お母さん

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お母さん

 わたしにはお母さんが二人いる。  一人目は産みの親である『お母さん』。  二人目は育ての親である『お母さん』。  産みの親であるお母さんはわたしを出産したのちにすぐに亡くなってしまった。そこで二人目のお母さんとなるべく現れたのが母方の祖母、つまりわたしのおばあちゃんだ。  ただわたしは、物心ついた時から祖母のことを「お母さん」と呼んでいた。それはきっとわたしの父が祖母のことを「お義母さん」と呼んでいたからだと思う。それでわたしも祖母のことを「お母さん」と呼ぶことになった。父も祖母もわたしがそう呼ぶことを訂正することもなかったし、わたし自身実の母親ではないことを理解した時でも呼び方を変えるつもりはなかった。もちろん命に代えて産んでくれた母もわたしにとっては『お母さん』で、本当の母のように育ててくれた祖母も『お母さん』だ。なのでわたしにはお母さんが二人いる。  父は北海道の物産品を営業する仕事をしていて、地方への出張が多く一年のほとんどを日本の各地で過ごし、札幌にある自邸にいることのほうが珍しいほどだった。父は帰ってきたらいつも大量のお土産をわたしと祖母に買ってきてくれた。わたしはそれが楽しみで、美味しいお土産買ってくれるからまあいいかと思い、父がそばに居ないということに対してそこまで寂しさを感じたということはあまりなかった。それはお土産効果もあると思うけど、それよりも祖母がわたしに寂しい思いをさせないように頑張ってくれていたからだと今ならわかる。祖母はわたしの事を本当の娘のように可愛がってくれていたのだ。かわいい洋服やきれいなアクセサリーを買い与えてくれて、化粧の仕方も優しく教えてくれた。どんどんかわいくなっていくわたしを見て父は「しばらく見ないうちにずいぶん変わったなあ。まあ俺が家にいないから仕方ないもんな」と言って頭を撫でてくれた。祖母も「綾子に似て、千里は美人になるよ」と褒めてくれた。綾子とはわたしの実の母親の名前だ。わたしはそうやって評価されることに喜びを感じていた。  お母さんはいつも、筆と墨を持ち歩いている。彼女は書道の先生なのだ。いつもわたしを叱るときは墨で顔にバツ印を書いてくる。すごく恐いわけではないがそのやり方は汚れを落とすのがやっかいで精神的苦痛を大きく受けてしまう。  家の中は書道の文字であふれている。筆で書いていない字は全て自分で書き換えてしまう。カレンダーも全て漢数字にしてしまった。 「お母さん、そこまでしなくても良いんじゃない?」 「そうだね。でもやりたいからやっているだけなの。趣味としてね」  小さいころは筆と墨でいろんな絵をかいてもらった。どんなリクエストもお母さんは完璧な絵を描いてくれた。ディズニーのヒロインなど、色は黒だけだったけれど全く気にならなかった。  書道教室でもお母さんは生徒一が百人近くいるのに一人ひとりに丁寧に優しく指導している。コンクールに提出する作品を指導しているときにも結局全員分を自分で書いて応募してしまい、そのいくつかが賞を取り、それが後々ばれて、お母さんは書道界から追放されてしまってからはわたし一人を指導してくれている。でもそんなお母さんがわたしは大好きだ。  いつも優しいお母さんは一つだけ許せないことがあった。ボウリングで借りたボールを元に戻さず帰ってしまうことだ。お父さんと3人でボウリングに行ったときに、隣のレーンでプレイしていた四人組の若い男性陣がボールを片付けずに帰って行ってしまった。なぜかその中には子供用のボールまであった。それを見たお母さんはその人たちを追いかけて建物の外にまで行って叱りつけて、おなじみの筆と墨でそれぞれの顔にバツ印を書いて言った。その時のお母さんは恐かったので、私も絶対にボウリングのボールは片付けなければならないのだと実感したものだった。  私が大学生になり、お母さんが倒れて入院することになった。  長い間入院するという事だったので、わたしは着替えと何冊かの本を買って病院に届けたが、その本の中に何かと間違えて「オールブラックスが強い理由」というものが混じってしまっていた。 「あ、こんなもの読まないよね。ごめんなさい。持って帰るね」 「いやいや、ありがたく読ませてもらうよ」そう言ってくれた。  それが原因で、次にお見舞いに行ったときからお母さんはオールブラックスの動画ばかり見るようになってしまった。オールブラックスのメンバーの名前を漢字にして書道で書くということもしている。