画面の向こう側 4

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画面の向こう側 4

   十回表、九対九。    北斗はこの試合、最後まで投手として全力で投げ続ける。  ファーストバッターとなる五番打者に、九回の室生さんの時と同じく、力一杯の球を投げた。  空振りしたバッターの後ろで、重い音を立ててボールが収まる。  延長前の休憩で少し体力が戻ったのか、引き上げた時の疲労感も多少薄らいでいた。  二球目はボール球になるカーブ、しかも挑発しているのかと思えるほど遅い。  その球を、タイミングを狂わされながらもすくうように当てた。  快音にはほど遠いものの、山崎に似た感じの見るからにパワーのありそうな打者だ。  だけど、大きな当たりとなった打球はライトを守る渡辺が早々に落下点へ移動し、しっかり捕球した。  レフトスタンドからはこれまで以上の大きな拍手。  ライトスタンドは簡単に打ち取られた打者への、惜しい溜息が洩れた。  一人目の打者を打ち取っただけで北斗が帽子を取り、ユニフォームで額の汗を拭う。  あと二人。  頼む、山崎。精一杯頑張ってる北斗をお前のリードで助けてくれ!  その山崎がミットに拳を入れて、低目ぎりぎりのストライクゾーンに構えた。  頷いた北斗が振り被って投げる。その球があろう事か高めに浮いた! 「マズッ!!」 「やばっ!」  先輩達の、それぞれの叫び声が重なる。  同時に明峰の六番打者が投げ損なった球を真芯に捉えた。  ライナーが、投げ終えたばかりの北斗の左を抜ける!   その打球に、北斗が反応したッ!?  ぎりぎり伸ばしたグラブの端にバシッと、かろうじて引っ掛けた!  勢いのついたボールがグラブから飛び出そうとするのを、力ずくで止めてしまった!! 『何とっ、また取った! 取りました成瀬君!! 一体どんな反射神経をしてるのかっ!?』 『恐るべき集中力です。ここにきて、この守りをするんですねえ』 『今のは完璧に抜けていた当たりでした。明峰には非常に痛いアウトでしょう』 「凄い。…何? この子」  初めて北斗の守備を見た先生が、呆然と呟く。  それも当然だろう。何回も見てきた俺達でさえ、そのプレーにいつも驚かされ、あの空間にあっさり引き込まれてしまう。  打球に持っていかれそうになった腕がしなり、強引に踏み止まった力の強さは、普段の筋トレの成果であり、毎日積み重ねてきた努力の賜物だ。  だけど当の北斗はというと、なぜかすごく不安そうな顔でベンチをちらっと盗み見た。  そこで初めて気が付いた。  北斗のはめている左手のグラブ、あれは駿のものだ。  投手用のグラブなんか用意してるはずないから、関か田島のを借りたと思っていた。  けど、関は西城唯一の左腕だった。  それに田島のグラブなら、そんな心配そうな顔でベンチを見たりしない。    この春、駿達が入部して間もない頃、「野球部の一年に頼まれた」と、グラブを買いに行くのに付き合った事があった。  その日の夜、買い物の事を訊いたら、「いいグラブがあったんだ」と自分の事のように嬉しそうな顔してた。  だけど値段が少し割高だったから、一人暮らしを始めたばかりの駿に悪い事したかなって気にしていた。  お金に関して言えば、駿は義理とはいえ裕福な家の跡継ぎだ。  だから気に入ったものは少々値が張ったって買えるし、一旦自分の物になったら、とことん大事にする。  そんなところは十才で母親が再婚するまで、慎ましく暮らしていた間に身についた美徳だ。  そう北斗に教えてやった。    その事を覚えていたなら、まだ真新しいグラブを借りた北斗が、そのグラブに傷を付けやしないか気にして当然。  そんな意味も含めて駿の様子を窺ったんだ。  そうと気付き、何とも言えない安心感が不安だらけだった俺の心を柔らかく包み込んだ。  ……大丈夫。  