明日晴れなくても(15)

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十五・愛依の記憶  翌朝、私は登校してすぐに二組の教室に足を運んだ。 「あっ、ゆかりちゃん」  愛依と同じクラスの素子がいつもより早く登校してきた私に気付いて声をかけた。いつもなら朝からテンションの高い彼女もこの日だけは笑顔がなかった。 「昨日浦和から一斉メールが来た時はびっくりしたよ」  素子達のクラスでは学校と生徒達との情報共有を迅速におこなうために独自にメーリングリストを作って運用している。担任からの連絡や病気などで学校を休む際の連絡手段として主に利用されているが、時には悩み事や相談などあまり他人に知られたくないこともこのホットラインで直接やり取りされているらしい。  だから二組の生徒達は昨夜の出来事についてすでに周知済みだった。 「あのお花はきっと浦和先生が朝置いたものだと思う」  愛依の席と思われる机の上に置いてある花瓶を見ながら素子が言った。  教室にはまだ半分ほどの生徒しか登校していなかった。ミエはどうやらトイレに行っているらしい。  私は黙って愛依の机の上に手を置いた。  目を閉じ、手のひらに神経を集中させて、頭の中の真っ白なキャンバスに何かが描き出されるのを待った。  しかし、そこには何も浮かび上がっては来なかった。せめて授業中の愛依の様子だけでも思い浮かんでくれれば、自分にサイコメトリーの能力があることを証明することができたのだが、それも叶わなかった。  自分に失望しつつ、諦めるように目を開けると、素子とミエが真剣な顔でこちらを見ていた。 「ゆかりちゃんもショックだったよね」  どうやら私が愛依の机に手を置いていたのを哀悼の意と思い込んだみたいだ。思えばまだみんなの前で超能力を披露したことがなかったので、素子達はまだ私が超能力者だと言うことには気付いていない。  三人は無言のまま隣の教室へ移動した。  教室では紀子が自分の席で文庫本を読んでいた。 「ゆかりちゃん、おはよー」  素子の声に気付いて紀子が顔を上げた。そして微笑みながら持っていたしおりを本の間に挟んだ。 「ゆかり、隣の教室にいたんだ。バッグがあったのに姿が見えないから」  うん、と返事をしながら舞依の席を見た。  恐らく今日も彼女は来ないだろう。彼女にしてみれば学校どころではないはずだ。  今回の事件で学校側も混乱しているようで、生徒達を登校すべきか否かで教師達の間でも意見が分かれ、結局受験の控えている三年生はこれ以上授業を遅らせるわけにはいかないと通常通りに授業をおこない、一、二年生はしばらくの間登校させないことが朝の臨時職員会議で決まった。  教師達の動揺は生徒達にも伝染し、体調不良を訴えて早退する三年生が続出していた。  普段から授業に全く身の入らない私は更に輪をかけて授業とは関係ないことをずっと考えていた。  愛依が殺された舞依の無念は私達が思うそれの比ではないだろうから、ともすると今頃血眼になって犯人を捜し回っているかもしれない。  自分が持っている能力のすべてを出し切って犯人の手がかりを掴もうと必死になっているかもしれない。そして超能力を使いすぎて、気を失いそうになるくらい激しい頭痛に苛まれながらも、歯を食いしばって街中を歩き回っているかも知れない。  そんな舞依のことを思うと胸が痛くなった。  舞依の手助けができない自分の愚かさを自覚して、知らず知らずのうちにぐっと奥歯を噛みしめていた。  舞依からみんなへメールが送られてきたのは、それから数日経ってからだった。  メールの内容は愛依のお通夜と告別式の案内だった。  私達は何日か振りに制服を着てお通夜に参列した。  私達の他に学校関係者では校長先生と教頭先生、それと三年の担当教師だけが弔問に訪れた。  西那須野家の親族とごく親しい知人だけのお通夜はこじんまりとしていて、それほど大きくない斎場にも関わらず半分以上は空席になっていた。  祭壇の中央には白い菊の花に囲まれた彼女の遺影が飾られていた。