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画面の向こう側 1
口から零れた名前が、ひどく心許なく会議室の閉ざされた空間に響く。
その声で、ハッと我に返った。
バカッ!
先輩達の前であいつの名前なんて、普段は呼ばないだろ。
「なんで…成瀬がマウンドに?」
自分の失態を誤魔化す為、無理矢理安達先輩に聞き返した。
「さあ? 詳しい情報はまだ何も聞いてない。けど、なんかあったらしい」
「そりゃそうだろ。田島でも相原でも、まして関でもなく成瀬がピッチャーとは、ただ事じゃねえぜ」
「そう……ですよね。俺も、びっくりしました」
白井先輩の言葉に相槌を打って、そのまま画面を食い入るように見つめていると、相模主将にイスに座るよう勧められた。
「あ、すみません。それにバッグや防具……」
「そこに一まとめにして置いてある。心配するな。それより今はこっちだ」
言うなり、テレビに見入ってしまった。
相模主将も野球部キャプテンの結城さんとは懇意にしてるんだ。しかも最初で最後の甲子園、気になって当然だ。
五人共、もう一言もしゃべらない。
空いた席に適当に腰を下ろし、テレビの解説者の声を拾う事に専念していた。
『ランナー一、三塁で、打席には六番の上田君が入ります』
そのアナウンスに次いで、画面の端に回と点数、カウントが出た。
明峰の側に攻撃中のラインが入っている。
「八回表、明峰の攻撃? という事は西城は後攻、県大会の時と同じか」
試合の状況を把握する冷静な相模主将とは対照的に、白井先輩から唖然とした声が出た。
「八対六だあ? あの明峰を相手に……どんな試合してきたんだ?」
「まあ、互角と言ってもいいんじゃないの?」
辻先輩が小首を傾げる。
そこに白井先輩から否定の意味を込めた疑問が投げかけられた。
「ピッチャー成瀬でか?」
「…………」
やっぱり、誰も、何も答えられない。
重苦しい沈黙が、先輩達の短い会話を締めくくった。
『四番の室生君に二塁打を許したものの、好投していると言っていい成瀬君ですが、まだ1アウト。ピンチが続きます』
『そうですねえ、門倉君の前にランナーを溜めたくないところですが、反対に明峰は、このチャンスに少しでも突き放そうとするでしょう。足を絡めてくる事も十分に考えられます』
「あーもうっ! そんなのどうでもいいから、なんでこうなったのか説明しろッ!!」
じれったそうに安達先輩が喚く。
ここが自宅ならテレビの両端に手を掛けて、ガタガタ揺すっていたに違いない。
だけど、実際ここにいる五人とも心境は一緒だろう。
たった一つしかない小型のテレビにみんな見入っている。
自分の試合の時以上に、極限まで神経が張り詰めているのがはっきりわかる。と、
「あっ!!」
安達先輩の叫び声に、身体がビクッと震えた。「スクイズだッ!」
……いいから、黙って見て欲しい。
一々叫ばれたら心臓がもたない。
とは思うもののバント処理にマウンドを下りる北斗を見るだけで、早くも限界寸前だ。
ちゃんと捕球できるのか? だってマウンドの守備練習なんて、もう何年もしてないはずだ。
その心配が的中する。
ピッチャーの反応の速さを察したバッターが、ただのバントをプッシュして打球の行き先を強引に変える。
目一杯左腕を伸ばして捕球した北斗が、ホームは諦め一塁に送球した。
「これで三点差、か」
相模主将の沈痛な呟き。
それを受け、白井先輩が意外にも飄々と答えた。
「今のはしゃあねえよ。ま、2アウト目を取れただけ儲けモンだな」
そんなものだろうか。
守ってるみんなはどうなんだろう。
八回って言ったらもう終盤だ。ここで二点差から三点差に変わるのって、点差以上に精神的に追い詰められやしないだろうか。
もし、今ので集中力が切れたりしたら、西城は一気に突き放される。
マウンドの北斗が、次のバッターを迎え山崎のサインを窺う。
そこには、俺の知っている北斗とはまた別の、厳しい表情の彼がいた。
不本意そうな、険しい顔。
ショートの守備に就いている時の表情を見てないから何とも言えないけど、あんまり楽しんでいるようには見えない。
……スランプ、まだ尾を引いてるんだろうか。
そんな不安が脳裏を掠めた。
初球、山崎の構える場所とは明らかに違う場所へボールが行った。
判定はストライク。だけど、その事が俺を益々不安にさせる。
慌てて立ち上がった山崎がマスクを外して返球するのに、受けた北斗が手首を振って投げ損じの仕草をして見せた。
『投球に乱れがあった様ですが、大丈夫でしょうか?』
その解説者のコメントが終わるのと同時に、左足が上がり、綺麗なフォームで二球目が指から離れる。
それが、最悪な事に思いっきりすっぽ抜けた!!