趣味が増えるというのは良いことだし、元気もでてるようなので良いのかもしれない。  ただそれはあまりよくない方向に動いてしまった。  ある日、学校から帰ってくると入院しているはずのお母さんが台所で料理をしていた。 「お母さんここでなにしてるの」 「料理だよ」 「そういうことじゃなくて、退院したの?」 「追い出された」 「え、どういうこと」 「追い出されたんだよ」  そう言ったっきりお母さんは口を閉ざしてしまった。料理が出来たのか、鍋を持ってこちらを振り返ったお母さんの顔を見てわたしは息を呑んだ。 「お母さん、どうしたのその顔」  お母さんの顔には大きなバツ印が書かれていた。 「戒めさ」  鍋をテーブルの上に置いた。中を覗くと肉じゃがだった。お母さんの作る肉じゃががわたしは大好きだった。ただ今はそれよりもお母さんのバツが気になっていた。 「な、なんの?」 「あんたが知る必要ないよ。さ、お食べ」  そう言ってお母さんは「風呂でも入ってくる」と浴室へ消えていった。  肉じゃがは相変わらず最高に美味しかった。  ご飯を食べ終えて皿を洗っていると、お母さんがお風呂からあがってくる。しかし顔にはまだ大きなバツ印が書かれたままだった。わたしはもうそこについて触れないようにすることにした。きっと何か入院中にしでかしたんだろう。それで戒めなんだろう、そう思うことにした。  お母さんはそれからずっと顔にバツ印をつけたままだった。他人にバツを書くこともなくなった。試しにボウリング場で隣のレーンで投げていたファミリーに「ハウスボールを返さないで帰ってください」とお願いしてハウスボールをそのまま置いて帰ってもらった時もなにも言わず、そのボールを使ってターキーを出していた。わたしはむきになって近くにいたスタッフに「そのボールはお子様用のボールなので返してください」とあの人に言ってくださいと耳打ちをして、スタッフは怪訝な顔でわたしを見ていたけどクレームだと思ったのかしぶしぶお母さんに言いに行った。しかしお母さんは頭を下げて謝罪した後、自分でちゃんと返していた。わたしはそれをなんとも言えない気持ちで見ているしかなかった。  ある日誰かが訪ねてきた。  ドアを開けると丸坊主で年齢不詳の人が立っている。 「お邪魔してよろしい?」 「どなたですか?」 「どうぞ、お入り下さい」と後ろから出てきたお母さんは言った。 わたしとお母さんの向かいにテーブルをはさんで丸坊主は座る。 「私はあなたの本当のお母さんよ」と丸坊主はわたしに言った。  隣を見るとお母さんはうつむいている。 「あなた、女性なの?」 「何故そんなことを聞くの?」 「だって丸坊主じゃないですか」 「男性が丸坊主で女性が丸坊主でない決まりなんてないわ。むしろあなたは何故丸坊主でないの?」 「それが一般的だからです」 「くだらないわね。理由にすらなっていない。でもそれが何故一般的なの?」 「見た目が良いからでしょう」  もうこのやり取りを続ける気になれない。「分かりました。もういいです。ところでわたしの本当のお母さんはすでに亡くなっています。そうよね、お母さん?」  お母さんは言う。「実は綾子とお父さんが結婚した時にはすでにあなたは生まれていたの」  むかしから本当のお母さんがいないことに憤りを感じてはいた。何か具体的な不満があった訳ではないが、産みの母親がいるかいないかは重要な問題なのだ。そんな気持ちでお母さんと接するのは申し訳無い気持ちもあった。 「では何故あなたはわたしを育ててくれなかったの?」私は丸坊主にたずねる。 「お母さんだからといって育てなければならない理由にはならないわ」 「あっそ」 「今日からお母さんは私に交代よ。あなたの隣のお母さんは他人になる。それが決まってるの」 「そんな決まりおかしいよね?」わたしは隣のお母さんに言う。 「いいえ、そういう決まりなの。勿論ずっとあなたと親子でありたい。だからこそ本当のお母さんが帰って来たときに、私はどっちつかずの存在になってしまうのが我慢できないの。あなたを見るとお母さんであり続けたいと思ってしまう」 「お母さんが何人いたっていいんじゃないの?」 「いいえ、それはだめ。お母さんは一人なの。どちらが本当のお母さんになるかをそのうち争ってしまう」  大量のシューズロッカーが壁のように立ちはだかっている。わたしは片方の靴を持っていて、もう片方がどこかに入っているはずだが、いくら探しても見つからない。そんな気持ちだった。
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