遠く離れていても、俺には北斗の気持ちがちゃんとわかる。  野手だろうが投手だろうが、北斗はいつも通りのあいつだった。  試合は九対九のまま、2アウトで明峰のエース、門倉さんの登場、だ。  投球だけが凄いんじゃなく、バッターとしても非常に高いアベレージを保持している好打者、とは、北斗が前に見せてくれた雑誌で得た情報だ。  前の打席は、確か八回。この会議室に来てすぐだった気がする。  そういえば派手にすっぽ抜けて、3バウンドで山崎のミットにボールが収まったのも、門倉さんを相手にした時だった。  北斗のファインプレーで打ち取りはしたけど、当たり自体は強烈だった。  思いがけない再度の対決。  リベンジに燃えているのか、門倉さんの集中力が増しているのが画面越しにもひしひしと伝わる。  ミットを構える山崎が、チラッとバッターボックスに目を遣り、サインを出す。  軽く頷いた北斗が、ゆっくりと振り被った。  一体、どこまで粘るんだ?  明峰の主砲、四番の室生さん同様、球筋を見極め、カットしてしのぐ門倉さんにも、正直腹が立ちかけていた。  真剣勝負なのに腹を立てるなんて、今までの俺なら絶対有り得ない。  それなのに、冷静に見ていられないのは何故だろう。  カウント2‐3になるまでは覚えていたけど、今はもうそれどころじゃない。  至近で撮られる北斗の表情が九回の時以上に苦しそうで……何度も帽子を取って汗を拭く姿に、いてもたってもいられなくなる。                                          『苦しそうなマウンド上の成瀬君、対する明峰の門倉君も、当てるのが精一杯。両者、互いに譲りません』 「互角、か。確かにそうかもしれないが、成瀬の方が分が悪いな」 「ええ。門倉を抑えれば西城有利ですが、門倉に粘る体力があるという事は、甘い球さえ来れば即打ち返されそうですよね」  監督と相模主将のやり取りは、剣道での反省会と似ている。  その相模主将の読みを聞いた監督が、満足そうに口を閉ざした。  ロージンバッグに手を伸ばした北斗が、肩で息を吐く。  気持ちを切り替えようとしている。  意地でもここで……次の球でケリをつけるつもりだ。  恐らく、門倉さんの後のバッターに投げる力なんか残ってない。  全部ここで使い切ってしまう。  それでいいんだな?  ならここで、その球で打ち取れ、北斗!   滑り止めを手放した北斗が、門倉さんを見据え、振り被る。  庇の下の瞳は、半年前『もう投げれない』と告げた時の、暗く沈んでいた目じゃない。  持てる自身の全てで挑む、戦う者の眼。  凄烈なまでに綺麗だ。  やっぱりお前は、どこにいようと輝いてるよ、北斗。  そんなお前が……俺は誇らしい。  渾身の一球。  これが今の北斗の全力。  これ以上の球を投げる事も、その体力も、もう残されてない。  ここまでもったのが、すでに奇跡だ。  届け! あいつの相棒、山崎のミットに!  それは、確かに今の北斗にとって最高の一球だった。  失投でも、見せ球でもない、全力投球の最高の球。  それが、門倉さんのバットに完璧に捉えられた。  いや、それをこそこの人は待っていたのか。  北斗を……  西城の最後の希望を、効果的に打ち砕く為に。  だとしたら、恐ろしい人だ。 『これは大きい、文句なくスタンドに入るでしょう!』  北斗の力投同様、力一杯のスイングで飛ばされたボールが、高く、遠く飛んで行く。  その行方を目で追った北斗が、センタースタンド中段に飛び込んだのを確認して、一つ息を吐いた。  客席の歓声を一身に受けて、ダイヤモンドを走り出した門倉さんから、マウンド上の北斗に画面が移る。  口元に淡い笑みを浮かべたその顔に、正直驚いた。  相手の力を認めた故のものだろうか。  ホームランを打たれ、門倉さんの狙い通り気力が切れたとしてもおかしくない状況なのに、何だかさっぱりしているように見える。  