余波

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余波

     「()っ……」    翌朝、寝返りを打ちかけたのか、首に引きつれたような痛みを感じ目を覚ました。  さすがに四日目の朝ともなると、ここが遠征先である広島のホテルの一室だとは把握できる。  それでも、ソファに座る監督の姿を認めた途端、何だか照れ臭いような居たたまれないような、妙な気分に襲われた。  昨日までの三日間、試合のある朝は二人とも時間に追われ、身支度で忙しかったせいもあって、周りを気にする余裕もなかった。  久しぶりにゆっくり目覚めた今朝、ベッドの上からの見慣れない眺めに戸惑いも大きい。 「吉野? 疼くのか?」  呻き声が聞こえたのか、テレビを見ていたらしい監督に気遣わしげな視線を送られ、「いえ」とだけ答えた。  俺の睡眠を妨げない為なんだろう、テレビの音はほとんど聞こえてこない。  そんな気遣いを申し訳なく思いつつ、寝起きの思考回路で記憶を手繰った。 「あの、…俺、またやっちゃいました?」  そっと頭を動かして恐る恐る様子を窺うと、一瞥をくれた監督が予想通り鷹揚に頷いた。 「やっぱり」  傷が痛まないよう上半身を起こし、恐縮しまくっていると、クスリと笑みを漏らした監督がテレビのスイッチを切った。 「さあこれから、って時にはもう夢の中だったんで、後は軽く流しといたぞ。今日はまだ疲れ、取り切れてないかもしれん」 「すみません。でも大丈夫です。身体も思ったより軽いみたいです」  ベッドの上から頭を下げると、監督も安心したように一つ息を吐いた。 「ならよかった。まぁ、お前がマッサージをしてやりたいと思う相手が同居人なら、そう簡単にはいかないだろうが」 「わ…わかってますよ、嫌がられるって。それに自分が下手なのも。でも練習してたらその内上達するかもしれないでしょ」 「やっぱりわかってないな」  これ見よがしな溜息を吐かれ、少しだけ首を傾げた。 「え? 何を?」 「技術以前の問題なんだが、まあいい。俺としても吉野の奮闘に期待する。直に教えてはやれなかったが三日もあったんだ、真似事くらいはできるだろう」 「はあ」 「で、どうなんだ? 傷の具合は。痛みが酷いようならもう一度病院で診察してもらってから帰っても構わないが」 「いえ、大丈夫です。早く帰れば西城の病院でも午後からの診察に間に合うでしょ?」  そう答えたら、監督が顎に手を当てて考え込んだ。 「そうだな、その方がいいか。下手したら今日一杯解放してもらえんかもしれないからな」 「え?」 「全国大会準優勝の重みは学校だけじゃない、周りへの影響も大きい。その当事者がのんびりできるわけないだろう」 「え――ッ!? 嫌だ!!」 「はっきり言うな」  ビシッと言われ、項垂れてしまう。  しゅんとなった俺を見かねたのか、苦言を呈した監督が夕べに続いて宥め役に回った。 「病院行きは使えるから、野球部と合同の慰労会には出ろ。その後の諸々はまた後日という事で話をつけてやる」 「ホントですか?」  一瞬嬉々として目を輝かせた俺だけど、自分の都合だけで勝手な事していいんだろうか? と考えて、再び気分も急降下する。  そんな俺の表情が、監督にあっさり読まれた。 「何だ? 嬉しくないのか?」 「いえ、でもそんないい加減な事できない気が……」 「普通の状態じゃないんだ、心配いらないさ。それに俺もお前のその怪我は、もう一度近くの病院で見てもらった方がいいと思う。それも早急に、だ」 「はい、ありがとうございます。よろしくお願いします」 「ああ。ところでもう八時過ぎなんだが、腹減らないか?」  訊かれて条件反射のように腹の虫が騒ぎ出した。    監督に誘われるまま、制服に着替え、初めて最上階の展望レストランに上ると、平日のせいか席は案外空いていた。  バイキング形式の朝食は、中学の修学旅行で体験済みだ。  ただし、三年の五月に行った旅行は同級生の後ろを担任の先生と付いて行ってたから、俺としてはあまり楽しい思い出ではなかった。  本当なら孝史や和彦達と賑やかに話しながら、好きな物だけじゃなく日頃味わえない料理や、珍しい果物なんかも試食していただろう。  