舞依が撮ったものだろうか、スナップ写真を切り抜いたと思われる彼女の顔はこちらに向かって優しく微笑んでいた。  遺族席に座る舞依の背中を見つけた。背筋をピンと伸ばした西那須野夫妻とは対照的にうつむく舞依の姿は、彼女の悲しみがどれほどのものかを窺い知るには十分すぎた。  やがて焼香が始まると三人は立ち上がり、こちらを向いた。そして舞依は私達に気付くと口に手を当て、その場で泣き出した。  私達が順番に焼香を済ませると、舞依が一直線に私に抱きついた。そして肩に顔を埋めて人目も構わず声を出して泣いた。  私は黙って、わなわなと震える彼女の背中に手を置いて彼女が泣き止むのをそっと待った。  ひとしきり泣き終えると、彼女はくしゃくしゃになった顔をそっと上げ、小さな声で言った。 「愛依の顔を見ていって」  小さな窓から見える愛依の顔は死化粧のせいで生前よりも白く、紅を差した唇は今にも私達に話しかけてくるのではないかと思わせるほど鮮やかだった。  安らかに目を閉じている彼女の死に顔にどこか苦痛に歪んでいるようにも見えたのは、彼女がナイフで刺されたことを知っていたからなのだろうか。  そんな彼女の顔を見ていて、愛依と初めて会ってからの出来事がフラッシュバックした。  素子に手を引っ張られて教室に来たときのこと、ショッピングモールで不安そうに舞依を探しているときのこと、舞依を見つけて膝枕をしながら薬を飲ませていたときのこと、昼食の時素子の十分の一のスピードでサンドイッチを飲み込んでいたときのこと、『あみん』でコーヒーフロートのアイスクリームをおいしそうに食べていたときのこと、みんなとの会話に混じろうと一生懸命うなずいたり相づちを打っていたときのこと――。  愛依との思い出は舞依ほど多くなかったかもしれないが、舞依や紀子達と同じくらいに大切な友達であったことには変わりはない。いつまでも末永く友達でいたいと思っていたし、もっと彼女のことを知りたかった。  そんな彼女が無残な死を遂げ、今目の前で横たわったままもう二度と目を開けることも声を聞かせることもなく、明日になればもうその死に顔すら見ることができなくなってしまう。  そう思うと、急に悲しくなった。  目から涙があふれ出て、棺桶の中の彼女の顔の上にボロボロとこぼれ落ちた。  慌てて涙を拭おうと愛依の顔に触れたその時だった。  いきなり私の中に映像が再生された。それはさっきの回想なんてレベルとは比べものにならないくらい鮮明で、且つ私の記憶には全くない映像だった。  何なんだ、これは?  一瞬戸惑いながらも、すぐに理解できた。  ――あ、これは愛依の記憶だ。  愛依の記憶はとある孤児院から始まっていた。  なぜ彼女が孤児院にいて、彼女の本当の両親はどこにいてどんな人なのかといった記憶は一切なかったが、そのことは彼女にとってはさほど大事ではなかった。  自分の苗字が何というのかさえもはっきりとは覚えていなかった。  孤児院では友達同士を名前で呼び合っていたから、苗字など知らなくても困らなかった。  施設には十人ほどの孤児達が共同で生活をしていて、五歳だった愛依は歳の近い数人とよく遊んでいた。  まさひろ君は活発で元気な子だった。何にでもすぐに興味を持ち、どんなことでも一番でないと気が済まなかった。食事の時は誰よりも先に食べ終えて、歯磨きも着替えもさっさと済ませてしまうような子だった。そして何でも自分で決めてしまうことが多かった。自由時間に何をして遊ぶかを決めるときはみんなの意見を聞こうとはせずに自分がしたいことを強要していた。そんな彼は男子グループの中ではいつも親分風を吹かせていた。  ひろき君はそんなまさひろ君と気が合うのか、食事や勉強の時はいつも彼の隣に座り、遊ぶ時もほとんど一緒だった。  かずま君はおとなしい子で、まさひろ君やひろき君とはいつも距離を置いていた。基本的には一人でいるのが好きで、よく本を読んでいた。決してまさひろ君やひろき君が嫌いというわけではなく、もちろん声をかけられれば彼らと遊んだりもした。  みゆきちゃんは四六時中、〝ケロちゃん〟という名前のカエルのぬいぐるみを抱えていた。