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「何だ? 家が恋しくなったのか?」
どうやら、一人想いに耽っていたらしい。
いつの間にかビールを手にした監督に声を掛けられ、慌てて首を振り、傷の痛みに顔をしかめるはめになった。
「違います。だって帰っても一人だし。…あ、でも西城には早く帰りたいかな」
北斗との同居を隠す為、敢えて一人暮らしを強調した俺は、これまでのそんな苦労も全て無駄だったという事を、ここに来てようやく思い知らされた。
「一人じゃないだろう? 野球部の連中の方が一足先に帰るはずだが」
「それはそうでしょう、神戸と広島じゃ比べるまでもありませんよ」
「いや、時間の話じゃなくてだな。――なぁ、吉野」
「はい?」
それまでとは明らかに違う、監督の声音に気付いて首を傾げた。
「俺は、そんなに信用できないか?」
「? 監督以上に信頼できる人なんて、そういませんが」
偽りのない本音。
だけどその返事に、監督がなぜか胡散臭そうな目で俺を見た。
「本心ならいいんだが」
「あの、…仰ってる意味がよくわからないんですけど」
「言っただろ、俺はお前の中学時代の恩師、高橋先生と直接話をしたと」
「え、…ああ、はい。それが何か……あっ!?」
言いかけて、あの先生がものすごく重大な事実ー俺達のトップシークレットーを握っているのを思い出した。
ゴクッと生唾を飲み込んで、恐る恐る訊いてみる。
「――もしかして、高橋先生から……聞きました?」
「同居人の事を指してるなら、聞いている」
表情も変えず肯定されて、がっくりと頭が垂れた。
「やっぱり……」
秘密が筒抜けだったと知って、その気まずさから沸々と怒りが湧き上がる。
もー、あの先生はっ!
なんで聖職者のくせに、ああも開けっ広げなんだっ!
「そう怒るな」
憤慨する俺を軽くいなした監督が、どういう風の吹き回しか宥め役を買って出た。
「高橋先生を怒るなら、その前に俺が一番に非難されるべきだろうな」
「え!? どうしてですか? 監督を非難するような事、何かありましたっけ」
「吉野の両親が亡くなっていると、部員にばらしてしまったのはこの俺だが」
忘れたわけじゃないだろう、と目で問われ、
「ああ、そんな事もありましたね」
と、ゆっくり頷いた。
とんだ濡れ衣で目の前の千藤監督との仲を疑われ、責められたミーティング。
しかも一番激しく俺を非難したのは、今部内でもっとも身近に感じている白井先輩だ。
でも俺が救われたのは、その監督の一言があったから。
それに部の皆に知られても、その後の生活に影響は一切なかった。
それは相模主将が部員の前で、「詮索はしない」と約束してくれたからだ。
それでもその約束がどれほど脆いものか、俺は知っている。
人の口に戸は立てられない。
監督も、周りの人間の噂を聞いて相馬君親子の内情に気付いたと、ついさっき打ち明けたばかりだ。
それに駿。
彼も噂によって人生を大きく狂わされた。
もう田舎の同級生の元には戻れない。
主将の気遣いには感謝してるけど、剣道部以外の人間に俺の両親の事が知られれば、北斗との同居もいずればれる。
恐らくあっという間に、尾ひれを付けて広がっていくだろう。
その点では、まだ隠し通しているという現実の方が驚きだ。
そんな連中だからよけい、西城の剣道部員が好きなんだけど。
「まさか誰も知らなかったとはな。おかげでその後の展開は気が気じゃなかった」
「や、その話はいいです。俺も助かったし」
あの時の大泣きも久しぶりに思い出し、頬を染めて俯くと、俺の気持ちを察した監督も「そうか」と頷いて、早々に切り上げてくれた。
「取り合えず、だ。俺は他の先生には言わないし、高橋先生も吉野の事は気掛りでしょうがないんだろう」
「………」
中学時代の自身を振り返り、どんよりした気分になる。
『否』、と言えない自分がちょっと悲しい。
「教師だって人間だ。枠にはまらない者もいるさ、俺みたいに。それに、身近に事情を知ってる人間がいるのは、案外都合いいと思うがな」
そう言い、片目を瞑って見せた。
「それは、そうかもしれませんけど……」
同意しかけて、そういえば、と思い至った。
玉竜旗大会の会場である九州に向かうバスの中で、安達先輩に北斗との仲を詮索されかけていた。
あの時、確か千藤監督が安達先輩に話しかけ、その詮索からようやく解放されたんだ。
なら、あの時も、監督は全て承知の上で、俺を庇ってくれていた、って事?
