好きだと甘く囁いて

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好きだと甘く囁いて

 風にあおられて真っ赤なスカートがふわりとふくらんだ。  それを手で押さえて女性は恥ずかしそうに顔を赤らめた。  窓からその様子を見ながら、私、緑川(みどりかわ)玲美(れみ)は紅茶に入れたミルクをスプーンでかき混ぜた。  真っ赤なスカートは女性によく似合っていた。赤は女性を美しく見せてくれる色だと聞いたことがある。  ミルクに続いて砂糖をたっぷりと入れれば、私の好きなミルクティーの完成だ。  いつの頃から、甘い飲み物しか受け付けなくなった。  赤色もふんわりとしたスカートも、今の自分にはすっかり縁がなくなってしまった。  懐かしくもあり羨ましくもある複雑な気持ちをまぎらわすように、私は砂糖をシュガーポットから取ってスプーンに乗せた。 「お待たせー、玲美。うわっ、出たその糖尿病まっしぐらティー。よく飲めるね、それ」  私が砂糖を大量に入れているところを目撃して、友人の佐和子は顔をしかめながら隣に座った。 「その悪趣味なネーミングやめてくれる?」 「だって本当のことじゃない。私、心配してるのよ。玲美には長生きしてほしいのよ。縁側でばーさんになって一緒に茶飲みながらミカン食べるの」  会うのは一月ぶりだが相変わらずの佐和子に私の心は軽くなった。いつも重たくなった気持ちを一掃してくれる。佐和子は学生時代からそんな友人だった。 「仕事の方は順調?在宅なんて営業の私からしたら想像がつかないわ」  私とは対照的にブラックコーヒーを水のようにガブガブと飲みながら佐和子は疲れた顔を見せた。 「収入はそんなによくはないけど時間に拘束されないから、私には合ってるかな。佐和子は表彰されたんでしょう。すごいじゃない」 「たまたま大口のお得意様から注文が重なったのよ。それからはさっぱりよ、医療機器なんてそう売れるもんじゃないわ」  カフェの中は人もまばらだったので、奥の席に座っている女子高生二人組の笑い声がよく響いてきた。  誰が好きとか、告白されたとかそんな話をしている。かつて、佐和子ともそんな会話をして盛り上がった時があった。  今ではすっかり会話の内容も変わってしまったと私は月日の流れを感じた。 「そういえば、この前お医者さんと飲んだんでしょう。どうだったの?」 「あー、あれはずれ。歌上手くて酒強いって、遊び人としか思えないからパス。向こうも不規則だし私には合わないわ」  学生時代剣道部で、硬派な女剣士として女子から圧倒的な人気だった佐和子だが、大学に入るともともとの美人に磨きがかかり、それ以来彼氏が途絶えたことはなかった。  しかし、ここ一年は仕事が忙しいらしく、浮いた話は聞かない。 「それより玲美でしょう。今の生活で男と話すことあるの?」 「あるよ。父親」 「それ、男に入らないから……」 「今日もこれから会うのよ。私の結婚ブームを諦めたら、今度は妹に熱を上げてるみたいでその相談がしたいんだって」  今年28歳になる私には妹がいる。名前は瑠美(るみ)といって、大学を出たばかりの23歳。まだ結婚には早いと思うのだが、火がついてしまった父を消火させるのは母でも難しい。母もすでに諦めていて、止めてくれる人はいない。 「妹の心配する前に自分でしょう。良さそうな男紹介するよ。性格がいいやつなら2、3人は……」 「佐和子、私、もうそういのいいよ……」 「……なんで玲美が立ち止まってるのよ。あいつは前に進んでいるのに……悔しい」  自分のことのように怒ってくれる佐和子にどれだけ救われたか分からない。私にはそれで十分だった。 「大丈夫よ。私、ちゃんと前に進んでるわ。ただ、隣に彼がいないだけ」 「………玲美」  上手く笑えたか分からないが、私の下手くそな笑顔を見ても佐和子は何も言わない。  