寝るときはもちろん食事の時でもみんなと遊んでいるときでも常に自分の側に置いていた。先生の引率でお散歩遠足をしたときにも〝ケロちゃん〟を連れて行き、先生が注意しても絶対に手放さなかった。  彼らから少し遅れて施設に入った愛依はもともと人見知りが強く、彼らとはすぐに仲良くすることができずに、いつも舞依とばかり遊んでいた。  舞依とは双子の姉妹で小さい時からいつも一緒だったはずなのに、施設に来た五歳から以前の二人に関する記憶が全くなかった。  どうして小さい時のことを思い出せないのか子供心に不思議に思ってはいたが、舞依はそんなことを全く気にする様子もなく、愛依のことを「あいちゃん」と呼んで慕ってくれていたし、愛依自身も舞依を本当の妹だと信じて疑わなかったので、それ以上気に留めることはしなかった。  二人は毎日同じベッドで手を繋いで寝ていた。就寝時はお互い自分のベッドに入るが、みんなが寝静まる頃、そっと舞依が愛依のベッドに潜り込むのがお決まりだった。  他の子達が時々両親が恋しくてしくしくと夜泣きをしているときでも二人は寂しいと思ったことがなかった。  両親の顔や自分の苗字が思い出せなくても、舞依がいればそれだけで十分だった。  ある時みんなで、みどり先生から教えてもらったばかりの神経衰弱をしているときに、舞依が一人でほとんどのカードを当ててみんなを驚かせたことがあった。  その時は神経衰弱を三回やって三回とも舞依の圧勝だった。  まさひろ君が「つまらない」と言いだし、他のみんなもぞろぞろとやめていく中、愛依だけは舞依がズバズバとペアのカードを集めていく様に憧憬の念を抱いていた。  思わず、どうしたらそんなに強いのか尋ねたところ、舞依は首を傾げながら、 「トランプをじーっと見てると、絵が浮かんでくるの」  と答えた。 「愛依ちゃんもじーっと見てたらわかるようになるよ」  そう言われた愛依は床に広げられたトランプを凝視してみた。  最初は何も思い浮かばなかったが、しばらくトランプを凝視していうるうちに次第にじわりと滲むようにマークと数字が浮かび上がってきたのがわかった。  慣れてくるとパッとカードを見ただけで何のカードかわかるようになった。  この才能は神経衰弱だけではなくババ抜きでも遺憾なく発揮された。  二人にとってはカードが丸見えの状態なのだから、絶対にジョーカーを引くことはなかった。  しかも自分がジョーカーを持っていた場合はテレポーテーションを使って相手が抜き取る瞬間にカードを入れ替えて必ずジョーカーを引かせることもできた。  やがて二人は施設の中ならばどこにいてもお互いにテレパシーを使って会話ができるようになり、ちょっとした大きさの物ならサイコキネシスで動かすこともできた。  二人は超能力を使えることがそれほど凄いことだとは思ってはいなかった。誰でもいつかは使えるようになるものだと思っていた。だから超能力を自慢気にみんなに見せびらかすようなことはせず、必要なときにこっそりと使っていた。  孤児院での生活が二年ほど続いたある日、施設に新しい男の先生がやって来た。  その若い先生はみんなからは「だいすけ先生」と呼ばれていた。  いつも元気で笑顔を絶やさないだいすけ先生はすぐにみんなから気に入られ、特に男子は大きいお兄さんが来たと大喜びで、いつも彼の後を付いて歩くほど彼を慕っていた。  だいすけ先生は時々みんなの前でギターを弾いて歌を披露してくれた。愛依もギターを弾いているときの彼を子供心に素敵だと思った。  この施設では、子供たちを連れて山へ日帰りキャンプするというイベントが年に一度の恒例行事となっていた。  施設の外に出る機会の少ない子供たちにとっては車に乗って遠くへ出掛けて非日常的な生活を体験できるキャンプはとても楽しみにしている行事の一つだった。 「キャンプに行ったら大きな川で泳ぐんだ!」 「バーベキューでメチャクチャお肉一杯食うんだ!」 「山の中で探検するんだ!」  キャンプが近付いてくるとまさひろ君達は目を輝かせながらキャンプの話題を口にしてキャンプ当日を心待ちにしていた。  そんなみんなが待ち望むキャンプが目前に迫ったある日、愛依は体調を崩してしまった。  