「あっ!」
安達先輩より先に声を上げてしまった!
投手にあるまじき失投。
投げたボールの後を追ってマウンドを下りかける北斗と、バットを懸命に止める打者。
その目の前で、ポテンポテンとバウンドしたボールが、山崎のミットに救い取られた。
背番号1は例の明峰のエースピッチャー、門倉さんだ。
その必死な形相が一瞬映り、すぐにピッチャーへと切り替わる。
俺達は、凍りついたように無言のまま、この成り行きを見守っていた。
――なんで、北斗がピッチャーなんだ!
だって、できるわけない。
あの北斗が……自分の守備にも不安を漏らしてたんだ。
それなのにこんなのって、あんまりだ!
思いもしなかった西城の緊急事態。
そこに立ち、必死にプレーする北斗を見るのが怖い。
一番身近な存在である彼に背負わされたあまりの責任の大きさに、背筋にゾクッと悪寒が走る。
……これは、恐怖だ。
何やってんだ田島! 駿はどうしたんだ?
一体、何が起こったって言うんだよ!
そんな苛立ちをよそに、レフトスタンドから押し殺したような笑い声が起き、マウンドに戻る北斗を至近で捉えたカメラが一部始終を克明に映した。
こんな小さな画面でも、表情ははっきりとわかる。
見ていられないけど、目を逸らせばもっと不安で……結局画面から目が離せない。
意外にも少しも堪えてないような、いつもと変わらない端整な横顔。
失投なんか全く気にしてないみたいで、それだけは安心してほっと息を吐いた。
ただ、すぐに別の不安が沸き起こる。
こんなアップで撮られたら、嫌でも強く印象付けてしまう。
それでなくても投手のすっぽ抜けなんて、見ている側にとったら格好の話のネタにされるのに。
複雑な心境で見つめる先では、返って来たボールを受けた北斗が、ロージンバッグに手を伸ばしかけていた。
その時、レフトスタンドからものすごく聞き慣れた声がマウンドに向かって発せられた。
『北斗ォ、負けるなーッ!』
「ウソッ! 本城!?」
気持ちをぶつけるような声が画面越しにもはっきりと届き、びっくりして声を上げた。
北斗にも聞こえたのか、驚いたようにスタンドに目を遣ってる。
「マジかよ! 絶対本城だったよな、さっきの」
安達先輩が相模主将に驚きの顔で確認する。
「ああ。信じられないけど、間違いない」
頷いた主将の瞳にも楽しげな色が浮かんでいる。
「あいつって普段大人しいくせに、時々思いもしない大胆な真似するよな」
クスクス笑う安達先輩を見返した主将が、意味深な口調で付け足した。
「しかも、一番必要な時にな」
その言葉を証明するように、レフトスタンドから北斗へ次々に励ましの声が掛かり始め、それを見つめる主将の目がすっと細められた。
「誰でも、何事でも、誰かの後についてするのは簡単だ。要は最初の一人になれるかどうか。それでその人間の価値も変わる。まして何もせずに文句だけ言う奴、俺としてはごめんこうむりたいな」
―――『何もせずに文句だけ』
主将の言葉が、グサッと胸に突き刺さった。
まさしく今の俺だ。
ごめん、みんな。
……そうだよな。そうなった理由は、当然あるよな。
今の西城の最善の……もしくは残された唯一の手段として、北斗がマウンドに立ってる、そういう事なんだ。
この現実を一番受け入れられないのは、他でもない北斗と、今プレーしている選手達だ。
本当なら今頃、力投する駿のバックで安心して守りに就いてるはずだもんな。
そう気付いたら、この思いもしなかった展開にも少し冷静になって考える事ができた。
画面の中では、どういうわけか唇をきつく噛み締めた北斗が、手にしたロージンバッグをぎゅっと握り、地面に叩き付けた。
白い粉がぶわっと舞い上がる、荒っぽい仕草。
庇の下のきつい眼差しに、正直驚いた。
怒ってる?