陽の当たる道ではないが、暗闇ではない。薄暗い道を歩くのが今の私にはちょうど良かった。  来月飲みに行く約束をして佐和子と別れた。父は待ち合わせ場所に珍しくホテルのラウンジを指定してきた。  すでに60は過ぎているが、父は小さな警備会社をやっている。得意先との会食でホテルを利用することがあるので、そのついでだと思われた。 「玲美、こっちだ」  ホテルのロビーに入ると、すぐに父が手を上げてこちらだと呼んできた。  場所が場所だからか、いつもの作業服ではなくタンスから引っ張り出したようなスーツを着込んでいた。 「……またそんな、男のような格好をして…黒と灰色の服なんてまるで泥棒じゃないか……、せっかく母さんに似て生まれたのに……もっと色気のある格好をしろ」 「大きなお世話よ。別に見せる相手もいないし、いいでしょう」  今日は黒いトレーナーにグレーのパンツ、黒のニット帽に黒縁眼鏡だった。確かに泥棒だわとよく磨かれたガラスに映った自分を見ておかしくなって笑ってしまった。  母は昔、舞台で活躍する女優だった。父との結婚を機に引退したが、今でも年を重ねた美しさを保っている。そして、私も妹も母に良く似ている。私の方が少し背が高いが、妹が成長するとよく双子だと間違われたものだった。  といってもそれは昔の話で、今は月とスッポンくらいの違いがある。 「それで、瑠美はその気になったの?モデルの仕事も順調なんだから、急がせないで仕事に専念させてあげればいいのに……」  瑠美は高校生の頃からモデルデビューして、今は雑誌の専属モデルとして働いている。書店を覗くと瑠美の表紙を見つけることができるくらい、仕事は順調なようだった。 「今回は特別なんだ。先方からぜひにと声がかかったんだ。鷹城(たかしろ)グループだぞ、そこの御曹司だ。雑誌に出ている瑠美を気に入ってお見合いを申し込んできたんだ。こんなチャンス滅多にない!もちろん即答でお願いしますと言ったんだよ」 「すごいじゃない!そんな大物から見初められるなんて」  鷹城グループは日本最大の製薬会社、鷹城製薬を親会社として、医薬品、医療機器に限らず、病院経営や介護の面でも名を馳せるグループ企業である。  そこの御曹司となれば、玉の輿もいいところだろう。  結婚は早いと渋っている瑠美でも、その名前を聞いたらその気になる可能性は高いだろうと思った。 「鷹城(たかしろ)賢吾(けんご)さん、今年30歳。その結婚が今最も注目される男と言っても過言ではないだろう」  そう言って父は雑誌のインタビューと思われるページを開いて机の上に置いた。  見開きに写真がでかでかと載っている。艶の良い黒髪を後ろに流して、高い鼻梁と形の良い唇、切れ長の目が印象的な美丈夫だった。育ちの良さと溢れる自信が全身から出ているように見えた。 「ふーん、素敵な方じゃない。7歳差ならちょうどいいんじゃない?うちを選んだってことは、あまり家柄とかこだわらないのかな」 「そうだ。お父様の鷹城社長もそういう方針らしくてな。名家の令嬢であるとかそういう必要はないらしい。その点、瑠美も気を使う必要がないと思ってな。まさに良縁だよ………」  興奮ぎみに話す父を見ながら、私はグラスに注がれた水をごくりと飲んだ。瑠美が結婚して子供ができれば、ついに伯母さんになるのかとそんなところまで想像してしまった。 「それで、だ。玲美には協力を頼む!お願いだ!」 「は?なに?」  すっかり心が違う世界に行っていたので、父の話を聞いていなかった。なんのことかと聞き返したが、父は悲壮な顔をしながら、またお願いだと言った。 「なによ…、私になにをお願いするつもりなの?」 「今日だけ……今日だけでいいんだ。瑠美になってくれ……」  生まれて初めて父に頭を下げられた。