重なる二人の過去

2/4
前へ
/23ページ
次へ
「監督、一つ……訊いてもいいですか?」  久しぶりにのんびりとした夕食を済ませ、三泊目となるホテルの部屋に戻った俺は、この機会を逃すまいと密かに心に誓い、窓辺のソファーで寛ぐ監督の元にゆっくりと近付いた。  大会最終日の夜、今晩はミーティングも相手のデータ分析もない。  委員長に言われた通り、宿舎(ホテル)で休めばいいだけだ。  けど、この問題をこのまま西城に持って帰るにはあまりにも個人的すぎるし、かといって俺一人の胸の内で収まりが着くほど軽い内容でもなかった。  試合終了直後はもう考えたくないと本気で思うほど、想像するだけで胃の辺りがムカムカして堪らなかった。  それなのに身体の痛みが引くのと同時にそれもなくなり、さっきの二人の意味深なやり取りも重なって、余計気になりはじめていた。  訊きたいのは相馬君の……相馬君親子の事と、千藤監督との関係。特に前者だ。  西城に戻れば、プライベートでこんなにゆっくり監督と二人きりの時間が取れるとは思えない。  関わらない方がいいのかもしれない。  監督も委員長にそうほのめかしていた。  だから、監督が話さないなら、今日以降、この話は一切しないつもりで口にしていた。 「ん? 何だ? 俺に答えられるなら何でも相談に乗るぞ」  顔を上げた監督が対戦相手の攻略方でも練るかのように、対になっているソファーを勧める。  促されるまま座り心地の良すぎるソファーに身を沈め――  暫しためらった後、思い切って切り出した。 「…あの、相談っていうより相馬君の事です。あれからずっと心の奥でくすぶってて、どうにもすっきりしないんです」 「何だ、相馬に付けられた傷が疼き始めたのか?」  そう言われ、思わず傷口に手をやった。 「ち…違います! 痛みは全然ありません、さっきも薬飲んだし。そうじゃなくて……」 「冗談だ。気にするな」 「はあ……?」  間の抜けた声が口から零れ、それと同時に監督がふっと小さく溜息を吐いた。 「そうだな。…吉野には聞く権利があるだろう。何を訊きたいのか知らないが、どうしてもあの親子が気になるなら俺の知る限りの事は話してやる。だが……」 「――『だが』?」 「……吉野には、あまり深入りして欲しくない」  はっきりと告げられ、予期していたとは言え、何も言えずテーブルに視線を落とした。  同時に試合中に俺を襲った不安が、また胸一杯に広がっていく。  バカ!   相馬君に嫉妬してどうする!  そこで、初めて自分の本心に気付いた。  そうだ、俺が本当に知りたいのは相馬君親子の事より、監督と相馬君との関係だ。  別に、深い意味も邪な感情もない。  ただ、自分の生きがいにしてきた剣道で、心から師と仰ぎたいと思える人に出会えた。  そして、俺の気と全く正反対の気を放つ同級生。  片方は誰よりも近い存在。もう一方は一番手強いライバル。  そんな対照的な二人が、実は知り合いどころか、随分懇意にしていたという事実に対する、俺の勝手な拘りだ。  相馬君が並の剣士だったら、これほど気にならない。  恐らく同学年で最高の強さを秘めているから……どれほど稽古を積んでも、彼の真の剣技の前には、俺の今まで培ってきた技術なんか微々たるものに思えて、ささやかな自信さえ揺らぎそうで……。  二人がどんな繋がりなのか知っておかないと、これから先もずっと不安が付きまとう。  そんな想いをこのままにしておくのは嫌だった。  ただの師弟関係じゃない事は、相馬君の母親に聞かされた。  特に相馬君は、千藤監督を本当の兄みたいに慕っていたと。  なら監督は?   監督も同じに思っていたとしたら、今現在、その関係も、相馬家との交流すら断ち切っているように見えるのは、一体何故なのか。 「――相馬君の事を、もっとよく知りたいと思ってました。けど、そうじゃなかった」 「ん?」  いきなり自分の気持ちを否定したら、監督が訝しげな眼差しを向けた。 「……俺、監督と相馬君がどういう間柄だったのか、それが一番気になってるみたいです」  一瞬、目を見開いた監督が、「ああ」と小さく頷いた。 「彼の家の内情も気にはなってるし、さっきまでは確かにそれを訊きたいと思ってた。でも監督に深入りして欲しくないと言われて、初めて気付いた。監督にそう言わせる相馬家の事情が知りたいんじゃなくて、どうして監督がそう言うのか、その繋がりが知りたいんです」  俺にしては、随分すらすらと言葉が出てきた。  