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もうさっさと立ち去ってしまいたかったが、自己紹介してしまっただけに、立ち去るタイミングを見失ってしまった。私は話題を探した。
「あのですね」と私は言った。「カブトムシ荘の両隣の別荘なんですが、あそこは、今はどなたかおられるんですか? どうもひと気がないみたいなんですが」
「さあ。ひと気がないのなら、おられないんでしょう。どうしてそれを聞くんです?」
「いや、別にどうしてってこともないんですが」
言ってから、これではますます留守宅を確かめる別荘荒らしみたいに見えることに気づいた。
「あの、失礼しました。それじゃ、どうも」
言って、私は男に背を向けて歩き出した。どうにも気まずい空気が、このままでは増幅するばかりだ。逃げるようだが仕方がない。私は早足で前だけ見つめて歩いたが、振り向かなくても、彼がじっと立ったままこちらを見続けているのが感じられた。私は不自然なまでにまっすぐ前だけ見つめて、彼の視界の外まで歩き続けた。
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