その頭は記憶にある父のふさふさとした髪ではなく、ずいぶんと白く薄くなってしまった。  それを見たら私は言葉が出てこなかった。  □□  あの日、真っ赤なワンピースを着て私は家を出た。  その頃は人並みに可愛いものやキラキラするものが好きで、シルバーのラメが入ったパンプスを履いて、浮き立つ心を抑えながら街を歩いていた。  待ち合わせより二時間も早く着いてしまった。それでも彼に早く着飾った姿を見てもらいたかった。  だから待つ時間も好きだった。  こんなに着飾ったのは久しぶりで、彼の驚く顔が目に浮かんだ。今日は彼の誕生日だった。  早起きしてシチューを作って、ケーキにシャンパンとプレゼントも用意した。  もう三度目の誕生日であるが、いつだって新鮮な気持ちで祝ってあげたかった。  仕事帰りだから、軽く外で食べてからお前の家に行こうよと言われていた。  明るい色は好きだったが、中でも赤い色は私のお気に入りだった。いつも大事な時は赤い色を着て気分を高めていた。  そのとき強い風が吹いて、ワンピースの裾がふわりとふくらんだ。  慌てて立ち止まって手を添えて捲れないようにした私は顔を上げたとき、道の反対側を歩く彼の姿を見つけた。  手を上げて声をかけようとしたが、その隣に親密そうに並んでいる人を見つけて、手を上げたまま止まってしまった。  見覚えのある女性だった。  会社の同僚だと紹介されたことがある女性だった。  なぜ彼女と一緒に、というのがやっと浮かんできた疑問だった。  目の前に止まったタクシーの運転手に、乗らないの?と声をかけられて私はやっと我に返った。  彼らが消えていった方向に、ホテル街があることは考えたくなくて記憶から抹消した。  あれは仕事、仕事なのだと、私の心はそう思い込もうとしたのだった。  □□  ホテルに併設されたサロンで、私は頭の上から爪先まで磨かれていた。  父は妹の載っている雑誌を持ち込んで、この子にしてくれとうるさく注文した。  最初は無茶を言う客だと冷めた目で見ていたスタッフさん達も手を加えるごとに瑠美になっていく私に、プロ魂に火がついたらしい。いつの間にか4人がかりで、完璧に仕上げるために磨きあげられた。  おかげでくたくたになったが、鏡の中には久しぶりに瑠美にそっくりな自分の姿があった。 「これで完璧だ。とにかく今日を乗りきれば……」  鏡越しに父が独り言を呟いていて、私はここまでを思い出しながら、父を見てため息をついたのだった。 「男と旅行って……!どういうことよ!」  驚いて大きな声を出してしまった私に、父は指を立てて静かにと恐い顔をした。  父が言うには瑠美は鷹城氏との結婚には賛成らしい。玉の輿に乗れると飛び上がって喜んでいたそうだ。  しかし、瑠美は告白されるとすぐ付き合ってしまうくせがあって、そのときも三人の彼氏がいた。  円満に別れるには大変だとこぼした瑠美は、それぞれに別れを切り出した。  しかし結局、一人の男と別れられずにズルズル続いてしまい、最後だからと頼まれてお別れ旅行に行くことにしたのだ。  しかも、仕事のオフをいいことに三週間もハワイに。なぜ楽園に行くのかがもう私にはわけが分からない。  旅行に出かける直前になって、鷹城氏からすぐにでも顔合わせしたいとの要望があった。  キャンセルしろと父に叱られたが瑠美はせっかくチケットを取ったのだから嫌だと言って拒否をした。  そういうところがまだ子供なのだが、瑠美は旅行を強行して、顔合わせはお姉ちゃんに頼んでと言い残して飛行機に乗り込んで飛び立っていった。  末っ子ということもあって、ワガママに育ててしまったからと父は頭をかいた。  仕方なく父が考えたトンデモ案は、双子と間違えられることもあった玲美にお見合いをしてもらい、次のデートを一ヶ月後に設定する。