そう、まさに今、俺の持つトレーに盛り付けられているような。 「吉野、それ本当に全部食えるのか?」  呆れたように声を掛けられ、声の主を振り向いた。 「え? ええ。俺、基本朝はしっかり食べるんです。一日のエネルギー消費量の半分」 「にしてもちょっと多くないか? これまでそんなに食ってなかっただろ?」 「そりゃ、試合の前はさすがに控えますよ」  僅かに頬を染め、言い訳じみた返答をすると、俺の身体を上から下まで眺めた監督が真剣な面持ちで首を捻った。 「……お前の身体のどこにその量が入るのか、不思議だ」  確かに、今朝は自分でも多いかな、と思う。  けどこんな食事滅多にできないし、修学旅行で思う存分取れなかった反動もある。わざわざ言う必要はないけど。 「現役の高校生はこれくらい普通ですよ。それに怪我も早く治したいし、バランスの取れた物をしっかり食べないと」  本当はそんな事、偉そうに言える立場じゃないけど、一年前の食生活は棚に上げ、北斗の受け売りみたいな事を口にする。  すると監督が腑に落ちない、とでも言いたげな眼差しを俺に向けた。 「そうか? 現役の高校生だから、ここなら、そうだな――」  目の前に並ぶ豪華料理の数々を見渡して、「フレンチトーストとフルーツジュース、おまけでヨーグルトサラダ程度に抑えるんじゃないのか?」  などと、聞いただけで赤面しそうな品を挙げた。 『そんなの、女の子のダイエットメニューですよ!』  とはさすがに言えず、平常心を総動員する。 「俺の平日の朝は、ご飯と味噌汁って決まってるんで」  無難に返したつもりだったのに、驚きも露わに俺を見た監督が、何だか深々と溜息を吐いた。 「これから新婚生活に踏み出そうとしている者の前で、よくそんな羨ましい事、平然と言えるな」  そんな事言われても、俺には監督の言葉の意味が理解できない。 「はあ? 何言ってるんですか。奥さんもらうんだから作ってくれるでしょ」 「朝食はパンとコーヒーだ、当分共働きになるからな」  簡単に説明されて初めて、監督の新婚生活の実態が見えた。 「ああ、だから今朝は和食にしたんですか」  味噌汁にご飯、青菜の和え物に白身の焼き魚、半熟卵と海苔まで揃っているトレーを視線で示すと、軽く頷いた監督が俺の取り皿に再び目を遣った。 「何だ、吉野は普段和食だから、そのチョイスになったのか」 「え、まあそうかな」  どれも美味しそうではあるけれど、同じ和食なら絶対北斗の料理の方が美味しいと思う。  なんて、目の前にいるレストランのシェフに申し訳なくて言えないけど。  取りあえず両極端な二人の食事―片や純和風、もう一方は多国籍? なトレーを手に、窓際の席に向かった。  それにしても、慌しく過ぎ去った四日間だった。  ここに来たのが八月五日。  翌日から三日かけて試合が行われたわけだけど、最終日に当たる八日が昨日。  甲子園の開会式で、その第三試合が西城の試合初日だった。  初戦で負けた西城は第三試合だった事もあり、もう一泊して今朝――そろそろ神戸を発つはずだ。  夕べ、案外早い時間に入っていた北斗からのメール。  監督のマッサージの最中――いや、始まるとすぐ眠ってしまった…らしい俺は当然気付くはずもなく、ついさっき監督にメールの着信を教えられ、確認して初めて気が付いた。  送られてきた送信者の名前を見て、ようやく北斗を身近に感じる事ができたんだ。  野球部は新幹線ではなく、西城高校専属のバスだ。  多分、俺達が玉竜旗に行った時のものと同じ。だから帰校時間は俺とそれほど変わらないんじゃないかと思う。  その後は県大会同様、野球部の慰労会が計画されているらしい。もちろん俺も込みで。  だから、『西城で会うのを楽しみにしてる』っていう文を読んでから、顔の筋肉が緩まないようにするのに必死だった。  モーニングサービスの食事時間が限られていたから、まだ返信してないけど。  それに他にも二十件以上のメールが入っていて、正直驚いた。  多分西城に着くまで、これらの対応に追われる事になりそうだ。                                        