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帰りの新幹線の中、俺は未だ慣れない携帯電話と格闘していた。
監督に「取り敢えず」と、一括返信を教えてもらったおかげで、一人一人への礼はどうにか免れたけど、それでも滅多に使わない機能を駆使しての操作は複雑で、頭の痛い作業だった。
結局、全ての返信を終えるのに一時間以上かかってしまい、俺の手元を見ていた監督から溜息は出なかったものの、相当イラついていたようだ。
行きに負けず劣らず迷惑を掛けてしまったのは、その顔を見れば一目瞭然。
だけど一応大事な相手には簡単に電話で話もしたし、ほっと肩の荷も下りた俺は、ようやく自分の為の時間を確保した。
といっても西城に着くまでにしなければならない事はまだある。
西城に戻ってからの病院行きに北斗の母さんを思い出し、ちょっとずうずうしいかもと思いつつ、一役買ってもらえないかと考えた。
行ってから順番を待てば随分遅くなりそうだし、今日の診察時間もはっきりわからないから、おばさんに頼んで勤務先の西城市立総合病院に予約を入れてもらう。
それはすごく名案に思えた。
ただ、仕事中だろうおばさんへの連絡だけは昼の時間を見計らい、ちょっと緊張しながら電話を掛けた。
上手い具合に掴まえられたけど、治療が必要なほどの怪我を負った事を初めて知ったせいで、すっかり動転させてしまった。
何とか元気な声音で誤魔化したものの、病院のロビーで待ち伏せされていそうで、またまた暗い気分になる。
あの辻先輩の態度を見てしまった俺は、ほとんど身内も同然のおばさんの反応がすでに恐い。
救いがあるとすれば職業が看護師、という点だろうか?
一般の母親よりは怪我とか病気に慣れていそうだ。
それに北斗! あいつがいた。
あんなに派手なプレーする奴なら、怪我も多いに違いない。
プロテクターでがっちり身を守った山崎ですら、今だに怪我したところを見せに来ている。
何のガードもない北斗の怪我の回数は、きっと山崎以上だ。
そう思い、少しだけ憂鬱な気分から解放された俺は、手の平の潰れたマメの手当てを真夜中にしていた北斗の行動が、俺に気取られない為のその場限りのものと思い込んでいた。
新幹線の中でできる用事を全て片付け、残りの時間はゆっくりしようと監督の隣で早速うつらうつらしていた俺は、胸元で震え出した携帯に睡眠を妨害された。
メールの返信じゃない、直接電話だ。
誰だろう、思い当たる人なんて思いつかない。
だって今頃、親しい奴らは西城で野球部員を出迎えているか慰労会の準備の最中だ。
なら、田舎の友達?
そう思いつつディスプレーを確認するも、そっちの友人はまだ孝史と雅也の二人しか登録していない。それに携帯からでもなかった。
もちろん、全然記憶にないナンバー。
戸惑いつつも通話ボタンを押し、その場で耳に当てた。
「はい、吉野です」
『あ、もしもし、吉野?』
何だかやけに弾んだ声音でいきなり訊かれた。
聞き覚えのないその声の主に、思わず身構える。
「はい、そうですけど」
警戒心丸出しの返事。なのに相手はそんな事気にも留めないのか、
『俺、誰だかわかる?』
と言う。
「いえ、…あの、どちら様ですか?」
失礼にならないように問い返したら、耳元にクックッと押し殺した笑い声が聞こえた。
『相変わらず丁寧なヤツ』
「え?」
その気さくな話し方には心当たりがあった。しかもつい最近。
「もしかして、加納君?」
『そう、わかった? ってか覚えててくれたんだ』
「ホントに!? ホントにあの加納君? 何で? どうしたの? あっ、それよりどうやってこの番号――」
『ちょっと、落ち着けって吉野』
驚きと嬉しさのあまり、声が上ずる。
興奮状態になっていると自分でもわかる。
『一度にそんな全部答えらんねえよ』
早口にまくし立てる俺を、加納君が笑いを堪えて制した。
だけど、俺の心臓はドキドキしっぱなしだ。
だってまさか、あの加納君が直接電話してくれるなんて!