忙しい鷹城のことだから、ちょうどいい間隔だろうと考えたらしい。次回のデートに瑠美を持ってきて、これで万事元通りに進んでくれる、という苦肉の策だった。 「とにかく、今日は印象を悪くさせないように、和やかに話してくれさえすればいいから…。着物だとメイクも印象も違うだろう。多少違ってもごまかせるさ」  瑠美になるために、黒髪は茶色く染められてパーマまでかけられた。  そのまま着物に着付けられて、やっと支度は完成した。 「……すまないな、玲美」  父もいつも強引な人であるが、瑠美はその上を行く我が道を歩くタイプだ。心労からかひとまわり小さくなったように見える父に私は笑いかけた。 「もう、いいよ。在宅ワークで、外見が変わっても騒がれることもないし、さっ今日を上手く乗りきろう!」  そう明るく父に言って私は鏡を見た。鏡の中には、艶やかな着物姿の瑠美が映っている。紙面でしか知らない鷹城氏なら違和感は持たないはずだ。  あなたには、失うものなどなにもないじゃない、妹の偽物がお似合いよ。  鏡の中の自分がそう言って微笑んだ気がした。  □□  約束の時間ぴったりに鷹城賢吾は現れた。  ホテルの最上階、日本料理の名店の見事な日本庭園が望める部屋に父と二人、ガチガチに緊張しながら座っていた。 「すみません、お待たせしてしまいましたか?」  急いできたらしいが、汗ひとつかいていない賢吾は、清涼感ある笑顔で部屋に入ってきた。 「いえいえ、私達も来たばかりですので、お気遣いなく」  父が営業のスマイルを作って、すくっと立ち上がったので、それに続いて私も立ち上がって礼をした。 「今日はお越しいただきありがとうございます。急にお願いしてしまい、ご都合も考えず申し訳ございませんでした」 「そんな…、こちらこそお話をいただいてからずいぶんとお待たせしてしまい申し訳ございません」 「ここは祖父の時代からの行きつけなんです。味は保証しますから、どうぞたくさん召し上がってください」  賢吾の合図でテーブルの上に懐石料理が並べられた。色とりどりで、季節を意識した料理はどれも手が込んでいて、高級感があった。  賢吾はさすがいいところのお坊っちゃまだ。所作ひとつ取ってもそつがなく、美しく洗練された動きをしていた。  座席に座る姿でさえ優雅に見えたし、もちろん食事の食べ方は、こちらが恐縮してしまうくらいお手本のように美しかった。  私は食事をなんとか口に運んだ。どれも小皿に少量で可愛らしく乗せられていて、飲み込みやすくて助かった。 「瑠美さん、お口に合いませんでしたか?」 「え?」 「あまり、箸が進んでいないようですから……」  賢吾に指摘されて私はしまったと思った。上手く食べていると思っていたが、どうやら顔に出ていたらしい。 「いやぁ、すみません。瑠美は仕事がらあまり多く食べないようにセーブしているもんでね。胃が小さくなっているんですよ。はははっ」  見かねた父が助け船をだしてくれた。そうですかと、賢吾は少し残念そうな顔をした。  これが美味しいですとでも言った方がいいのか、私は料理を見つめながら考えていた。しかし、どう美味しいかと聞かれたらどうすればいいのか分からなくなりそうだった。  こんなに豪華な料理なのに、不甲斐ない自分が悲しくなって、口の中に残ったものを水を飲んで一緒に飲み込んだ。 「お仕事は順調みたいですね。この時期から春夏のコレクションを撮影するとか……。これから寒くなるのに大変ですね」  急に話を向けられて私は慌てて顔を上げた。よく見たら助けてくれていた父が席を立って消えていた。  後は若い二人にということらしい。  余計に緊張が高まってきて、上手く言葉が出なかった。 「……仕事、ですから」  色々考えたが、無難な答えになってしまった。少し冷たかったかもしれないと、口に出してからすぐ後悔し始めた。 