『誠意には、誠意をもって応えるべし』  吉野家の家訓は、やっぱり俺にとっても大切なものだ。  数々の祝福への礼を欠かすなんてできない。  俺が監督の意外な一面を知るのと同様、監督にも俺の性分を大体把握されてしまったようで、                                         「帰りの新幹線は溜息吐かれずに済みそうだな」  と、メールの多さに呆れつつも早速からかわれた。  それは、往路での俺の落ち込みに迷惑を被った監督の偽らざる本音だろう。  相当鬱陶しかったに違いない。  それはまぁこの際置いておいて。  こんなに落ち着いて周りの景色を見ながらの食事も、久しぶりな気がする。  空にしたトレーを前に食後の一服と称し、熱いコーヒーを啜る監督の向かいで、冷たいアイスティーを飲み終え、最上階からの見慣れない街並みを眺めていると、誰かに見られているような、嫌な視線を感じた。  気のせいとかじゃなく、ちらちらと俺達のテーブルに視線が集まっているような。  どちらかと言うと居心地の悪い、好奇に満ちた視線。  ふと前を見ると、監督とまともに目が合った。  俺の戸惑いを楽しんでいるような監督を前に、パッと頬に朱が走る。 「なんか、異様に居心地悪いんですけど、監督は感じません?」  口元に手を添え、小声で話しかけた俺の斜め後ろの席で、たまたま居合わせた女性客が、ざわっとさざめいた。 「やっぱり! そうだよ、絶対」 「えー、そうかなぁ、でもォ」 「私の勘、外れた事ないんだから」  等々、言い合うのが聞こえた。それも結構なボリュームで。  どうやら俺達の事を言っているらしい。けど、何を?  何となく気になりつい聞き耳を立てる。  と同時に、女性の声が聞き違えようもなくはっきり届いた。 「絶対できてるって、あの二人」  刹那、ゴンッ! と、後頭部を鈍器で殴られたような衝撃を受けた――気がした。  噂している二人の女を睨もうと勢いよく首を動かして、 「いっ…た~」  また、痛みに顔をしかめる羽目になった。  同じく、話は聞こえていただろう監督が俺の反応の一部始終を見て……観察していたのか、クックッと肩を揺らして笑い出した。  咄嗟に俯き、またか! と思いつつ拳を震わせ羞恥に耐える。  そんな俺の耳に、 「ようやく試合の緊張と精神的重圧から解放されたらしいな」  嫌味なほど穏やかな声音が届いて顔を上げたら、柔らかな瞳と目が合った。 「あの手の噂は、もう三日も前からされてるぞ」 「え!? ウソ…でしょ」 「いや、事実だ。吉野は試合の事で頭が一杯だったみたいだから、ちょうどよかった」 「そんなぁ、早く教えて下さいよ、そしたら――」 「そしたら? 食事も取らず部屋に篭ってたか?」 「それは……わかりませんけど」 「何もやましい事はないんだ。変にコソコソする方がおかしいだろう。それに、本当にそんな関係だったとしても堂々としていればいい」 「無理ですよ、そんなの」  首の代わりに手の平を激しく振ると、監督が真顔で問いかけた。 「女性と付き合っても秘密にするのか?」 「いや、それはないですけど」 「だろう? なら大して違いはない」 「全然違います!」 「そうか? 成瀬だったら気にしなさそうだが」  監督の口から初めて北斗の名が出され、いきなり心臓が忙しくなった。  監督と北斗がこうして二人きりで食事したとして、周りから疑いの目を向けられたら?  ……確かに、全く気にしそうにない。  それどころか噂している人間にあえてとびきりの笑顔で笑いかけておいて、平然とコーヒーを飲んでたりしそうだ。内心はともかくとして。  監督はそんな北斗を年の離れたしっかり者の弟のように、頼もしく思いながら眺めているんじゃないだろうか。  俺と監督じゃ兄弟になんて見えないだろうけど、北斗となら……。  ささやかな想像力を駆使していると、 「そう落ち込むな。もうすぐ会えるだろ」  慰めるように声を掛けられ、伏せていた顔を上げた。 「は? あぁ、別に落ち込んでなんていません。監督と北斗が一緒だったら、そんな歪んだ関係より兄弟みたいに見えそうだな、って考えてただけで」 「――『歪んだ関係』、か」  呟いた監督が、白磁のカップを皿に戻した。 