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僕はコーヒーが苦手だ。わざわざあんな苦いものを好んで飲む人間の意味がわからなかった。
ただ、そんな僕でも年に数回はコーヒーを飲む時がある。それは、頭をすっきりとリセットしたい時だ。あの苦さはぐちゃぐちゃになった頭の中をきれいさっぱりにしてくれる。まるで強盗に入られた居間の箪笥のように、めちゃくちゃに開けられた引き出しをリセットしたかったのだ。
クールな対応の店員が慣れた手付きでコーヒーを僕の前に置いた。淹れたてのコーヒーの香り。香りは元々嫌いじゃない、なんかこう汚れた空気を浄化してくれるような他にはない匂い。
僕は湯気に乗っかった香りを鼻から喉に通すと、そのままカップを手に取り、目を閉じて一口啜った。
うげっ、と心の中で言った。そしてカップをソーサーに戻した。
ほら、 もう頭の中はリセットされた気分だ。僕はゼロの状態から、また、みゆきについて考えてみた。
…あの笑顔、今の僕なら絶対に忘れるようなことはないはずの可愛らしさ。
…みゆきじゃわからないか、と謎の言葉。あれはどういう意味なんだろう。みゆきというのが本名なんじゃないのか。
いや、みゆきは苗字?結婚して何かからみゆきという苗字に変わったのか?
あーもうまた頭が混乱してきた。僕がもう一口コーヒーを啜り、再びうげっ、と心の中で言って目を開けると、目の前にみゆきが立っていた。
「うわっ!!」
僕は思わず声を出しながら立ち上がり、店中の視線を独り占めすると、みゆきはクスクスと笑った。僕は客人と店員に頭を下げ、再び椅子に座った。すると、みゆきも対面の椅子に腰掛けた。
「いいでしょ?相席。」
「え…」
僕は言葉が出ないまま大袈裟に頷いた。
すぐにさっきの店員が来て、みゆきの分の水を運んでくると、みゆきはその場でロイヤルミルクティーを注文した。
「あ、あの。ど、どうしてここに?」
純粋な疑問をまず聞いてみた。
「ちょっと用事あって戻って来てさ、この店の前通ったら、たまたま見つけちゃったんだ。」
僕は、一気に口が渇いてコーヒーをまた一口啜った。やっぱり苦くて顔を強張らせた。みゆきは頬杖をついて、微笑みながらそんな僕をじっと見ていた。
「…な、何か。」
「ううん、コーヒー、飲めるようになったんだなぁって。」
「え?」
僕がコーヒー苦手なことを知っている。それは限られた人間しか知らないはずなのに。
僕は再び、記憶の引き出しを無造作に開き始めた。
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