入れ替わり

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入れ替わり

 その日悪夢は起きた。  思えば朝からついていないことばかりだった。履こうとした靴下は片方裏返っているし、寝癖はいくらブラシを通しても直らない。時間がなくなり朝食を早く済ませようとしたが、慌てていたらうっかり牛乳をこぼしてしまい、年頃の娘には鈍臭いと悪態をつかれる。歯磨き粉はなかなかチューブから出ず、力を入れたら逆に出過ぎてしまった。会社へ向かう電車は目の前で一本逃し、時間ギリギリに席に着く。せめて仕事はシャキッとせねばと気を引き締めたつもりが、営業先へ向かう道中運転していると、ドアミラーを当て逃げされてしまう。傘を持っていないのに、営業先から車へ戻ろうとしたところで雨が降ってくる。そして車に乗るとすぐに止む。  まだ午前なのに、厄日かもな、と思っていた。それぞれが些細とはいえ、よくこれだけ不運な出来事が揃うものだ。 「もう、やだなぁ……」  齢五十を目の前にして、情けないため息が口から溢れた。こういうときの心の癒しは、デスクに置いているタロニャンだ。  タロニャンはつぶらな瞳でこちらを見返してきた。ゆるキャラ、いわゆるご当地の「ゆるいマスコットキャラクター」で、おそらく猫がモデルになっている。子供でも絵に描けそうな単純なパーツだが、その小さな瞳に癒されるのだ。   「また眺めてるんですか、チビニャン」 「タロニャンだよ、タロニャン」  ぼうっと眺めていると隣の席から部下に話しかけられ、訂正した。 「朝からついてなくてね」  自嘲気味に呟き、再びため息をつく。しかしこのときの私は、まだ本当の不運が待ち受けていることを知らなかった。  なんとか午前の仕事を終え、昼休みになり、鞄からお弁当箱を出した。 「あ」  ぱかっと開けたお弁当箱には、娘の好物のハンバーグが入っていた。 「……これ、間違えたな」  娘も私もお互い慌てて家を出てきてしまったもので気付かなかったようだが、どうやらお弁当箱を取り違えていたらしい。娘がお弁当箱の見た目に拘らなかったものだから、二人とも同じ方が洗うときや中身を詰めるときに楽だろうということでまったく同じものを使っていたのだが、色くらいは変えておけばよかった。  こちらの量が少ないだけならば私が我慢すればいいことなので構わないのだが、私のお弁当箱――になるはずだったお弁当箱には魚を入れてしまった。娘は魚が嫌いだったはずだ。今頃、クソ親父めと呟いているに違いない。  幸い、娘の学校と私の会社は近所で、走ればすぐ着くような距離だった。連絡をとって交換するか。 『ごめん、お弁当箱間違えてた。校門まで行くから、もしそこまで出てこられそうなら、交換しないか。そちらはもうお昼休みかな?』 『まって、いい、あたしがそっち行く。もう昼休みだから行くね』  連絡をすると一秒も待たずに返事が来た。私が文章を書いていた時間の方が長かったくらいだ。まったく最近の若者はすごい。  やりとりした通り、会社の前でお弁当箱を交換することになった。 「いや、ごめんね、来てもらっちゃって」 「別に。親父を友達に見られたくなかっただけだし」  娘がそっけなくそう言う。そしてお互いのお弁当箱を差し出して交換しようとした、そのときだ。  ビビッ!  何か、体に電流が走ったような衝撃があった。視界がチカチカと白く光り、思わず目を瞑る。体がふわりと浮いて、また地につくような、そんな感覚がした。 「え?」 「ん?」  次の瞬間、自分でも目を疑った。目の前に、自分が立っているのだ。今朝鏡で見た、くたびれたスーツを着ている、冴えないおじさんが。 「まじで? どういうこと?」  目の前の自分がそう呟いた。 「えっ? なんだ、これ?」  自分が発した言葉は、娘の声で、紡がれた。  信じられないことに、私たち父娘は、中身が入れ替わってしまっていた。
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