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上司と部下
大学時代の友人が会社を立てるから手伝ってくれないかと誘われたのが、約10年前。俺はその会社で課長を務め、部下達にもそれなりに信頼されていたと思う。が、少し前に入って来たとある新人社員が、俺の頭を悩ませていた。
「鬼島さん♪言われてた資料出来ました。確認お願いします」
「ああ……ちょっと待ってろ」
そう言いながら数枚の資料を俺の元へ持って来たのは、背の高い、愛想の良い好青年。彼は仕事も出来るし礼儀正しいし、気配りが出来るから、社内では男女関係無く人気がある。……だが、何故か俺に対してだけ妙に馴れ馴れしい(馬鹿にされてるような)気がするのだ。
俺は資料を確認し、特に直すところも無いのでそのまま返す。
「……良く出来てる。じゃあこれは、そのまま開発部に持って行ってから」
「本当ですか?やった!……鬼島さん、何かご褒美下さい!」
「は?」
「俺、頑張ったんで。鬼島さんにご褒美貰えると、もっと頑張れます!」
……まただ。こんなキラキラした笑顔で、なんて気持ちの悪い事を言いやがる。
俺はため息と共に、突っ返すはずだった資料を筒状に丸めてはそれで彼の頭を軽く叩くのだった。
「ふざけるのも大概にしろ。ほら、さっさと行け」
「……はーい」
「まったく……」
あからさまにしょんぼりとしながら去って行く彼の後ろ姿に、俺は冷たい視線を送りながら脚を組んだ。
彼の名前は真城恭太郎。新卒入社で仕事にやる気があるのは良いが、仕事場の上下関係が少し緩いような気がするのが唯一の欠点か。
でも、仕事が出来るし愛想が良いから誰も注意出来てないんだよなぁ。今のとこは業務に支障がある訳じゃ無いけど……そのうち何かあってからじゃ遅いし……。
これでも一応心配はしているつもりだ。彼にとっては俺が初めての上司な訳だし、社会人としての身の振り方等、俺が教えた方が良いと思うから。
「……早めに教育しといた方が良いか……」
俺は卓上カレンダーをちらりと見ては、今日は金曜日か、とすぐに考えを巡らせた。
真城に飲みに行かないかと誘ったら、二つ返事で「はい!行きます!」と尻尾を振って付いて来た。そうやって嬉しそうにされるのは上司として悪い気はしないし、とても好印象なのだが……あまり馴れ馴れしいのも問題だ。
俺は真城を行き付けの居酒屋に連れて行き、社会人としてのアレコレを叩き込んでやろうとしていたのだが……何がどうなったのか、いつの間にか酒を沢山飲まされ、説得が説教くさくなってしまっていた。
「だぁからー、真城のそれは才能だと思うぞ?だけどさぁ、俺は良いとしてもだなぁ、他の人が見たらどー思うか考えた方が良いって話しであって……ひっく」
「鬼島さん、飲み過ぎですよ。てか……やっぱり鬼島さんって、部下想いですよね。普段怖いのに、ちゃんと皆の事見てくれてるって言うか」
「ばぁか!俺は上司だぞ?部下の世話するのも大変なんだからなぁ!」
「あははっ。そうですよね。今もこうして……俺の事、心配してくれてますもんね。俺、鬼島さんが上司で良かったです。本当にありがとうございます」
その言葉に、俺は何故かグッと感動してしまう。
最近では歳のせいか、涙腺が緩くなっているような気がするのだ。感動のドキュメンタリー映画や他人の結婚話、ペットの出産や学生の受験合格発表のニュースでさえ涙が滲んでしまう始末。
部下にとんだ失態を見せるとこだったと思いながら、俺は僅かに滲んだそれを素早く拭った。
「はは……真城、お前本当に嬉しい事言ってくれるなぁ」
「だって、事実ですから」
「お前……あまり俺を褒めるなよ。と言うか、それが生意気なんだって!他の目上の人にあまり馴れ馴れしくすんな?気を付けろよ!」
あ、ヤバイ。普段褒められ慣れてないから、嬉しくてまた泣きそう。
酒が入っているから、押し寄せる感情の波が余計に激しい。
俺は涙を誤魔化そうと、置いてあったおしぼりで汗を拭うフリをしては目の端に溜まった涙を拭いた。素面の状態ならある程度涙腺を引き締める事も出来るが、今回は酔っているから仕方がない。
おしぼりで顔を拭くなんておっさんみたいだが、実際におっさんなのだから許してくれ。
そうやって誤魔化してから顔を上げると、いつの間にか真城の顔が目の前に迫っていた。ビックリして後退ると、何故か彼も詰め寄って来る。
「び、ビックリしたぁ……どうしたんだ?」
「鬼島さん、あの……っ」
「?」
座敷だから移動するのは簡単だった。だが、逃げ場所はそんなに存在しない。
すぐに壁際まで詰められると、俺は迫り来る大型犬に咄嗟に「ま、待て!」と片手を突き出していた。だが、その手を握られてしまい、意味の分からないくらい真剣な眼差しと声で口説かれるのだ。
「ま、真城……っ?な、なに……?」
「……鬼島さんって、人前で簡単に泣くんですか?……今、泣いてましたよね?」
「は、はぁ?いやいや……泣かねぇし!つか泣いてねぇ!」
「嘘ばっかり。今だって、ほら……泣いてる」
俺より大きな手が、頬に触れて来る。その指で目元を拭われ、俺は訳が分からず赤くなった。
他人の温もりを感じたのはいつぶりだろうか。温かな人肌と優しさ、それから恥ずかしさに更に涙腺が緩んでしまい、また涙が溢れて来る。
「や、やめろ真城……っ……手、離せ……」
「何で?」
「……な、何でって……なんか……、嫌だ……」
「嫌がってる割には顔、赤いですよ」
「〜〜〜だから、触るなってば!……っ!」
真城の手を振り払った時だった。バランスを崩して後方に倒れそうになるのを彼の腕に抱き止められたのだ。そしてアッと思った時には、キスをされていた。
な、なんでキス!?どういう状況!?
