何処かの喫茶店、いちばん奥の、角の席

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「何処かの喫茶店、いちばん奥の、角の席」 私の前に座るのは見知らぬ紳士、優しい笑みを 浮かべてこちらをじっと見つめる。どの位時間が経ったのだろう「帽子は脱がないんですか」私は紳士が被っている中折帽を指さして言った。「ああ、忘れていた」そう言うと紳士は帽子を取り、隣の椅子にそっと置いた。そして相変わらず私を見つめる。なぜこちらを見るんだろう、私の顔に何かついているんだろうか。そう思って顔を触る。だが特に変わった様子はなく、いつもの目と鼻と口があるだけだった。紳士は注文を取る様子もなく、出された水に口をつけることも無い。ただテーブルの上で手を組み、私を見ている。一言も発さない男との空間に耐え切れず、遂に口を開いた。「なぜそんなに見つめるんで?穴が開きそうですよ」紳士は答えなかった。私は困惑を通り越して恐怖を覚えた。 暫くすると紳士は目が覚めたように瞬きをして座り直した。おもむろにメニュー表を手に取り、「今日はどうするか、、たまにはアメリカンでもいいかな、、」なんてこちらの気も知らずにぶつぶつ呟くもんだから、私の恐怖は怒りに変わった。「なぁあんた、さっきから私が話しかけているのが聞こえてないのか?え?なんでこっちを見てるんだって聞いているんだ」大した数ではないが他にも客がいるので大声で怒鳴り散らす訳にはいかなかったが、自分でも驚くほど、ドスの効いた声が出た。「なんだ怖いなぁ、怒らないでくださいよ。あ、すみません、アメリカンコーヒーひとつ、、、あと、こっちにも同じのを。」私の叱責の甲斐なく、紳士は飲み物を注文し始めた、しかも私の分まで。確かにアメリカンは好きだがそんなことは関係ない。どういうつもりだとまた怒りたくなったが、この紳士になにを言ってもまともに取り合ってもらえる気がしなくなり、諦めて大人しくコーヒーを飲んだ。 一口か二口流し込んだ辺りで、まだこちらを見つめていた紳士が突然涙を流し始めた。ぎょっとして何も言えないでいると、「ああ、ああ、いるんですね、また一緒に語り合ってくれるんですね、壇さん」そう言い出した。気でもおかしくなったのかと言おうとしたが、壇という名前が引っかかった。私は何かを忘れている、そんな気がした。そういえば、私はいつからここにいたんだろう、なぜ名前も知らない男と向かいあわせで座ったんだろう、いろんな疑問が駆け巡った。おいおい泣く声が聞こえたのか、店の奥からハンカチを持った女店主が出てきた。彼女は私を見るや否や、「えっ」と小さく叫び、紳士と一緒に泣き出した。「よかったねいっちゃん、壇くん来てくれたね。お客さんいないうちにお店閉めるから、好きなだけいていいわ」いっちゃんと呼ばれた紳士は、ありがとうと礼を言うと、伏せていた顔を上げた。その瞬間、疑問が確信に変わった。壇とは誰か、また一緒にとはどういう意味か、そしてこの紳士が私を見つめる理由が、ようやくわかった。 私はここにはいなかった。いや、いなかったと言うより、紳士には見えていなかったと言うべきだろう。それは、「壇 真実(まなみ)」これが私の名で、壇真実は既に死んでいるからだ。この紳士、山川 至は私の生前によくこの喫茶店で長い時間二人で座り、いろんなことを語り合った時のことを思い出して、向かいの席を見つめていたのだ。 死ぬと生前の記憶が薄れるという話を聞いたことがある。まさにそれなんだろう、至がボロボロと泣き崩れるまで、自分の存在に疑問など欠片も持たなかった。死んだ人間がカップを持ち上げてコーヒーを啜るもんだから、生きた人間からはカップが独りでに浮いたようにしか見えない。目の前にいる幽霊が、壇 真実である証明もないのに、至は笑いながら悲しそうに泣いていた。私はそっとカップを置き、至に手を伸ばして涙で光る頬に触れた。すると、今度は本当に至と目が合った。彼は目を皿のように開き、口をパクパクさせて驚いた。 「不思議なもんだ、意外と触れるんだな。なぁ至、怒ったりして悪かった。見えなくても寒気くらいはしたんだろう?だから怖いと言ったんだろう?私はずっと、お前と話しているつもりだったよ。」思い出したら可笑しくなって、ついアハハと笑う。至はまだ声が出ないようだった。「急にいなくなったりして、部下に寂しい思いをさせた。どうしようもない上司で、すまなかった。」私は、至の頬をとめどなく伝う涙をすくい、申し訳なさから謝り続けた。すると至は、頬に置かれた私の手を握った。触れるのかと感心していると、彼は喉奥から言葉を押し出すように話し始めた。「壇さんがそんなに謝るなんて、柄じゃないしこそばゆいですからやめてください。そうですよ、突然いなくなるなんて悲しいじゃないですか。