「お前の基準がどこにあるのかわからんが、俺が言いたかったのは、俺と成瀬がここにいたら、という例えじゃなくて、お前らが一緒にいる時の事を聞いたんだが」 「え、……」 「まあいい。取りあえず二人暮らしは上手くいってるようだし、今晩は大いに盛り上がるだろうが、アルコールはほどほどにしておけよ。怪我に障るからな」 「それって、教師の台詞とは思えません」 「飲みたい時は誰にでもあるさ。気が滅入る時だけじゃない、嬉しい時にもな。但し、夕べみたいな酒はあまり旨くないが」 「それなら心配無用ですよ、もう経験済みですから」 「ん?」 「県大会で優勝した時、一緒に飲んだんです。けど、あれから誘われなくて」  北斗の相手をするには経験が少なすぎたらしく、物足りなかったのかもしれない。  そんな事を考えて、今度は本当に気分が沈む。それなのに、 「なんだ? くだを巻いたか? それとも裸踊りでもはじめたのか?」  監督の想像は馬鹿馬鹿しいほど間抜けなモノで、真剣に悩むのも馬鹿らしくなる。 「しませんよ、そんな事。でも俺、飲んだら泣き上戸で笑い上戸で、怒り出してすぐ寝るってぼやいてたんで、懲りたんじゃないですか」  ぶすっとして答えると、監督がクスリと笑った。 「随分欲張りな酒だな」 「――『欲張り』って」 「ま、お前らなら酒に呑まれる事もバカな飲み方もしないだろう。羽目を外すのもたまにはいいが、弱い奴は酒にはまるとろくな事にならないからな」  少し表情の曇った監督に、力強く請け負った。 「大丈夫です。俺、率先して飲むより、監視役になるタイプみたいですから」 「そうか? あー、そうかもしれんな」  俺を見返して大様に頷いた監督が、ふっと目を細め、「そう言えば」と続けた。 「はまると言えば、吉野」 「はい?」 「大会中も思ったんだが、お前、あんまり携帯触ってないようだが、メールはともかく高橋先生や田舎の家族にはちゃんと連絡取ってるんだろうな?」 「いえ、まだですけど?」 「……お前なぁ、何で平気でそういう事言うんだ?」 「だって、気が散るっていうか、集中できなくなるんで。夕べは寝ちゃったし」  そう言うと、監督があからさまに大きな溜息を吐いた。 「ハア~、その妙な拘り、ちょっと改善できないか?」 「無理です。それに周りはそれを知ってるから、別に問題ないですよ」 「そのしわ寄せが俺に来るんだが」 「え?」  小首を傾げると、監督が自分の携帯電話を取り出して何やら操作を始める。  その手元を見ていたら、画面を俺の方に向けた。  着信履歴の、上から下まで並んだ同じ名前。 『高橋先生』。  その名前を黙読し、監督に視線を移した。 「……ストーカー?」  わざと口にしたら、さすがにじろっと睨まれた。 「笑えない冗談言うな。お前の結果が気になってに決まってるだろう」 「やっぱり」  ハ~、俺も溜息だ。 「一時間おきに入ってくるんで、正直参った」  ボタンを押し、画面を移動させながら零す監督に、 「昨日言ってくれればよかったのに」  一応、神妙な声音を作ってみると、監督が浮かない表情のまま応えた。 「それはそうだが、昨日はお前の怪我でそれどころじゃなかっただろ? 相馬の件もあったし。それに試合期間中はそれこそ気が散るんだろうが」 「まあ、そうですけど」 「本人が連絡を取るのと周りの者がお前にそれを伝えるのとは、意味合いが全然違う。監督自ら選手の気を散らせるわけにはいかんからな」 「すみません。西城に着くまでに俺から連絡入れておきます」 「ああ、頼む」  心からほっとしたように、監督が手にした携帯を閉じた。 「ならそろそろ帰るとするか」 「はい」  西城に帰る。  玉竜旗大会とは一日違いの逗留だったのに、一人が多かったせいか随分長く感じた五日間だった。  空になったカップを置き、席を立つ監督に倣って俺も腰を上げる。  大きく開放的な窓の外、好天に恵まれた広島の景色を一望して、少しだけ名残惜しい気分で有意義だった大会に別れを告げた。
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