第0話

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第0話

 月は見ている。  月は見ている。  必死に逃げ惑う男の姿を。何度も転びそうになりながらも体勢を整え、汗を振りまきながら、呼吸を乱しながら走り続ける男の姿を。  深い森の中、木々を押しのけて一直線に伸びている道を無我夢中で走っていた。時折後ろを振り返っては短い悲鳴を上げ、汗と涙でグシャグシャになった顔で足を動かし続ける。  止めるな。  その足を止めてしまっては、待っているのは死のみ。  男は振り返る。奇怪な声を上げて笑っている女が宙を浮いていた。ぼろぼろになった衣服で、乱れた髪で、夜の闇に紛れたその顔は分からないが、きっと奇怪極まりない顔をしているのだろう。  あぁなんでこんなことに。どうしてこんなことになってしまったのか。  誰か助けてくれと願った。助けてくれと祈った。こんな夜の森の中、獣さえも恐れをなして姿を現さない中で誰が助けてくれるというのか。  それでも、それでも男は祈る。願う。  誰か助けてくれ。  先程から覗いている月よ、月よ。見ていないで助けてくれ。 「あ……!」  足がもつれた。地面に吸い込まれるように倒れてしまった。激しい痛みが全身に伝わるが、それでも起き上がる力が湧いてこない。  起きろ、起き上がれ。奴はもうそこまで来ている。あぁ駄目だ体力が疲弊している。力が入らない。  このままでは。このままでは。  女の笑い声が近づいてくる。 「あああぁっ、ああ……!」  声にならない声があがった。全ての絶望が一気に押し寄せてくるようだった。  その直後だ。  突如、空気が割れるような音が一つ。 「――――っ!」  女の悲鳴が聞こえた。いや、悲鳴というより奇声に近い。夜の闇を引き裂くような、耳を劈くような声だった。  男は思わず振り返った。宙を浮いていた筈の女は地面に倒れている。どうした? 何があった? 先程の音は一体……。  呆然とその様子を見ていたが、地面に倒れた女はゆっくりと起き上がる。男は短い悲鳴を上げ、腰を抜かしたまま後退りしようとするが。  動かなかった。  いや、動こうと思えば動けた。だが動けなかった。男の目には起き上がった女よりも、その後ろにいる人影の方が酷く焼き付いていたのだ。  誰かが、いる。  と思ったのも束の間、女は後ろを振り返る。何かを喚いた。だが、何を言っているか分からない。人の言葉ではなかった。獣の咆哮に近かった。  女は喚きながら、手にしていた杖を振りかざす。と同時に現れたのは無数の火の玉。夜の闇を明るく照らすかのような塊が、一斉にその人影へと向かう。  あぁこれはいけない。いけない。男は思わず目を覆った。  だが、人影に向かった火の玉は確実にその人影に当たった。筈だった。 「……?」  女は首を傾げる。人影に向かって放った火の玉は、人影に当たる直前に消えてなくなってしまったのだ。複数投げたのに、全部なくなった。  そんな馬鹿なと、女は再び火の玉を放つ。だが、やはり人影に当たる直前に消えてしまう。  奇怪に笑っていた女の表情が強ばる。何かに恐れ慄いたように声を震わせ、言葉にならない言葉を並べる。  人影は近づく。その右手にはショットガン。  女は何かを悟ったのか、慌てて逃げ出す。目を覆って伏せている男を置き去りに、一目散に。 「……逃がすか」  人影は一言、そう言うとショットガンを構える。暗闇の中でもしっかりとその女の背中を捉え。  ゆっくりと引き金を。  再び空気が割れた。 「おい、無事か?」  地面に突っ伏していた男は、別の声にはっと顔を上げる。目の前にいたのは一人の男。30代後半か、それよりももっと上かと思われるほどの、若くはない男だった。右手にはしっかりとショットガンが握られている。  武器を持っているが、声色は優しい。どうやら彼は敵ではなさそうだ。 「あ、あぁ、ありがとうございます……。急に奴が現れて追いかけてきて、もう駄目かと思いました……」  何度も何度も頭を下げ、礼を言う。助けが来てくれた。願いが叶った。ほぼ無傷で生き残れたのは奇跡にほど近い。  男はふと、女が逃げようとした方向を見る。そこには何もなかった。女の死体も、残骸も、何もかも。 「……やはりあれは、魔女ですか」 「魔女だ。国に管理されていない野良のな」 「や、野生の魔女は、あまり力を持たないから無害だと聞いていましたが……」 「例外はある。