ベッドから起き上がることもできない愛依をだいすけ先生が抱っこをして車に乗せ、病院へ連れて行った。  風邪と診断された愛依は病院で注射を打った後、施設に帰って一日中寝ていた。  病気で倒れている間中、だいすけ先生はおでこや首筋に貼った冷却シートをこまめに取り替え、水を飲ませたりゼリーを食べさせたりして甲斐甲斐しく愛依の世話をした。  寝汗をかいた身体をタオルで丁寧に拭き、こまめにシャツを取り替えたりしてくれた。  そんなだいすけ先生の介護のおかげもあってか、翌日には熱も下がりベッドから自力で起き上がれるようになるまで回復した。 「一緒にキャンプに行けるね!」  愛依への接触を禁じられていた舞依は思わず愛依にハグをした。 「また今日から一緒に寝れるね!」  ところがキャンプ当日の朝、だいすけ先生は体温計を持ったまま渋い顔をした。 「愛依ちゃん、また熱が上がってきたみたいだ。残念だけどキャンプに行くのは無理かな」  愛依自身では体調はすっかり回復していると思っていただけに、熱があると言われてもまだ信じられなかった。  前の晩からリュックに荷物を詰め込んでキャンプを楽しみにしていた舞依は愛依以上に残念がって地団駄を踏んだ。 「しようがないけど先生とお留守番してようね」  愛依の看病のためとだいすけ先生が施設に残ると言い出した。すると今度は男の子達が不満を吐き出した。 「だいすけ先生がキャンプに行かないとつまんないよ」 「愛依ちゃんもね、みんなと同じくらいキャンプに行くのをとっても楽しみにしてたんだよ。でもね風邪で行けなくなって、一番残念に思ってるのは愛依ちゃんなんだよ。わかってあげようね」  そう言って彼らを諭した。  みどり先生が看病を替わると申し出たが、愛依が「だいすけ先生がいい」と言ったので、施設には愛依とだいすけ先生が残ることになった。  みんなと楽しみにしていたキャンプに行けなくなった愛依は仕方なくベッドの中で時間を潰すことにした。  いくら寝てもいくら本を読んでもなかなか時間は進まず、ひっそりと静かな部屋の中で愛依は暇を持て余していた。  風邪で熱が出ていた時はそれほどの気力がなかったので布団の中でじっとしているしかなかったのだが、今は気持ちも身体も比較的元気なので布団の中にいることが退屈で仕方がなかった。  お昼ご飯を食べてからまたベッドでゴロゴロしていると、だいすけ先生が声をかけた。 「愛依ちゃん、これから病院へ行くよ」  ベッドの中でじっとしていることに飽き飽きしていた愛依にはたとえ病院でも暇潰しには格好だった。  いそいそとパジャマから洋服に着替えるとだいすけ先生が運転する車に乗り込んだ。 「せっかくだからドライブでもしようか。みんながキャンプに行ってるのに愛依ちゃんだけお留守番じゃつまらないものね」  だいすけ先生の粋な計らいが愛依には嬉しく、車窓を流れるありきたりの景色を眺めているだけでも十分楽しかった。  運転中のだいすけ先生はなぜかしきりに携帯電話をいじっていた。みどり先生達と連絡を取り合っているのかと何となく思った。  気が付くと車は次第に市街を抜け、住宅もまばらになっていった。  病院ってこんな遠かったのか、と思いながらも黙って窓の外を見ていると、やがて車は病院とはほど遠い古びた建物の前で止まった。 「先生、病院には行かないの?」  愛依が尋ねるとだいすけ先生は、 「うん。ちょっと寄り道していこうか」  と言って車を降りた。  愛依も続いて車を降りると、そこにはもう一台別の車が停まっているのが見えた。  その車の中から二人の男性が出てきた。  一人はだいすけ先生よりも髪が短く、もう一人はメガネをかけていた  知らない大人を前に尻込みをする愛依の手を握ると、だいすけ先生は倉庫の中へ入って行った。  倉庫の中は薄暗く、埃っぽい空気が鼻を突いた。  痕から入ってきた二人が入り口の扉を閉めると中は更に暗くなった。一瞬誰がどこにいるのかわからなくなった。 「先生、怖い」  思わずだいすけ先生の手をぎゅっと握った。 「大丈夫だよ。先生が付いてるから何も怖がることはないよ」  いつもと変わらない大輔先生の声に、うん、と小さく答えた。