新幹線の騒音に邪魔されないよう耳に押し当てた携帯電話。
その向こうで聞こえる笑い声は、確かに、嫉妬しつつも惹かれてやまない、加納一聖君のものだった。
「あ、ちょっと待って、場所変えるから」
隣の監督に目で合図を送り、席を立つ。
大急ぎで再び連結部まで移動し、会話を再開した。
「ごめんね、今帰りの新幹線の中なんだ。ちょっと聞き取りにくいかもしれないけど」
『いや、よく聞こえてる。それよかいきなり悪かったな』
と謝罪され、益々恐縮してしまった。
「何で謝るの? あ、もしかしてこの電話番号の事?」
『まあ、それもあるけど、大会直後で疲れてるだろ』
「ううん、それは全然大丈夫。昨日もゆっくり休んだし」
『そっか? ならよかった。けど吉野、昨日の試合で怪我したって知って、気になってさ』
「え、なんで知ってんの?」
『今朝の新聞に載ってたぜ。読んでないのか? スポーツ紙』
「全然。そんな暇なかったし」
『ああ、そりゃそうだ』
アハハッ、と笑い声を立てた加納君が、すぐに真面目な声音に戻した。
『全治一ヶ月って書いてあったんでびっくりしたんだ』
「『全治一ヶ月』!?」
朝刊に載っていたという記事の大袈裟な日数に、思わず大きな声が出た。
「何それ、そんなにかからないよ」
『そうなのか? あ~よかった』
携帯越しにでも、加納君のホッとした様子が伺える。
どうやら相当心配させてしまったようで、何だか申し訳なくなってしまう。
「ごめん」と謝ったら、『いいや』と答えた加納君が、
『大した事なくてよかった』
言葉通り、安堵の吐息を吐き出した。
『この前見舞いに来てくれた奴がそんな大怪我したなんて、居ても立ってもいられなくて、知り合いに片っ端から訊きまくってさ。やっと携番突き止めたのはいいけど、いざとなったら電話する勇気なくなっちまって』
それを聞いて、胸がじんわりと熱くなる。
「――でも、掛けてくれたんだ」
『まあな。「この期に及んで迷うなら端から動くな」って、義純に怒られた』
その返事に、知らず口元に笑みが浮かんだ。
「梛君らしい。相変わらずで嬉しいよ。彼も元気?」
『あいつは何があってもくたばんねえよ』
「酷いなあ。けど、梛君にもありがとうって伝えといて」
『はあ? 何であいつに?』
「だって梛君の助言がなかったら、こうやって加納君と話す事もなかったかもしれないだろ?」
『そりゃそうかもしんないけど……』
何だか不服そうな言い方に苦笑が漏れる。
「俺の怪我は大丈夫。突きを避け損なって、ちょっと首が切れただけだから」
『お……首切れたって……大事じゃないかよ!? 痕残ったりしないだろうな」
「え…と、それは――」
言い淀んだ俺の態度で、察したらしい。
『まさか、消えない……のか?』
その深刻極まりない声音に、俺の方がうろたえてしまう。
「だ…大丈夫だって、傷痕なんか残ったって。俺、女じゃないし。加納君みたいに再起を掛けてリハビリ、なんて事もないんだから」
『ワンちゃ……成瀬はその事、もう?』
「北斗? 知らないと思うけど。今朝神戸出て、西城には一時か二時頃になるってメール来てたから。でも何で?」
『………』
「もしもし? 加納君? 聞こえてる?」
返事のなくなってしまった電話の向こう。
よく知ってる奴ならさほど気にならないけど、相手が相手なだけに、黙り込まれるとちょっと気後れする。
電波状態がよくないのか、それとも―――
何か気分を害するような言動、したか?
『吉野は……本当に平気なのか? そんな傷負って……成瀬がどんだけ辛がるか……』
そんなこと言われても、俺の怪我で北斗が辛がるとは到底思えない。
北斗は剣道部の先輩とは違う。
それに、北斗にしてみれば選手生命を断たれかけた加納君の肩の故障の方がずっと辛いはずだ。
「やだなあ、何言ってんの。その言葉、そっくりそのまま返すよ。君だって自分の身体より北斗との試合、優先したじゃないか」
『バカ野郎!! 俺と吉野とじゃ意味合いが全然違うんだよ!』
いきなり耳元で怒鳴られて、びっくりして携帯を遠ざけた。
『吉野が怪我しても平気だって言うなら、それでもいい。けど、お前を大事にしてる成瀬の気持ちも……少しは察してやれよ。お前がそんな怪我して一番辛いのは、お前じゃない、誰よりも近くにいる成瀬だろうが!』
「え、………」
北斗を想う彼の訴えが、悲痛な叫びとなって俺の心に突き刺さり、返す言葉もなく立ち竦んだ。
加納君に指摘されるまで、俺はそこまで北斗の気持ちを真剣に考えてなかった。
『一聖、止せ。吉野を責めるのはお門違いだ』
電話の向こうで、低く、冷静な声がした。
『そんなのわかってるよ! けどッ!』
『ちょっと貸せ』
そんなやり取りが鮮明に聞こえ、
『悪い、吉野』
入れ替わった相手が謝った。
「――梛君? 君もそこにいたんだ」
