんてたいした人間ではない。女の子に寄生して甘い汁を飲んで生きていた、どうしようもないやつだ。
そんな、男一人でどうにかなるのなら、それはありがたいことだと俺は目を閉じた。
短い時間だったが瑛士と暮らしたあの部屋での生活を思い出した。もう二度と帰れない、甘い夢みたいな場所だった。
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