でも、正義感の強いあなただから、最後まで他人を守り続けたんでしょう、俺が一足遅れたばっかりに...助けられなかった...すみません、すみません...」そう言って私の手を握りしめながら泣き続ける彼は、私の死後、救えなかったことを深く後悔していたんだろう。あと一秒早く振り返っていれば、自分の脚があと一秒でも速ければ。そんなことを思いながら過ごしていたんだろう。 気づけば私も泣いていた。あと一秒早く駆けつけていたら、あと一秒でも銃を撃つのが速かったら。至にこんな思いをさせずに済んだかもしれない。 「声、聞こえてるんだな、よかった。謝るんじゃない、誰も悪くないんだ。至。誰も悪くないんだよ。私らは刑事で、被害者の子は無事だった。それでいいんだ。お前が気に病むことは何も無い、たまに墓参りに来てくれたら、私はそれでいいんだ。 なぁ、泣くなよ。」そう、私達は刑事で、相棒だった。二人共捜査に積極的で、意見が食い違って言い合いが起きるなんてことは日常だった。それでも至の隣は居心地が良くて、悪態をつきながらも二人で事件解決に勤しんだ。彼も同じだったはずだ。なんだかんだ口喧嘩も軽口も楽しくて、上司と部下だなんてことを忘れて、友達だった。 あの日もそんな風に至と過ごすはずだった。 ある女に恨みを持った男が、ストーカー行為を始めた。それは段々エスカレートし、遂にはその女の旦那が殺された。夫婦には八歳の子供がいて、犯人は次にその子を狙った。女は子供だけは守ろうと、旦那が殺された一件を担当した私と至に監視を頼んだ。だが、八歳というのは遊び盛りで、心配する母の目を盗んでよく外へ出ていた。子供が人目につかない物陰に入ってしまった時、監視していた私はその子に向かって全速力で駆け出した。人影の全体は見えなかったが、物陰から銃口が子供に向けられているのが見えたからだ。横から至が走ってくるのが見えたが、子供を託す暇もなかった。男の子を自分の後ろに隠し、腰から銃を抜いた。 撃った。確かに撃った。結果は相撃ち、私の弾丸は犯人の右胸に、犯人の弾丸は私の左胸を貫いた。 意識が遠くなる中で、至の声と男の子の泣き声が響いていた。至は私の名前をひたすら叫んでいた。「大丈夫だ」と言いたくて手を伸ばしたが、限界だったらしく、そこで全てが私の中から消えていった。そして気が付くといつもの店でいつもの定位置に座っていたというわけだ。 至は私の手を握ったまま言った。「壇さん、俺、あんたのこと尊敬してますよ。仕事に一途で、正義の眼差しで世の中を正そうとしてた。俺が相棒でいいのかって思うくらい、あんたは凄い人だ。」照れもせずに真っ直ぐ目を見ながらそんなことを言うもんだからこっちが照れる。笑っちゃいかんと思ったが、大真面目な部下が可愛くて思わず口角が上がった。なに笑ってるんだと照れ隠しの怒った声が降ってきたが、その声も笑い混じりだった。「やっと泣き止んだな、いつまでもめそめそしてちゃ自慢の男前が台無しだろう。笑って生きろよ至。私はずっとお前の相棒だから、ずっとお前の心にいるから、それを忘れてくれるなよ。」至は握っていた私の手をさらに強く握った。込み上げてくる何かを堪えて必死に力を入れ、私の名前を呼んだ。「真実さん、俺、あんたの相棒やれて幸せでした。真実さん、真実さん、、」何度も何度も名前を呼ぶ。至が私を下の名前で呼ぶのは、必死な時か昼飯を集りに年下らしく甘えてくる時だけだ。もう甘やかしてやれることもないのだと思うと、また目頭が熱くなる。私は思わず、至を抱きしめた。子供をあやすように頭を撫で、背中をトントンと叩いた。至も私の背に腕を回し、強く抱き締めた。私達は、静かに、静かに、泣いていた。 途端に、私の体が薄くなり始め、至もそれに気付いた。「ああ、時間だってことか、、至、「言わないでください、別れの言葉なんか要りませんから。俺、真実さんのこと来世まで追っかけますから、どんな姿になってても見つけ出しますから、それまで大人しく待っててください。」私の肩をがっしり掴み、さよならと言いかけた私の言葉を遮って早口で捲し立てると、落ち着いた紳士とは言い難い、いたずらっ子のような眩しい笑顔を私に向けた。「そりゃ首を長くして待っていなきゃなぁ、楽しみだ。ありがとう、至。」「ありがとう、真実さん。大好きです。」俺がそう言い終わらないうちに、真実さんは消えていた。最後の言葉が聞こえたのかはわからない、でも、彼が笑ったように思えた。 真実さんがいた腕の中の感覚がまだある。今では空気を抱えている腕を、そのまま自分に回して座り込む。どれくらいの間そうしていたか覚えていない。すっかり冷たくなった飲みかけのコーヒーカップが二つ、いつものように並んでいた。 ae7d6c85-f3d3-47bd-8830-f1f15e444a6a
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