ダイヤモンドを一周する門倉さんを追いかけていたカメラが、さっきのホームランのリプレイに切り替わった。 『会心の当たりでしたねえ』 『さすがは門倉君、粘って粘って、最後は自分のスイングをしっかりしました』 『一点リードされた西城高校、これ以上の追加点は阻止したいところですが』 『門倉君相手に優に十球以上投げましたからね。成瀬君の疲労が心配されます。果たしてこの後の明峰打線を封じる事ができるのでしょうか』  その解説が終わると同時に、画面が再びホームランを打たれた投手ー北斗を映す。  同じタイミングで、初めて後ろを振り向いた北斗が、右手を高く上げ、何か喚いた。  この割れるような大歓声の中では、声なんか届くはずもない。  しかも味方の応援じゃなく、敵対する明峰、門倉さんへの声援がほとんどを占めている。  それでも、北斗の示した二本の指が、全ての想いを仲間にしっかり伝えていた。  北斗のバックを守る七人のフィールダーが、それぞれの場所で、思い思いに応える。  そんな彼らに軽く頷いて、山崎に向き直った。  いつの間に、こんなに強く……というより、大人っぽくなった?  朝練が始まって、家でもたまにしか会わなくなってから、会う度日に焼けて、時々のぞかせていた少年のような雰囲気を目にする機会は減ってきていた。  けど、こんな逞しさを感じたのは初めてかもしれない。  ホームランを打たれても、逆転を許してしまっても、北斗は少しも変わらない。  窮地に立たされた事で開き直ったのか、これまで以上に冷静に誰よりも早く仲間を鼓舞する姿は、ショートの守備に就いていた県大会と同じ、もっとも頼りになるチームの主軸だ。  それでも、明峰の攻撃は容赦なく北斗に襲い掛かる。  続く八番打者にジャストミートされた打球が、セカンドとファーストの間を綺麗に抜け、渡辺の前まで転がっていった。  次いで九番。  気力、体力共に限界を超えた北斗に、明峰のバッターを打ち取る事などできないと、ド素人の俺が見てもわかる。  それでも立ち向かう北斗から、目が離せない。  投げるのがやっとのような投球フォームも、明らかに球威の落ちた球にも、一縷の望みを託す北斗の懸命な姿勢に、胸が痛いほど熱くなる。  腕が思い通りに振れなくなっても、どれほど連打されても、決してマウンドは下りない。  全校生の前で春日さんに誓った通り、きっと最後まで全力を尽くす。  見えているのは山崎のミットだけ。  今はここが自分のポジションだと己に言い聞かせ、無心で投げている。  2アウトまで取りながら、一点を先制した明峰の猛攻は留まる事がなく、九番にもヒットを許してしまった。  連打を浴びてファースト、セカンドと塁が埋まり、一番の左打者が声を張り上げてバッターボックスに立つ。  この機に一点でも多く突き放すつもりだ。  対する山崎のミットは全部低目へのストライク。  けど、そのストライクが入らない。 『苦しそうです、マウンド上の成瀬君。あと一人と追い詰めながら、最後の一人を打ち取る事ができません』 『ここが踏ん張りどころですよ。一点差なら試合はまだまだわかりません。ですがこれ以上差が開けば、西城の初勝利は遠のくでしょう』  北斗の頬を伝い落ちていた汗が、今はない。  日が陰り、気温が下がったせいじゃなく。 「まずいなあ、彼。脱水症状起こしかけてる」  眉根を曇らせた白衣の先生の呟きが、俺の不安を更に緊迫したものに変えてしまった。  ……苦しいんだ、きっと。  俺達の想像を、遥かに超えるほど。  息を詰め、見守る先輩達の表情(かお)にも、憂いの幕が張り付いている。  だけど、ここで下りるあいつならこんなに不安になったりしない。  ノーストライク3ボール。  この場面で敬遠なんか有り得ない。  ただ……加納君お墨付きの北斗のボールコントロールが、できない。  もう少しだ、北斗!  あと一人だけ、それで解放される。  