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「ねぇ、私のこと覚えてる?」
僕は突然、街ですれ違い様に女性に話し掛けられ、足を止めた。
その女性は自分より10歳は下であろう20代前半くらいに見えた。背は小さめだが、セミロングの黒髪が綺麗な可愛らしい女性だった。僕は思わず見とれてしまい、じっと女性の顔を黙って見続けていると、女性はニコッと笑った。
「…わからない…よね?」
僕はハッと我に返り、考えるふりをした。目の前の女性がいつどこで会った人か、全く検討も付かず、糸口など全くない中、僕は記憶の引き出しをひっきりなしに開き始めた。
「え、えっと…。」
「…いいのいいの。わからない方が普通だから…ごめんなさい。」
女性は再びニコッっと笑うと手を振って僕から離れていった。
「あ、あの!」
僕は続きの言葉など用意もしていなかったのに、女性を呼び止めた。女性は足を止めて、僕に振り向いた。
ほら、続きを…何か言うんだ。
「…ぼ、僕は川上…川上剣太(かわかみけんた)。」
とりあえず自己紹介をしてみると、女性はクスクスと笑い始めた。
「…あ、あのぅ。」
「ごめんなさい。勿論、知ってるわよ。私は…みゆき。」
みゆき…最大のヒントを得たのに、僕は全く目の前の女性の正体がわからなかった。
「もう、そんな顔しないでよ。みゆきじゃわからないかもね。」
みゆきはそう言ってまた歩き始めた。僕はもう呼び止めても伝える言葉が思い浮かばず、小さくなっていくそのみゆきが群衆の中に消えていくのをじっと見ていた。
道歩く中年男性の肩にぶつかり、キッと睨まれて、歩道の真ん中で立ち尽くしていたことに気が付き、慌てて端に移動した。再び視線をみゆきに向けた時には、既に人の海の中に溶けていた。
みゆき…みゆき…、何回考えても記憶の中でみゆきという引き出しが見つからない。可愛らしい見た目はきっと前に会っていれば忘れることなどないと自信があった。そして、何故かあのニコリと笑う優しい表情からは、他の人のそれとは違う安心感を覚えた。
僕はみゆきの正体が気になり過ぎて、本屋という目的地を目の前にあるカフェに変更し、ブラックコーヒーを注文した。
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