それでもやはり恐怖心は消えることはなく、何とも言いようのない胸騒ぎを覚えた。  急にスポットライトのような明かりが愛依を照らした。突然の眩しい光に愛依は目を細めながら顔をそむけた。 「愛依ちゃん、大丈夫だよ。怖がらなくていいからね」  だいすけ先生が優しく言った。 「僕達はみんな愛依ちゃんのことが好きなんだ」  スポーツ刈りの男が愛依の身体に触れた。  何が起きているのかすぐには状況を理解できずにいると、だいすけ先生の手が愛依の身体に触れ、そっと撫で回した。  その感触は、風邪で寝ていたときに身体を拭いてくれたときや着替えを手伝ってくれたときとは何となく違っていた。何がどう違うかは説明できないが、とにかく違っていた。  愛依の耳許にふぅっと息がかかった。愛依はビクッと身体を震わせ身を縮ませた。 「怖い」 「大丈夫だよ」  だいすけ先生は小さく静かに囁いた。彼の顔には笑顔はなかった。明らかにさっきまでとは表情も態度も一変しているのがわかった。 「お洋服も可愛いね。愛依ちゃんは何を着ても似合うよ」  だいすけ先生の手が愛依の首に触れた。その手は肩から背中、そして胸へと滑らせていった。  何本もの手が愛依の身体を撫で回して、誰がどこを触っているのかわからなくなった。 「可愛いお洋服が汚れたら大変だから、脱いじゃおうか」  愛依にはもうその言葉がだいすけ先生なのか別の男性なのかすら聞き分けることができなかった。  大きな大人の手が愛依の服に手をかけた。愛依はおびえながら身体を震わせ、声を上げようにも声が出なかった。 「ちょっと寒いけど、すぐに温めてあげるからね」  愛依は逃げ出したかった。が、足がすくんで一歩も動けなかった。服が一枚ずつ剥がされていく中、どうすることもできない愛依の目からはポロポロと涙がこぼれた。 「どうして泣いてるの? これから先生と楽しいことが始まるんだよ」  そう言ってだいすけ先生は頬の涙を指で拭った。  愛依もどうして自分は泣いているのかわからなかった。風邪を引いた愛依を一生懸命看病してくれた優しいだいすけ先生が今はとてつもなく怖い人に思えた。  下着も脱がされ、素っ裸にされた愛依はブルッと身震いをした。 「先生、おしっこ……」 「いいよ。先生がやりやすいように抱っこしてあげるね」  だいすけ先生は愛依の両脚を抱きかかえるようにして持ち上げた。 「さあ、我慢しなくていいからね」  両脚を抱えられたままの格好はちょっと不安定だったが、尿意を我慢することができずにその場に放尿した。 「よくできたね。お兄さんがきれいきれいしてあげるよ」  まだ濡れている股間を生暖かい舌がべろりと舐めた。 「やだ……」  何が何だかわからない愛依でも彼の行為が尋常でないことだけはわかった。 「やめて……」  愛依の秘部をなぶるように這う舌の感触が気持ち悪かった。ぞわぞわと背筋に悪寒が走り、鳥肌が立った。 「もうやめて!」  愛依は思わず叫んだ。  すると愛依の身体を持ち上げていた手が抜け、彼女はその場に尻餅を突いた。  何が起きたのかわからなかった。  目の前にいたはずの男も、愛依を抱えていたはずのだいすけ先生もいなくなっていた。遠巻きでビデオカメラをいじっていたメガネ男の姿も見えなかった。 「先生?」  恐る恐る声を出した。が、倉庫内はしんと静まり返ったまま、人の気配すら感じなかった。  慌てて側に転がっていた服を拾い上げ、とりあえず身に付けると手探りで出口を探した。  引き戸の隙間からわずかに差し込む光を頼りに扉までたどり着いたものの、重く固い扉は愛依の力では到底開けることはできなかった。 「誰か! 開けて!」  小さな拳で扉を叩きながら何度も叫んだ。しかしいつまで経っても誰も来なかった。  さっきまで窓から差し込んでいた日差しもなくなり、倉庫の中は真っ暗になっていた。暗闇に慣れた目でも数メートル先を見通すことはできなかった。  もう愛依にはその場にうずくまって誰かが来てくれるのを待つしか手段はなかった。  真っ暗闇の中で自分が目を開けているのか閉じているのかもよくわからなくなっていた。  