あの日の事をはっきり思い出し、つと監督に顔を向けた。
「ん?」
小首を傾げられ、「いえ、何でもありません」と答えながら、一体何度そんなさり気ない気遣いに救われていたんだろう、と思う。
文句は山ほど言いたい。でも千藤監督に言ってみても始まらない。
それより監督が事情を知っているなら、確かめておきたい事があった。
俺と北斗の繋がり。
現在同居している相手、というだけか、それ以前の事も知っているのか。
「あの、…なら、監督は俺達の関係、どこまで聞いてるんですか?」
すると、監督がなんだか妙な顔で俺を見返した。
「――田舎に引き取られる前、西城で暮らしていた時の幼馴染だとしか聞いてないが」
……それで、十分です。
高橋先生、自分の知ってる情報、全部ばらしてる。
「何だ? お前ら、もしかしてかなり深い関係なのか?」
一言もなく、益々頭の下がった俺に、監督がなぜか声を潜めて訊いてきた。
「え…っと、まあ、浅くはないかな」
だって、北斗は俺の一番大切な奴だ。誰もあいつの代わりにはなれない。
そう思い、顔を上げてこくんと頷いたら、監督が手にしていたビールの缶をおもむろにテーブルの上に置いた。
「吉野。お前は今、随分大胆な事を告白してるんだが、自覚はあるのか?」
「え、大胆な事って?」
「俺が訊いたのは、二人の間に恋愛感情、もしくは身体の関係があるのか、という意味だったんだが」
「はぁ」
身体の、関係……
「身体の関係ッ!?」
聞き返す声が裏返った。「そんなの、あるわけないですっ!!」
バンッとテーブルに両手を叩きつけたら、その拍子に軽くなっていたビールの缶が跳ねた。
監督が慌てて掴み事なきを得たけど、俺の憤りは収まらないし、謝る気も更々ない。
怒気に圧された監督が、これ見よがしに大きな息を吐き出した。
「だろうな。ちょっと焦った。信用されついでにカミングアウトしたのかと思った」
わざとらしく胸を撫で下ろす監督を、構わずじろりと睨み付けた。
「何をバカな……そんな事でからかうの止めて下さい。心臓にも相手にも悪いです」
「別にからかったわけじゃない。そっち嗜好の奴は俺の友人にもいる。それに心臓に悪かったのはこっちだが?」
逆に指摘され、コホンと咳払いして誤魔化した。
監督にこの手の話は禁物だ。
相手の方が何枚も上手だって、これまでに十分認識してる。
「まあ、吉野くらい恋愛に疎いと、相手も相当苦労しそうだが」
「ほっといて下さい。それに俺は恋愛には縁がありませんから」
「吉野に縁がないというなら、この世の大多数の男が女っ気なしの味気ない生活を強いられるだろうな」
そんな風にからかわれると、たとえ監督だろうがむくむくと反抗心が沸いてくる。
「よく言う! 彼女のいる監督に言われたくないです」
年上の、ましてや監督に対する言葉遣いじゃないけど、俺の自制心にも限界がある。
だけど返ってきた返事は、俺の反抗心をあっさり凌駕してしまうものだった。
「正確に言えば、彼女じゃない。結婚を前提とした婚約者だ」
「えっ!?」
婚約者……だったんだ。
「そこで驚くか? 三十過ぎて付き合ってるといえば、当然の成り行きだろうが」
「そ…ですよね」
頷きつつ、自分でも理解できないほど動揺していた。
相馬君だけじゃなくて、監督の婚約者にまで嫉妬まがいの感情?
いや、まさか!
そんなんじゃない。
なら、この胸の痛みは……一体何なんだ?
「……この前、彼女がいるって聞いたばかりだったから、そこまで具体的な関係だとは思いもしてませんでした」
「俺は器用じゃないし、女性に愛想いいとも言えないからな。誰彼構わずってのは性に合わん」
「ええ、よくわかります。案外一途だったりして」
この胸のわだかまりの正体をつきとめるのが恐くて、強張る顔面に笑顔を貼り付ける。
そんな必死の努力が報われたのか、どうにか内心の狼狽を悟られずに済んだ。
だけど―――
「……それがわかるのに、何で自分に寄せられる好意に気付かないんだか」
飲み切ったビールの缶を手の中で転がしながら、監督が溜息を吐いた。
「はい?」
話の繋がりが見えない。
それでも監督の婚約者の話より幾分かマシに思えた。
「どういう意味ですか?」
「うかうかしてたら、お前の大事な奴も他の誰かがかっさらっていくかもしれんって事だ」
「はあ」
それ…って、誰の事だ?
