6人が本棚に入れています
本棚に追加
帰校
青々とした緑に包まれた、小高い丘。
その中腹に立つ真っ白な校舎が、午後の日差しに眩しく映える。
懐かしささえ感じる西城高校を目にして、ようやく落ち着ける所に戻ってきたと実感した。
体育館の正面玄関にVIP扱いさながらタクシーを横付けされ、いそいそと車を降りた。
有難い事に出迎えの人影はなく、野球部の慰労会の催しがすでに始まっていると察する。
心を落ち着かせる為深く息を吸って、生徒用のホールのドアを押し開けると、中で待機していたのか丸山先生がスリッパの音も高らかに小走りでやって来た。
「お帰り! 吉野」
「あ、ただ今戻りました」
慣れない挨拶に照れ臭さも加わって、顔が引きつる。
そんな俺に構う事なく先生が満面笑顔で祝福の言葉をくれた。
「準優勝おめでとう。たまたま担任というだけでこんな大役を引き受けさせてもらえるとは、教師冥利に尽きるよ」
「大役? って何ですか」
「もちろん、吉野をステージまで誘導する役だ」
「え?」
その意味を追求する間もなく、丸山先生が遅れて入ってきた千藤監督に顔を向けた。
「や、千藤先生、遠くまでご苦労様でした」
「遅くなってすみません。式、始まってしまいましたか」
視線で体育館の中を促され、腕時計をちらっと見た丸山先生が軽く頷いて見せた。
「ええ、まだ十分ほどですが。ようやく静けさを取り戻したところです。えらい騒ぎになってましたんで」
「当然でしょう、優勝候補を相手にあれだけ善戦したんですから」
野球部の健闘を讃える千藤先生を見返して、丸山先生が短い首を竦めた。
「そうなんです。初戦敗退とは言え西城市は大騒ぎですよ」
「まあ甲子園はメジャーですから。おかげでこっちは静かに帰って来れました」
「甘いですな、先生」
意味深に言われ、しかも似合わない含み笑いに、滅多に動じない千藤監督が首を傾げた。
「そうですか?」
「県大会優勝で垂れ幕を用意した市民ですよ。吉野の全国大会準優勝を、そんな静かに出迎えるわけないじゃないですか」
「ですが、この後吉野は病院行きになってまして」
その話になった途端、丸山先生の表情が曇った。
「でしたな。どうだ? 吉野、傷は痛むのか?」
思い出したように振られ、思わず首の傷に手を添えた。
「えっと、昨日よりは大分ましになりました」
「そうか。…お前の無茶振りは今に始まった事じゃないが、みんな辛がるだろうな」
しんみりと言われ、なんだかすごく悪い事をしてしまったようで、何とも言えない気分になる。
これは――と考えて、田舎のばあちゃんに心配掛けた時の心境だと気付いた。
西城市が……西城高校が今の俺の居場所だと、改めて実感が湧いてくる。
「先生、心配かけてすみません」
ぺこりと頭を下げて、「でも」と続けた。
「俺にとっては名誉の負傷です。それに野球部員にも怪我人、かなり出たでしょう?」
「ああ、まあなぁ」
溜息混じりにガリガリと頭を搔いた丸山先生だけど、どういうわけかすぐに笑顔を取り戻した。
「それなりに疲れてはいたようだが、久しぶりにみんなに会えて復活してたぞ。特に黎明のチアガールやってくれた子らに出迎えられた時が一番盛り上がってたな」
正直な奴らだ、と愉快そうに声を立てて笑うけど、それは西城の女子生徒に失礼なんじゃないだろうか。
密かに同情しつつも、山崎や松谷、関達のニヤけた顔は容易に想像できる。
俺の口元も自然に綻び、目敏く見つけた丸山先生が、
「お? なんだ、興味なさそうに振舞っていても吉野もやっぱり男だったか」
などと、とんでもない勘違いな事を言い出した。
「で、黎明びいきか? それとも西城の女子か? ひょっとしてすでに本命がいるとか」
等々、興味津々聞いてくる。
とても教師の台詞とは思えない。俺達に年の近い子供―しかも娘―もいるというのに。