「……っや、真城……っん」
一度彼の胸を押しやったが、俺より体格の良い彼をそう簡単に押し返す事が出来ない。
俺は酔いの回った体力では真城を拒み切れずに、次々と降り掛かるキスと声に完全に腰を抜かしていた。
「……鬼島さん……、もっと良く、顔見せて下さい」
「……ばかっ、なんでそんな事……っ」
「ん、……だって、かわいい」
「お前……っ、上司をからかうのもいい加減っ……、んん……っ!」
「ん……っ……からかってなんかいませんよ。俺、鬼島さんが時々目潤ませてんの、知ってるんですから……。でも、アナタがもっと本気で泣いてる顔が見てみたいです」
「っ!?」
人のコンプレックスを見てみたいとか……しかもそれを上司に言うか?普通。
俺は真城の追撃をかわすどころか、数年ぶりのキスが気持ち良いとさえ思っていた。
そして思考もままならないまま、彼から与えられる全てを受け入れてしまう。
……真城のヤツ、キス上手いな。気持ちぃ。ふわふわする。
酔っ払ってたって、後で言い訳をすればいい。実際酔ってるし。まともな状態じゃないし。
俺は真城にしがみ着き、彼の口から囁くように「店、出ましょうか」と言う言葉に頷いていた。
残念な事に、俺は酔っ払っても記憶を無くすなんて事は無い。自分がどんな失態を見せたとしても、翌日にはしっかりと覚えているのだ。
「……やらかした……」
俺は深いため息と共に身体を起こすと、隣りで寝ている部下をチラリと見る。同じ男なのに俺とは違う、しっかりと付いた筋肉が逞しくて、昨夜の事を思い出しては赤くなる。
あの後店を出ると、既に終電は無くなっており、家が近いと言う真城に連れられては彼のアパートに来ていた。そして玄関に入った瞬間に再びキスで襲われて、あれよあれよと言う間にベッドに連れ込まれ、この状態。しかも初めて同性とセックスしたから、恥ずかしさと痛さと快感でぐちゃぐちゃに泣いてしまったのだ。あんなカッコ悪い姿を年下の、しかも部下に見られたとなると軽く死にたくなる。
俺は真城が起きる前に帰ろうと、こっそりベッドから降りようとした。が、上手く足腰に力が入らずによろめいてしまう。
「おっと……。大丈夫ですか?鬼島さん」
「……だ、大丈夫だ……」
いつの間に起きたのか、後ろから真城が俺の腰に腕を回しては、倒れ込む一歩手前で助けてくれていた。そのあまりの近さに彼を意識してしまい、あからさまに顔を反らしてしまう。
……ヤバイなぁ。思った以上に心臓がドキドキしてやがる。
真城に抱かれ、嫌だという気は一切なかった。ただ、思い出すと恥ずかしくて、また涙が込み上げて来る。
ダメだ。泣くのは我慢、我慢……。
眉間にシワを寄せながら、キュッと唇を噛む。と、真城に「あ、鬼島さん」と呼ばれ、振り返れば軽くキスをされた。
「っ……な、なにして……」
「……俺の前では、泣くの我慢しないで下さい。俺、鬼島さんの泣き顔好きなんで」
そう言っては微笑み顔でベッドに引き戻され、俺の背中に唇で何度も愛撫を送って来る。
俺は頭の中が混乱して訳が分からなくなると、また涙を浮かべながら「ば、バカ真城!」と叫んでいたのだった。
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