帰校

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「ありがとうございます」  穏やかに微笑んだ会長が、「ところで」とその場の空気を一新した。 「皆さん、大変お待たせいたしました。西城高校開校以来の快挙、インターハイ剣道個人戦男子の部で見事準優勝を果たした吉野瑞希が、ようやく戻ってまいりました」  マイクを口元に近づけ、声量を上げて場内に告げた。 「どうか、盛大な拍手で迎えてやって下さい」  スピーカーを通した声の何倍、何十倍の歓声が、体育館全体に響く。  舞台の袖で会長の演説を聞いていた俺には、ステージ以外はまるで見えない。  一体何人いるんだ? 千人くらいいるんじゃないか? と疑いたくなるような拍手の中、階段の下で立ち竦む。  目の前に開始線でもあれば躊躇なく出て行けるけど、さすがにこれはちょっと怯む。  千藤監督に緩く背中を押され、階段の途中にいた丸山先生が俺の左腕を掴んで、そのまま壇上へ誘導した。  緞帳の陰からステージへと引っぱり出された途端、『黄色い』との表現がぴったりはまる甲高い声が間近で上がり、思わずそっちに目を遣って―――  くらっと、目眩が起きた。  館内の端から端まで埋め尽くさんばかりの人、人、人。  イスとイスとのスペースもほとんどない。  その一番手前に、やはり黎明女子高の有志……いや、全高生いるのでは、と疑いたくなるほど大人数の女生徒が、前列から半ば近くまで占領していた。  さっきからの賑やかな声援は、疑いようもなく彼女達のものだ。  それから僅かな隙間を空けて西城の学生が、そして最奥と、会場を取り囲む幅二メートル程の二階スペースを、西城の一般市民に開放してあった。  但し、学生以外はみんな立ち見だ。  街の人達の出迎えが県大会準優勝の時の比じゃないのは一目瞭然で、あまりにも圧倒的な人数に足が竦み、手招きする小野寺会長まで辿り着けない。  気圧されたように二、三歩後退したら、後ろに続いていた千藤監督の胸に、とん、とぶつかってしまった。  意図したわけではないのに再び緞帳の陰に隠れたらしく、会場にも笑いが広がる。  ハッとして振り返れば、呆れ顔で俺を見返す監督と、その向こうで肩を揺すって笑い声を堪える丸山先生の姿が。  そこで、真正面に腰掛けている野球部の存在を思い出した。  全国放送された西城高校の野球部員を一目見ようと、地元の人達が大挙押しかけてきたんだ。  西城の学生に好意的な西城市民が、滅多にないこの機会を逃すはずない。  俺はその巻き添え、というわけか。  そうでもなければ、いくら準優勝とは言え、剣道なんてマイナーなスポーツで、こんな真夏にこれほど多くの人が、わざわざ登校坂を上って来るなんて考えられない。  それでさっきの『会長の演説』、なんだ。  黎明の女子と、取り合えずここに居合わせた西城の人達へのさり気ない牽制に、その要領のよさに呆れてしまう。  反面、このチャンスを有効に利用する手腕と柔軟な思考力に、心の底から感心した。  おそらく会長は、二年前の西城中学野球部の騒動を知っている。  だからあえて地元住民を招き入れたんだ。  それは、『テレビ中継』という全国規模の力を相手にするには、あまりにも微々たる反抗かもしれない。  けど、部外者にはどうあれ、メディアの波に曝され、それに翻弄されながらも孤軍奮闘してきた元西城中学野球部員にとっては、十分心強いはずだ。 「こら、早く出て来い、吉野」  小野寺会長じゃない人物に呼ばれ、現実に引き戻された。 「主役が三人も抜けてちゃ、慰労会が締まらないだろ」  昨日の試合、最後の最後に名誉の負傷を顔面に受けた、結城キャプテンの声。   その意味を理解して、改めてステージ中央に歩み出た。  再び歓声に包まれたけど、状況が呑み込めたおかげか、今度はそれほど怯えずに済んだ。 「お帰り、吉野。お疲れさん」  会長に言われ、 「あ、ただいま」  と、条件反射で言いかけて、「戻りました」と付け加えて頭を下げると、クスッと笑った会長が、隣に立つ三年生(じぶんたち)の教科担任である千藤監督を労った。 「お帰りなさい、千藤先生。遠路ご苦労様でした」 「いや、俺は楽して楽しませてもらったが、野球部は大変だったな」  正面に弧を描いて座る野球部員の中、一番手前の端で居心地悪そうにしている和久井監督に、軽く会釈をする。  それを聞いた野球部員はもちろん、会長も驚きを隠せずに、即、監督に聞き返した。 「先生知って……見てらしたんですか?」  