『ああ。一聖がぐだぐだ悩んでるんで、蹴飛ばしに来てやったんだ』
「そう、ありがとう。でも加納君は――」
『ありゃ病気だ、「狂犬病」。ほっときゃ治まる』
「『狂犬病』? ああ、『ワンちゃん』か」
そういえば、去年は俺も当の北斗に散々犬扱いされた。
などと、どうでもいい事を思い出す。
梛君らしい言い様に頷いて、笑いかけた口元が歪む。
可笑しいのに苦しくて、訳のわからない感情に支配されそうになりかけたところで、
『で、どうだった? 全国大会は』
全然関係ない事を訊ねられ、正直面食らった。
そんな事、梛君に訊かれるなんて思いもしてなかったし、加納君との会話について振ってくるものと思っていたから。
けど今の俺には渡りに舟、北斗の心境より梛君の問いに答えるほうがずっと楽だ。
「うん、凄かったよ」
加納君との遣り取りは一時中断して、三日間の大会を振り返った。
「なんか圧倒された。本当は二日目のベスト8をかけた試合、かなり危なかったんだ」
『そんなとこじゃ負けねえだろ』
「ううん、さすがに全国大会だけあるよ。団体と掛け持ちの選手もいたから、それで助かっただけ」
練習場に充てられた会場でも姿を見かけなかった選手は、三日目ともなるとほとんど出ずっぱりだったに違いない。
個人戦一本に集中できた自分は、今更ながら相当有利だったと思う。
そんな事を想像していると、梛君が夢物語を口にした。
『そうか? なら来年はW受賞も狙えるな』
「うわ、何それ、ハードル高すぎ。そんなのできっこないよ」
『できるかできないか、やってみなけりゃわからない、んじゃねえのか?』
「梛君……」
俺の言いそうな台詞を先取りされ、微かに頬が赤くなる。
同時に、先日会った時の梛君の無駄な話を一切しない、強面だけど実直な人柄を思い出した。
口数は決して多くないのに、彼の紡ぎ出す言葉の一言一言が他の人の何倍も意味のあるものだった。
それは今も同じ。無口な梛君の器の大きさに救われている。
但し、相手が北斗だと何故か途端に辛辣に、しかも饒舌になっていたけど。
「うん、そうだね。なら来年はそれを目標に頑張る」
『それでこそ吉野だ。準優勝おめでと、最後までよく頑張ったな』
低く響く低音が、俺の心の奥深くに、じんわりと染み入った。
思いがけない労いの言葉。
まさか部外者で直接聞く初めての相手が梛君だなんて、思いもしなかった。
北斗相手の乱暴な口調とは明らかに違う、俺を労わる声音に、不意に視界が滲んだ。
同時に、
『あーッ! 義純ズルイッ!』
という叫びが遠く聞こえ、泣き笑いになる。
電話の向こうの状況が目に見えるようだ。
「……あり…がと、すごく嬉しい。怪我の話抜きで純粋に褒められたの……初めてだ」
すん、と鼻を啜って答えたら、梛君の訝しげな声が耳元でした。
『吉野? お前、……』
言葉尻を濁し、黙り込んだ梛君に、俺の様子の変化を気付かれたと覚る。
けど、隠す気にも誤魔化す気にもならなかった。
それはきっと先日会った梛君の、力強く、包み込むような大きな手の平と同じ。
ぶつかっていっても余裕で受け止めてくれそうな安心感、からだと思う。
「なんで……嬉しいのに泣けるんだろ?」
『――ああ』
「ごめん梛君、俺なんかナーバスになっちゃって……涙腺、弱くなってるみたいだ」
泣いている事実は知られてもかまわないけど、照れ臭さはある。
見えはしないと知りつつ、浮かんだ涙を手の甲で拭った。
『吉野も……普通の人間だったんだな』
妙に感心した風にしみじみ言われ、今度は本当に吹き出した。
「あの加納君の球を易々受ける梛君に言われたくないよ」
クスクスと笑みが洩れる。
『そうか? なら俺と吉野は同レベルって事か』
「あ、そうかもしれない。だからかな?」
『ふん?』
「俺、梛君 好きだ」
口にした刹那、息を詰めたような緊迫した空気が、携帯の向こうで感じられた。
「? 梛君? どうか…した?」
さっきの加納君の急変した態度が蘇る。
俺、また気付かない内に、梛君の気に障るような事、言った?
『ワリ、吉野。今度は俺が成瀬に絞め殺されるかもしんねえ』
珍しく妙に焦った声音に、首を傾げた。
「え? 何それ、どういう意味?」
『ちょっ、タンマ。一聖に代わる』
「え、ちょっと梛君? 急にどうしたの? 俺、また何か嫌な思いさせた?」
心配になって、携帯にかじりつくように問い掛けてみる。
すると、媒体越しに二人の遣り取りがはっきりと聞こえた。
『一聖、後は任せた』
『何勝手な事を…って、あれ? おい、どこ行くんだよ』
『便所』
『はあ? 何それ、あ、あーッ!! 義純ッ、お前ェ』
『バカッ、聞こえるだろうが』
『あっ、やば』
バタン、と、ドアの閉まる音まで鮮明に聞こえ、同時に話し声がピタッと止んだ。
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