俺の身近にそれほど懇意にしてる女の人、いたっけ?
ささやかな記憶を探っていて、その前の会話を思い出した。
――俺の家に一緒に住んでる同居人。
なら、もしかして監督の言う『大事な奴』とは、北斗を指してるのか?
「それって、俺の同居人の事、ですか」
疑問ではなく確認の意味を込めて問うと、監督が鷹揚に頷いた。
……やっぱり。
だとしたら、そんな気遣いは全く無用だ。
俺達は十一年ぶりに再会を果たした幼馴染だ。
俺はそれまで離れ離れだった分、北斗は死んだと思っていた友達が生きていたことで、その辺の、ごく普通の幼馴染以上にお互いの存在を大切に感じているだけ。
北斗には、あいつにふさわしい彼女がいて当たり前なんだ。
今はまだ両親の離婚が尾を引いているのか恋愛にも興味なさそうだけど、あいつの事だ、その気になったら間違いなく他の誰よりもその子を大切にする。
そして、自分がどれほど傷付こうと、きっとその子を守り抜くだろう。
そこに思い至ったのは、北斗という人間を知る俺には必然のことだった。
なのに、さっきの監督の婚約者発言の時とは比べ物にならないほどの鋭い痛みが、俺を襲った。
この痛みは、知ってる。
街に戻って……成瀬と知り合ってから、幾度となく体験した。
ついこの間も。
認めたくないけど、これは間違いなく嫉妬、ジェラシーだ。
けど、だからどうだと言うんだ?
俺がそんな感情を持つのは、この一年、誰よりも近くで俺を支えてくれていた北斗が、俺以外の人間に興味を持ち、惹かれていくのが淋しいからだ。
それを俺が感じたからといって、誰かに相談する事じゃない。
それどころか、北斗にだけはそんな俺の本心、絶対に知られたくない。
俺達の間に恋愛感情は存在しない。
だからこそ、気付かせてはいけないんだ。
十一年もの長い時間、俺に囚われていたような奴だ。
それはもしかしたら、ランディーを預かったせいかもしれない。
ランディーがいなかったら、北斗は俺の存在を引きずることもなかったのかも。
だから、もう十分。
これから先は、北斗の望むままに……
いつか、素敵な女性に出会う事を心から願っている。
けど、こんな不安定な俺のままじゃ、心配性のあいつはいつまでも俺から離れられない。
俺が自身の口で、あいつを解放してやらないと。
そう、頭ではわかっている。
その強さを身に付けるために頑張ってきたつもりだ。
だけど、その日が来るのが、本当は堪らなく怖い。
せめてあと二年。
高校を卒業する頃には、北斗に想いを寄せる人への、この行き場のない感情も、冷静に受け止めるだけの強さを、手に入れることができるだろうか?
「――『人の心は移ろいやすく』、だ」
物思いに沈んでいた俺を、現実に戻すには十分の台詞。
古典の先生だという事を思い出し面を上げると、監督が教師の…というより年の離れた兄という顔で目配せした。
「男子校に通っていると、当然他校の女に目が行くもんだ」
「……はあ」
「だから、付き合っていた奴は案外多くいるし、結構長続きする。男の方が必死だった観もあるがな」
そう言って、密やかな笑みを漏らした。
「…かく言う俺も、高校の時の彼女と一生を共にすると思ってたんだがなぁ」
明らかに失望の色を乗せた口調に、若かりし頃の監督の、真剣な恋が垣間見えた気がした。
「お守りをくれた人、ですか?」
口にすると、覚えているとは思ってなかったのか、監督が珍しく動揺の色も露わに俺を見返した。
「しょうもない……もとい、記憶力 案外よかったんだな」
独り言のように呟いた監督の言葉はしかし、俺の耳にしっかり届いた。
「その話したの、つい先日ですよ」
フフッと笑ったつもりの口元は、残念ながら本心からの笑みとはほど遠い、上っ面だけのものになっていた。
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