問われて、「ああ」と軽く頷いた監督が、会議室に入った時の事を簡単に説明した。 「閉会式が五時過ぎまでかかったんで、八回の途中からだったが」 「吉野も?」 「ええ。会議室の小さなテレビでしたけど、みんなの活躍はしっかり見ました」  そう答えて、明峰と互角に戦い抜いたメンバーに視線を巡らせた。  それだけでステージのボルテージが一気に上昇する。  それを会長が制し、今日の野球部の動向…というか、こうなるまでの経緯を簡単に教えてくれた。 「野球部は一時間程前にこっちに戻ったんだ。西城の人達が大勢出迎えて下さったんで、急遽 慰労会に参加してもらう事にした」  マイク越しに説明され、会場…特に二階から拍手が起きた。 「帰ってきてくれてよかった」  マイク越しじゃない、生の声。独り言みたいに呟かれ、目を瞬いた。 「え? あの……」  小さく聞き返すと、 「その傷、吉野の方が重傷なのに、こっちを優先してくれてありがとう」  俺だけに聞こえる遣り取りに、小さく首を振った。もちろん、否定の意味を込めて。   「それでは、メインの主役が到着したので、盛大に慰労会を行いたいと思います。但し、彼らはまだ家にも帰っていない状況です。できれば一時間半以内、遅くとも三時半には彼らを解放してやるつもりですので、会場の皆さん、ご協力のほどよろしくお願いします」  相変わらず見事な手腕で、ざわつく会場を慰労会へといざなった。   「まずは吉野、準優勝おめでとう」  慣れた手付きでマイクを向けられる。 「ありがとうございます」  答えた声が俺の耳にも届き、自分のものじゃないような奇妙な気分で聞いた。 「ところで早速だが、一夜明けて今の心境はどうだ?」  会長の型破りな司会のせいか、巧みな誘導でか、さほど緊張せずこの場に立っている自分に戸惑いつつ、考えてみた。 「そうですね、ようやく寛げた気がします。我が家に帰ってきたような、落ち着いた気分」 「『我が家』、か。県外からの進学だった吉野にそう言ってもらえると嬉しいもんだな」 「そ、そうですか?」  目を泳がせて、見つかるはずのない白井先輩を捜した。  夕べも思ったけど、あんなにはっきり出生を教えたのに、やっぱり誰にも言ってないんだ、会長(このひと)にさえ。  ……本当に、呆れるほど口の堅い人達だ。  それとも、そんな他人の家庭の事情なんか、もしかしてもう忘れてしまったんだろうか?  それならそれで非常にありがたい、というか好都合なんだけど。    などと考えていると、なんだか沈んだ声が耳に届いた。 「野球部の観戦に行ったせいで、吉野の応援は剣道部の三年数名だけで済まなかったな」 「そんなの!」   会長自らに頭を下げられて、こっちの方が恐縮した。 「広島の会場に応援なんて、最初から思ってもいませんでした。体育館の通路で白井先輩に声を掛けられた時、夢でも見てるのかと思いました」 「なら、間違いなく悪夢だな」 「会長……」  それはないでしょう、と目一杯非難の眼差しを向けたら、茶目っ気たっぷりに舌を出した会長が、すぐに表情を改めた。 「彼らが行っててくれて本当によかった。西城の学生も一番気になっている吉野の格好」  普段の俺なら有り得ない、こんな大事な会にノータイで、しかも一番上のシャツのボタンも外したまま出席している、俺の服装を目で示した。 「その包帯も痛々しいんだが、怪我の具合はどうなんだ?」  気遣わしげな眼差しで振られ、自然と首に巻かれた包帯に手を添えた。 「昨日に比べれば、随分楽です」  丸山先生に訊かれた時と同じ返事を返す。 「相手は、準決勝の時の?」 「ええ、突きを避け切れなくて。まだまだ――」  俺の言葉に重なって、会場のあちこちからまた様々な声が上がる。  そのほとんどが怪我を心配する同情的な女生徒の声だ。   俺に意味深な眼差しを向け、溜息を吐いた会長が、騒ぎの大きくなる生徒達を一言で黙らせた。 「みんな、心配なのはわかるけど私語は慎んでくれ。吉野の声が君達に届かない」  別に、そんな大層なものじゃない。  俺としては自分の話より野球部の方に話題を振って欲しい気分なんだけど。  そんな事を考えて、俺も溜息を吐きそうになる。  その横で小野寺会長がマイク越しに、思いもしない事を言った。  「彼は怪我の影響で、大きな声が出せないんだ」  え!? 『彼』って、…もしかしなくても俺の事!?  いつの間にそんな大事になっているんだ?  目を白黒させて会長を見やれば、俺にだけわかるように軽く片目を瞑ってみせる。  この場を収める為に、俺は勝手に重症にされたらしい。  