……そういうわけでもなさそうだ。
けど、雰囲気がさっきまでと違うって、見ててわかる。
本城の声が聞こえたから?
もしそうなら、俺も……やっぱり球場で応援したかった。
こんな事態になると知ってたら、少しでも北斗の近くで見守りたかったのに。
そんな想いをよそに、雰囲気が変わった三球目。
バッティングにも定評のあるらしい門倉さんが、その球を真芯に捉えた。
ワンバウンドした打球が、球威もそのまま北斗の右を襲う!
抜かれる!
そう思うには十分のインパクト。
それを北斗が咄嗟に身体を捻り、強引にグラブを出した。
バシッと、止めた打球の勢いに圧され上半身が反る。持って行かれるのを阻止するように左膝をついてどうにか堪えた。
と思ったら、その体勢のまま一塁に向けてサイドスローで投げた!?
まさしく矢のような送球。
一体いつの間にボールを持ち替えたのか、それすら気付かなかった。
『アウトッ! アウトです、門倉君。当たりは良かったんですが、ピッチャー成瀬君の好守備、好送球に阻まれました』
『投球の後でこのプレー、しますか。――やはり彼はピッチャーではなく、フィールダーのようですね』
『ショートでも素晴らしい守備を見せた成瀬君、マウンド上でもそれは健在です』
「だとさ」
アナウンサーの解説を聞き、白井先輩が俺達に振った。「どこまでかは知らねえが、途中まではショートの守備に就いてたみたいだな」
「相原が崩れたか打たれたなら、田島が代わりに投げるはずだろ」
安達先輩から納得できない不満げな声が上がり、白井先輩が逆に聞き返した。
「なら、どうしてだ?」
「それがわかればこんなに動揺しないさ。な、吉野」
相模主将にいきなり呼び掛けられ、呆けた顔で振り向いた。
「え、…ええ、そうですね」
相槌を打ったものの、何の話を振られたのか実はよくわかっていなかった。
上の空で答える頭の中には、さっきの北斗のプレーが何度もリプレイされていた。
……あれは、スランプの人間ができる守りじゃない。
相模主将を気にしつつも再び画面に目を遣ると、両膝に付いた泥を手の平で払い、ベンチに向かう北斗の元に、西城の選手達が集まっていた。
中でもセカンドから一番に駆けつけた松谷が、後ろ頭をグラブで叩いて横に並び、仲よく話しながらの攻守交替だ。
スランプは? どうなったんだろう?
もう、さっぱりわけがわからない。
あんなに見たくて堪らなかった甲子園での試合だというのに、画面の向こうの成り行きについて行けず、実際の距離以上の隔たりを強く感じてしまう。
完全に蚊帳の外の自分が酷く空しくて、必死の想いで手にした準優勝という成績すら、本当にあいつらの励みになったのかわからなくなる。
だって、彼らはこんな逆境でも、自分を見失っていない。
俺の成績なんか、それこそ関係ないんじゃないかとさえ思えてきて、そんな事を考える自分が嫌で堪らなくなる。
一人堂々巡りして、行き着く先は結局さっきと同じだ。
当然、駿が投げているものと思っていた。
結果、五点差だろうが十点差になってようが、そんなのどうでもよかった。
自分の想定内の出来事ならこれほど動揺しなかっただろうし、こんな気分にもなりはしなかったのに。
目の前の出来事を受け入れるには、その現実はあまりにも突飛すぎた。
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