「俺がこよなく愛しているのは剣道だけです。それ以外の事に興味はありません」
かなり見栄を張って無表情に答えたら、
「おお? さすがに言う事が違う。というか準優勝した人間だと思うと、言葉の重みが違うなぁ」
と、いたく感心された。
千藤監督が隣でクックッと笑い出す。
監督には俺の心の内なんか全部お見通しだろう。
まあいい、丸山先生にはしっかり通じたみたいだから。
「しかし、それでいいのか先生は心配だ」
腕を組みかけた丸山先生が、「あっ」と声を上げた。
「こんなところで吉野を独り占めしてる場合じゃない。早く行かないと」
半分独り言のように呟いて、俺の左手首を掴んだ。
そのまま、正面入り口ではなく脇の通路に行こうとするのを慌てて止めた。
「ちょっ……待って下さい先生! 生徒はそこから入れますよ」
目の前にある入り口を右手で指差す。「県大会の慰労会と同じ並び方でしょ?」
すると、明らかに呆れ顔で担任が俺を振り向いた。
「主役がそんなとこから登場してみろ。無事ステージまで辿り着ける保証はないぞ」
「まさか!」
その誇張に目を瞠り、笑いかけた表情が固まる。「ホントに?」
こわごわ問い返すと、先生が真剣な面持ちで頷いた。
「大人しく従え。それが身の為だ」
「……はい」
促されるまま後に付いていくと、普段は立ち入り禁止になっているドアが、担任の手によって押し開かれる。
好奇心丸出しで一歩中に入ると、前方に、ステージに上がる為の幅の広い階段があった。
緞帳が邪魔で隙間からの様子しかわからないけど、中央に立つ小野寺会長の姿が見える。
どうやらこの会の主催者である生徒会、会長の挨拶がすでに始まっているようだ。
主役である野球部員のレギュラー達がステージ中央から右側、つまり俺が今いる方の反対側の前列に、残りのメンバーがその後ろに二列で座っていた。
丸山先生が段の途中まで上がり、県大会同様、慰労会を仕切っている小野寺会長に合図を送る。と、俺の方に顔を向けた会長と目が合った。
慌てて頭を下げたら、会長も軽く頷いて、再びマイクに向かい口を開いた。
「――それから、残念なお知らせがあります。昨日、リリーフで好投した一年の相原ですが、皆さんご存知の通り、打球が左肩を直撃してかなり酷い状態です。それと、いきなりの投手への交代にも係わらず、最後まで投げきった二年の成瀬は、夕べから微熱が続いていて、熱中症の疑いもあり、大事を取って二人共、病院での診察を優先させました」
まるで、見計らったようなタイミング。
いや、確かに俺の帰校に合わせている。これは会長の故意によるものだ。
けど、その事を全然知らなかった俺はその説明に驚いて、緞帳の間から再び最前列に目を凝らした。
……本当だ。駿と北斗、いない。
やっと会えると思って楽しみにしてたのに。
あからさまにがっくりと肩が落ちる。
同時に、場内の前列が騒々しくなった。
去年の入学式の時以来、それ以上のざわめきに混じり、ステージ下から二人の身を案じる女子生徒の声があちこちで上がった。
「え~、やだぁ、大丈夫なのぉ?」
「なんだぁ、残念。今日は会えないんだ?」
「駿君に会いたかったのにィ」
等々、上げていたらきりがないほどの騒々しさ。
これは、チアガールをやってくれたという黎明の女子生徒だ。口調がかなり甘ったるい。
多分西城の生徒には、事前に二人の慰労会欠席は知らされていたんだろう。
ただ、知らなかったとしても西城サイドから声が上がるとは考え難い。
あまりにも普段の姿を知っているから。
だけど、黎明女子高の彼女達の声で、北斗への心配が多少薄らいだ。
本人がこの場にいなくてよかった、とさえ思えたほどだ。
「黎明の皆さん、心配して下さってありがとう」
マイク越しに語り掛ける優しげな声音に、俯いていた顔を上げ、ステージの上の会長を見た。
にっこりと爽やかな笑顔を振り撒いた会長のおかげか、場内に静けさが戻る。