そう理解して「ええ」と、わざと声量を小さくした。 「すみません。大声を出すと、まだ傷に響くんです。普通に話す分には大丈夫なんですけど」  言いながら首元に手を遣り、コホッと咳き込んで見せると、後を引き受けた会長が呆れるほどあっさり収めてくれた。  その手腕を褒めるべきか警戒すべきか迷うところだけど、千藤監督も交え、質問形式で大会に出場していた三日間を振り返る事になった。  取り敢えず訊かれた事に誠実に答えていると、面白みのない俺の受け答えに会話の終焉を見たのか、早々にお役御免のお達しが出た。 「それでは、怪我に障るといけないので、簡単ですが吉野への質問はこれで最後にします。今、一番したい事はなんだ?」 「したい事ですか? えっと、何だろう?」  これに答えれば役目は終わる、後は野球部に交代だ。  気は楽になっても、こんな何でもない質問一つにも、気の利いた返事ができないのが情けない。  首を捻って考えていたら、 「さすがに急には出てこないか」  俺に合わせ、わざと首を傾げて見せる。  三年ならではの大らかさ、というか包容力が相模主将と重なり、玉竜旗の帰り、バスの中で言っていた台詞が浮かんで、「ああ」と思いついた。 「いつも寝てるベッドが――」 「んん?」 「すごく気持ちいいんです。だから、久しぶりにあのベッドでゆっくり眠りたい、かな」  北斗の、少し大きめのセミダブルのベッド。俺の、今一番のお気に入りだ。  あの至福の睡眠(とき)の幸福感を久々に思い、すでに夢見心地で答えたら、俺を見返した会長の頬が、どういうわけかうっすらと色付いた。 「そ、そうか、うん。それは確かに幸せだよな。人間の三大欲求の一つだし」 「三大欲求? って?」  聞き返した刹那、会長が「あっ」と手の平で口を塞いだ。 「いや、何でもない。ずっと試合が続いてゆっくり寛ぐ暇もなかったもんな」 「え、ええ、まあ」 「しかしその願いは誰の助けもいらないな。今晩には確実に叶うだろう。準優勝の褒美に生徒会からお祝いを考えていたんだが――」 「え、もしかして『焼肉が食べたい』、とか言ったら奢ってもらえたんですかッ!?」  大きな声が出せないと宣言した舌の根も乾かないうちに叫んでいた。 「まあ、一応金額と相談の上、だがな」  意地悪く笑う会長を、思わずねめつける。 「最初に言って下さいよ。そっちの方が絶対よかった」 「吹き込まれて決める願望より、素直に感じたものの方が真実だろう?」 「選べるなら真実より実を取ります!」 「あれ? その辺は野球部の連中と一緒なんだな」  不思議そうに返され、がっくりと力が抜ける。 「その辺も何も、俺だって普通の男子高生です。一緒に決まってるじゃないですか」  半分呆れて答えたら、会長が「いや」と首を振った。 「俺の個人的な見解だが、吉野の場合、霞みかなんか食べてそうだとずっと思ってたんで」 『霞み』?   ほんとにそんなもので生きていけるなら、バイトしなくてもいいんだけど。 「吉野の食欲は半端ないぞ」  いきなり千藤監督が口を挟んだ。「今朝もバイキング料理を山ほど盛って、食べ切れるか心配したほどだ」 「ちょっ…止めて下さい監督」  完全に素で寛いでいた今朝の自分を暴露され、しかも誇張ではなく事実だから一層性質(たち)が悪い。 「へえ、細身の割に意外と大食漢なんだ」  俺を上から下まで眺めた会長が、面白そうに口角を上げる。 「何でそうなるんですか。山崎や松谷達に比べれば小食な方ですよ」 「だそうだが、そこの二人、この吉野の意見、どう思う?」  突然振られた野球部員二人だけど、会長のこの手のパフォーマンス、というかアドリブにはもう慣れているのか、前列に並ぶ松谷と山崎が互いに顔を見合わせて、意味深に目配せした。 「吉野の大食いは去年から知ってるっす」  と、山崎が言えば、 「ついでに言うと年寄り臭いよな。食後のお茶? しかも熱いの、絶対啜ってるし」  などと、食欲には全然関係ない事をつらつらしゃべる。  こんな大勢の前では言い返す事もできず、ぐっと堪えた。  こいつらに話が及んだ時は、絶対仕返ししてやる!  さっきまでは早く主役が野球部に移る事を願っていたのに、いつの間にかやり返したい思いで、頭の中が一杯になる。  そんな俺の目論見を、小野寺会長は確実に見越していた。  監督と俺に用意していたイスを勧め、ステージの上、野球部と対峙するような格好で席に着く。  ほっと息を吐き出して、今度は傍観者になった。
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