ひんやりとした空気にキュッと身を縮こませた。  さみしさを紛らわせるために、みんなのことを考えた。 「キャンプ楽しかったのかな……みんなに会いたいな……舞依は楽しんでいるのかな……」  急に睡魔が愛依を襲った。次第に身体の力が抜けていく中で、いつも寝るときに握る舞依の手の感触を思い出していた。 「舞依に会いたい……」  閉じた瞼の向こう側にうっすらと明かりを感じた。その明かりは一定の間隔で点滅を繰り返していた。  頭の下に人肌ほどの温もりを感じて、自分が誰かの膝枕で寝ていたことに気付いた。  肩にそっと乗っかった手を握った。とても柔らかくスベスベとしていた。 「起きた?」  覗き込む素子の顔が私の目の前に現れた。  自分が今どんな状況に置かれているのか理解できずに思考を停止したまま素子の顔を見つめた。 「大丈夫?」  話しかける彼女の顔を見ながら、少しずつ意識がはっきりしていく中で現状把握に努めようと怠け者の脳みそを働かせた。  微かに伝わる振動から、ここは恐らく素子の車の中だ。  確か愛依のお通夜に参列していて、お焼香を挙げて、愛依に最後の挨拶をして……。  私の記憶はそこで止まっていた。それから一体何があったのだ? 「素子」  私は車の天井を見つめながら言った。 「何?」 「私、どうしてこんなところで寝てるの?」 「ゆかりちゃん、愛依ちゃんのお顔を触った瞬間に気絶しちゃったんだよ」  自分の記憶が途切れたところと符合する。 「今ゆかりちゃんの家まで送る途中だよ」 「ごめん。ありがとう」 「ううん。でも、みんなも私もびっくりしちゃったよ」  そういうことか。  私が気絶しながら見ていたのは間違いなく愛依の記憶だったのだ。  ということは、私が見た夢というのはひょっとして彼女の記憶だったのだろうか。  夢に出てきた写真がサイコメトリーで見た三人の顔で、ナイフで刺された自分が愛依自身だったとれば、すべてが繋がる。  嫌な胸騒ぎが私を襲った。  つまり愛依を殺した奴は――。  私は思わず起き上がった。そしてもう一度冷静に自分の推理を整理してみた。  見覚えがあると思ったあの後ろ姿とスーツ。あの声、あの雰囲気。どう考えても他人の空似とは思えない。  私は一刻も早く確かめるために、できればこのまま警察へ直行したかった。が、万が一私の推理が外れたら、という不安も頭の片隅をよぎった。そのことが私の決断を鈍らせていた。  それに、送ってもらっている身で身勝手な行動は慎まなければいけない。  私にサイコメトリーの才能があると決まったわけではない。単なる偶然や思い違いかもしれない。  何よりも彼が愛依を殺す動機がわからない。  まだ私の中で彼が犯人だとは思いたくないという気持ちも心のどこかにあったことも確かだった。  自分が出した答えが合っているかもしれないという畏れに似た気持ちと、できることなら合っていないで欲しいと思う気持ちとが私の中でぐるぐるとかき混ざって気持ち悪くなってきた。 「ゆかりちゃん大丈夫? 顔色悪いよ」  素子が心配そうに顔を近づけた。 「車の中で横になってたから酔っちゃった?」 「うん。ちょっと酔っちゃったかも」  私はその場を取り繕うためにとっさに嘘をついた。 「あと十分ほどでご自宅に着きますが、一度車を停めましょうか?」  運転席からSPが声をかけた。 「いえ、大丈夫です。こちらこそ遠回りさせてしまってすいません」  私は申し訳ない気持ちを素直に言葉に込めた。  改めてもう一度考えてみるためにも一旦冷静になろうと思った。  マンションの前で車を降りた私は素子とSPに深々と頭を下げて礼を言い、車が見えなくなるまでその場で見送った。  エントランスに入る手前でふと夜空を見上げた。  真っ黒な空に浮かぶいくつもの星を見ながら、こんなにたくさんの星を見たのは久し振りだった。  頬に当たる空気に、愛依が倉庫に閉じ込められてそのままうたた寝をしたときのひんやりとした感覚を思い出した。 (つづく)
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