だから、誰か……誰でもいい、あとアウト一つ取ってくれっ!  視線の先で、北斗が一呼吸置くようにロージンバッグに手を伸ばした。  意識はしっかりしてる。頭も、今はまだ冷静な判断ができている。  大丈夫だ、倒れたり……しないよな。  テーブルの上に組んだ両手に知らず力が入る。  その上に、校医の先生の温かい手がふいに重なった。  不安を察したんだろう。強張った表情の俺に、先生がふっと目を細めた。 「どうやら取り越し苦労だね。彼、しっかりしてるよ」 「そう…ですか?」 「ん。脱水症状って、自分じゃ気付かずに無理して大事になるケースが多いんだけど、彼、自分がそうなりかけてるの気付いてるみたい。ベンチに戻ったらすぐ水分補給なり応急処置なりするでしょ。だから大丈夫。そんなに心配しなさんな」  そう言って目配せした。  他の誰でもない、校医の先生に言われると、それだけですごく安心できる。  それにあいつは看護師の息子だった。そんな知識も俺達に比べれば多いはずだ。  強引にでもそう結論付けないと、今の俺には何もしてやれない。  その代わり、西城に帰ったら絶対スポーツマッサージをマスターして、疲れた北斗の身体を俺の手で癒してやると、固く心に誓った。  セカンドのランナーを目だけで牽制した北斗が、バッターに集中する。  何十球目になるのか、ほとんど意地だけで投げたその一球が、やはり並みじゃないバッターに捉えられた。  抜けたら追加点が!  そう思うよりも先に、北斗は走っていた。  誰よりも速く、自分の行くべき場所へ―――  ためらいもせず三塁に走る北斗の前方で、レフトに抜ける打球を結城キャプテンが横っ飛びで止めた!?  北斗が右手を上げて叫ぶ。  声が届かなくてもキャプテンにはわかる。  体勢を崩しながらも強引に振り向いた結城さんから、これ以上ないほど絶妙なボールが投げられる。  最高の位置でキャッチした北斗が、セカンドランナーとほとんど同時にサードベースを駆け抜けた。  三塁塁審のジャッジをカメラが捉える。  結城さんの捨て身の捕球が北斗を救ったと悟った瞬間、画面の中のレフトスタンドから歓喜の雄叫びが上がった。 『この土壇場でスーパープレーが飛び出しましたっ! サードを守る結城君、西城の危機をキャプテン自ら救いました』 『逆転されても集中力を切らせない。それ故の好プレーです。精神的にも実に強いチームです』  倒れたのは、北斗ではなく結城キャプテンだった。  傍にいたショートの迫田さんが、手を貸し支え起こす。  駆け寄って行った北斗を見上げ、満足そうな笑みを浮かべた結城キャプテンの額には血が滲み、痛々しいすり傷ができていた。  観客席からだと見えないそんな細かな表情も、ズームで映されるとはっきりわかるから、よけい生々しく感じる。 「あいつら、怪我しまくりだな」  気遣われつつベンチに引き上げる結城キャプテンを見て、相模主将が苦笑交じりに呟いた。 「奴らだけかよ。一番の大バカ野郎が目の前にいるじゃねえか」  声を大にしたぶっきらぼうな白井先輩の一言に、思わずきょろきょろと会議室の中を見回した。  先輩の言う『大バカ野郎』が自分の事だと気付くのに、優に五秒は要した気がする。  そんな俺をちらっと見た主将が額に手を遣り、これ見よがしな溜息を一つ吐いた。 「――だったな。しかし、西城に帰ってからが思いやられる」  その言葉に即、辻先輩が頷き、安達先輩が何やらこそっと耳打ちする。  二人揃って盛大に零した溜息の訳がわかるほど、俺の勘はよくない。けど、 「あ~あ、きっと大騒ぎになるぜ」  そう続けた安達先輩の、騒ぎの元凶が誰を指しているかというのはすぐにわかった。    それにしても、なんでこう望みもしない騒動を巻き起こしてしまうのか、自分の性格が恨めしく思える俺だった。
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