あちこちに舞ってる魔力を吸収すれば、あんな凶暴な化け物にもなるさ」  ショットガンの男は息を吐く。随分と手慣れた形で魔女を倒した。こちらは逃げ惑うのに必死だったのに。  まさか、まさかこの男は。 「もしかしてあなた、《魔女狩り屋》ですか?」 「……あぁそうだ。今回は緊急対応だったから報酬はいらん。そこの村の人間だろう。早めに戻るといい」  魔女狩り屋の男はそう言い、森の奥を指差す。あぁ確かにその奥には男が住む村がある。所要で村の外に少しだけ出ただけなのに、魔女と出会うなんて……。  本当に報酬を払わなくていいのだろうか? 彼は命の恩人なのに。  「あの、せめてお礼だけでも……。村もすぐ近くですし」 「気持ちはありがたいが、遠慮しておこう。同行者が待っているからな」 「あ、あぁ、そうですか……」  丁重に断られたのならば引き下がるしかない。とは言え、無償で命を助けてもらったのはやはり気が引ける。  魔女狩り屋の男はその気持ちに気づいたのか、問いかけた。 「港の国へ行きたいのだが、何か知っている情報はあるか? その情報を報酬にする」 「え? 港の国ですか?」  男ははっと顔を上げ、振り返る。確かにこのまま東へ向かえば港の国だ。貿易が盛んで、海を超えてありとあらゆるものが集まると言われている、活気あふれる国。  この村からもそう遠くない場所にあった。徒歩だと3日くらいだろうか。 「……そう言えば耳にした話ですが、夜になると街の外から魔女が侵入し、街中を徘徊していると言われています」 「ほう」 「ですが、その国の大富豪が抱えている魔女が全部退治してくれるそうで、治安はいいみたいですね……」  その言葉を聞いた魔女狩り屋の男は、何度も頷いた。 「礼を言う。それを報酬として受け取ろう」 「え、いいんですか?」 「魔女狩り屋には十分すぎる情報だ」  気をつけて帰れとだけ言い残し、魔女狩り屋の男は元来た道を歩いていった。堂々と歩くその背中は勇ましく、そして大きく見えた。  残された男は改めて礼を口にして、深々と頭を下げた。魔女狩り屋の男は振り返ることなく、夜の闇の中へと消えていく。  何事もなかったかのような静かな空気が漂った。  月はいつまでもこちらを見ているかのようだった。  ◇◆ 「エルマ、遅いよー!」  魔女狩り屋の男が歩を進めると、一台の黒い車が見えた。大きなタイヤが特徴のSUV車だ。そしてその側には一人の少女。  銀の長い髪を二つに結った、まだあどけなさを残した少女だった。待ちくたびれたのか、不満げに唇を尖らせている。 「悪いな。思った以上に距離が離れていた」  エルマと呼ばれた男は、車の後部座席にショットガンを置いた。そこは荷物で溢れかえっていて、足の踏み場もない。  後部座席の戸を閉めると、ポケットから煙草を一本取り出す。ふと空を見ると、無数の星が散りばめられていた。 「港の国の情報を聞いた。夜になると野良の魔女が出るらしい」 「あらら、それは大変」 「その分仕事にありつける。探している情報も見つかるかもしれん」  エルマが煙草を口に咥えると、少女は歩み寄った。 「それ何本目?」 「今日で3本目だ。問題ねえだろ」 「ないけどさー……」  これ以上の言葉を紡ぐのをやめ、少女は人差し指を伸ばす。と、小さな火がふっと現れた。それをそのまま、エルマの煙草の先端へと運ぶ。 「港の国に行ったらアイス食べたい、アイス」 「あぁ、食わせてやる」 「あと新しい服が欲しいの!」 「買わん。この前買った」  けちー! と憤慨する少女を横目に、エルマは紫煙を燻らせた。いい夜空だ。明日は天候に恵まれるだろう。  このまま車を走らせれば、明日には到着する筈だ。 「一気に港の国まで行くぞ。お前は助手席で寝てろ、アーティー」 「起こさないくらいの優しい運転をしてくれたら寝れるんだけどなー」 「慣れろ。俺の運転じゃなくて舗装されてない道のせいだからな」  エルマは携帯灰皿に煙草を捨てると、運転席に乗り込んだ。アーティーと呼ばれた少女も助手席に乗り込む。  シートベルトをつけながら、ふとエルマは思い出す。 「あぁ、アーティー。お前が用意してくれた防壁、助かったぞ」 「野良の魔女程度の魔力だったら余裕で跳ね返せるでしょ? 助けたんだからやっぱり服買ってよー」 「買わん」  とだけ言い残し、エルマはアクセルを踏んだ。アーティーが隣でまた何か言っているが、煩いエンジンのせいで聞こえないことにした。
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