「この会に参加できない二人には、私が責任をもって皆さんの気持ちを代弁しておきます」
……やっぱり間に合わないのか。なら、ひょっとして病院で会えるかも。
でも、俺の予約時間は午後四時で、今もう二時過ぎてる。
いくらなんでもそんなに遅くまで治療に時間が掛かるとも思えず、暗い溜息が口をついて出た。
それに、彼らの行き先が俺と同じ市民病院かどうかもわからないんだった。
どうやら北斗に会えるのは家に帰ってから。駿に至っては会える見当さえつかない。
そんな俺の落ち込みとは対照的に、
「ホントですかぁ?」
「小野寺会長サイコー!」
「絶対ですよォ」
黎明から悪意のない明るい声が上がり、会長が柔和な眼差しで頷いて応えた。
その奥に、あやしく煌く隠された思惑に気付く人間ー部外者ーはいない。
彼の本質を知る者は西城の同級生数名と、生徒会執行部のメンバーだけ、もちろん俺も例外じゃなかった。
「その代わり、私からも皆さんにお願いがあるんですが、聞いてもらえますか?」
「いいですよー」
「何でも言ってくださぁい」
それまでのノリからか、会場の女生徒と直接対話に持ち込んだ会長が、声の方に目を向け「ありがとう」と頭を下げておいて、おもむろに野球部員に視線を巡らせた。
自然、その先を会場のみんなが追う。
狙いすましたように、会長が願い事を口にした。
「彼らを、ヒーロー扱いしないでいただきたいのです」
その意味を図りかねてか、一瞬、間が空いた。
「ご承知の通り、西城は和泉高校の全国大会出場辞退という思いがけないアクシデントによって、偶然権利を手にしたに過ぎません」
事実を事実として、冷然と告げる。
その言葉で、浮かれ気分でいた会場がシンと水を打ったように静まり返った。
「試合に出場したレギュラーは、すでに一、二年が主体の若いチームです。私は、彼らに来年、ぜひ実力で甲子園に行って欲しい。もちろん一番強くそう決意しているのは、目の前の新生野球部員でしょう」
その言葉に、部員全員が揃って大きく頷いた。
真面目な顔で、神妙に。
その表情に妙な違和感を覚えた。何だか取って付けたようなわざとらしさ。
思わず最前列に座る山崎に目を遣って、その口元が笑いを堪えているのに気付いた。
また何か企んでる! けど、一体何を?
そんな猜疑とは無縁に、小野寺会長の演説(?)は続く。
「若い彼らは、一生懸命な分、何事にものめり込み易い。誘惑や楽しい事、楽な事があれば、すぐそっちに走り出すでしょう。なにしろスタートダッシュは彼らの得意とするところですから」
会場から、クスクスと控えめな笑いが起こる。
「いくら色白でも、愛想のない四角いベースより、可愛い女の子の方がいいに決まってます」
目配せして見せる会長に、今度は会場中が笑いの渦に。
珍しい。
口は立つけど、こんなにあからさまに冗談を織り交ぜて話す人じゃないのに。
「騒がれる事に不慣れな彼らは、悲しいかなすぐに勘違いしてしまう。私はそうなるのを一番恐れているのです。その為に、皆さんの力を貸していただきたい」
また、ざわざわと場内がざわつく。
今度のそれは、さっきのざわめきとは明らかに異質のもの。
会長の真意をはっきり伝えて欲しいと、明確な答えを望んでるんだ。
その意を汲んだ会長が、会場を隅々まで見渡して、静かに告げた。
「簡単な事です。彼らにはこれまでと全く同様に接して下さい。余計な気遣いも、過剰の期待も無用です。今までと同じに、ただ黙って見守って下さい。そうすれば、彼らは自分を見失う事なく、来年こそ自分達の力で出場権を勝ち取る為に、真っ直ぐ走り出すでしょう。私は、西城高校の一生徒として、その力を信じています」
誰かが、一番に拍手を始めた。
たった一人、だけど会長の気持ちに賛同した迷いのない意思表示。
それが会場全体へと広がるのに、時間は必要としなかった。
最初のコメントを投稿しよう!