そう思い監督の返事を待つと、 「――ややこしい奴だな」  なぜかフッと笑われた。「まぁ、そんな風に言わせたのは俺の態度のせいでもあるが」  答えた監督がおもむろに立ち上がり、部屋の隅に歩いていく。  自然に目で追うと、備え付けの冷蔵庫の中から缶ビールとジュースを一本ずつ取り出した。 「これくらい、大目に見てくれよな」  言いながらジュースの缶を俺に投げて寄越す。  慌てて受け取り、 「――なら、あとでマッサージして下さい」  少し考えて口にしたら、監督がクックッと肩を揺すって笑った。 「吉野、初めは硬直するほど嫌がってたのに、すっかりはまったな」 「え!? いえ、そういうわけじゃ……」 「ん?」 「だって……監督のマッサージ気持ちいいから。教わるには上手い人の方がいいでしょ? それに、ここでしかそんな事頼めないし」  言いながら、僅かに頬が染まった。  確かに最初はものすごく抵抗があったけど、意識しているのが自分だけだと気付いてからは身構える事をしなくなった。  この大会中ずっと自然体でいられたのは、監督がそう思えるように気遣ってくれていたからだ。  それでも、以前の俺なら自分からこんな申し出、絶対しなかった。  多分、北斗の前向きなところが移ったせいだと思う。  自分にもマスターできたら、北斗にしてやりたい。  西城でマッサージ用の本は買えても、知識と実践との間には大きな隔たりがある。  その差を少しでもなくす為、一回でも多く本物のマッサージを体験しておきたかった。 「まあ構わないが。但し、これまでみたいに本格的なのは無理だぞ、怪我に障るからな。負担にならない程度でいいなら、風呂上りにでも軽くやってやる」 「はい。それでいいです」  頷いてぺこりと頭を下げると、監督が元の場所に腰を下ろしてプルを開け、一気に缶を傾ける。  その仕草に、いつもの『先生』ではなく『大人の男』を強く感じ、喉元を黙って見ていたら、視線に気付いたのか缶から口を離し、意味有り気な笑みを浮かべた。 「何だ? 吉野もジュースよりこっちの方がよかったか?」  面白そうに訊かれ、フルフルと首を横に振った。  今そんなものを飲んだら、たとえ一口だけでも即眠ってしまいそうだ。  この貴重な時間にそんなもったいない事、できるわけない。 「今はいいです。これも、後でいただきます」  そう答え、監督が投げてくれたオレンジジュースの缶をテーブルの隅に乗せた。 「そうか。……そうだな、何から……どこから話せばいいのか――」  ビールに興味を示さなかった俺の態度に観念したのか、目の前に缶を置いた監督が、重い口を割る。  その話を一言も聞き逃さないよう、意識を集中した。 「相馬……(よう)と初めて会ったのは、俺が大学二年の時だから、今から十年前か。あいつが六才の頃だ。大学の対抗試合を、相馬の現道場主である彼のおじが見に来ていて、一度でいいからぜひ門下生の指導をしてくれと乞われたんだ」  その説明だけでも、驚きは隠せなかった。 「えっ!? 相馬君とこの道場主って、彼の父親じゃなかったんですか?」  寝耳に水な監督の話は、玉竜旗大会からの帰り道で俺と相馬君が同い年だと明かされた時と同じ、いや、それ以上だ。  だけど、そう問いかけた途端、監督の精悍な顔が不似合いなほど翳りを帯びた。 「あの父親に何十人もの門下生を束ねるのは無理だ。吉野も今日の試合でその人柄はある程度把握できただろう?」 「え、…ええ、まあ」  相槌を打ちかけて思い至った。「あ、そうか。お兄さんがいるなら別に不思議じゃないですよね」  そう言って、これまでの自分の勘違いを笑おうとした。なのに、 「おじはおじでも、弟の方の『叔父』だ」  その一言で、顔の筋肉が強張ってしまった。 「……それって、長男である相馬君の父親じゃなく、その弟が道場の跡取り、って事ですよね?」 「そうだ。それが洋と、彼の父親の人生を狂わせた、と言ってもいい」 「そんな……」  絶句するしかなかった。  叔父の存在は初めて知ったけど、相馬君の父親も異常なほど剣道にのめり込んでいる。  それは今日の相馬君との一戦だけで、十分伝わってきた。  全く別の道を選べばよかったのに、なぜよりにもよって兄弟で道場の奪い合いみたいな真似(こと)になってしまったのか?  それがわからない。  そんな俺の胸中を察したんだろう。  そうなった経緯を、監督が苦々しい口調で語り始めた。
/23ページ

最初のコメントを投稿しよう!

6人が本棚に入れています
本棚に追加