「母が舞台女優をしていたので、華やかな世界に身を置くことが私の夢だったんです。モデルはまだ足がかりで、これからテレビや映画の仕事もしたいと思っているんです」  いつだったか瑠美の語っていた夢を話してみた。次に繋げるために少しでも良い印象をもってもらわないといけないのだ。 「お母様の絹子さんですね。実は父が昔ファンだったらしく、偶然なのですがこの話をしたときは驚いて喜んでいました。¨郷愁¨は初日から最終公演まで通いつめたそうですよ」 「えっ…本当ですか!あれは母の隠れた代表作で…、当時はあまり人気がでませんでしたが、私も映像で残っているものを何度も見ています」  子供の頃、美しい母が自慢だった。同時に女優をしていた頃の話を聞くのが好きで、母のように舞台に立ちたいと夢見たこともあった。 「うちの父と話が合いそうですね。私もぜひ、見てみたいです」 「いいですよ。良かったらうちにDVDに焼いたものがあるのでぜひ遊びに………」  口に出してからしまったと思った。これでは軽々しく家に誘う女になってしまうと思ったのだ。焦って青くなった私を見て賢吾は軽く吹き出してクスクスと笑った。 「ふふっ…すみません、ではお言葉に甘えて遊びに行っていいですか。楽しみにしています」  私のぼやけた失態にも、賢吾は優しい顔で笑ってくれた。  心臓がトクンと音を鳴らしたのが分かった。それは久しく忘れていた痛みによく似ていた。  初回のお食事会は和やかに終わった。始終賢吾が話を振ってくれたり、自分の話をしてくれて会話は実にスムーズに進んだ。  ふと思ったのは、御曹司でありながら、こんなに人が良くて気の使える人物がなぜお見合いまでして瑠美と付き合おうとしているのかということだった。  一目惚れというやつかもしれないが、そういった話は出てこなかった。  家柄にこだわらず、好きに相手が選べるのなら、すでに結婚していてもよさそうな人物である。  駆け出しモデルの瑠美と結婚することが会社のプラスになるとも思えない。  そこまで考えて私はやめた。ここからは瑠美と賢吾が二人で作っていく関係になる。部外者は詮索してはいけないのだ。 「それでは次は三日後、ご自宅に迎えに行きます」 「はい。………ええ!?三日後ですか!?」 「あれ?お父様から今はオフで仕事が一月空いているとお聞きしましたが、なにかご予定でも?」  素直に答えて墓穴掘った父にどうしてくれるかと言いたがったが、乗ってしまった船から下りるわけにもいかず、私は大丈夫ですと言うしかなかった。  そのまま仕事に行くという賢吾を笑顔で送って私は倒れるように椅子に腰を下ろした。  なんとか、上手くごまかせたと思ったが、また瑠美にならなくてはいけなくなってしまった。  私は途方に暮れながら窓に映る自分の姿を眺めた。青白く力のない顔がひどく滑稽に思えて悲しくなったのだった。  □□  あの日、待ち合わせ時間に彼は少し遅れてきた。  悪い、仕事が忙しくて遅れたわ。  彼はそう言っていた。  さっき見かけたけど、という言葉が喉まで出かかったが、今日が彼の誕生日であることを思い出してそれを飲み込んだ。  彼は全くいつもと変わらなかった。  私の用意した食事を淡々と食べてシャンパンを飲んでケーキを食べた。  そして、いつも通り私を愛した。  だから、あれは見間違いだと思うことにした。  なぜなら、そのときすでに結婚が決まっていて、挙式は一ヶ月後の予定だった。  あと少しでブーケに手が届く位置にいて、全て消えてしまいそうで口に出すことが恐かった。  私は眠る彼の横で自分に言い聞かせながら目を閉じた。  眠れない夜はそこから始まった。  赤いワンピースのことは、何も言ってくれなかった。  思えばその頃には、彼はもう私を見ていなかったのかもしれない。  □□  三日後、実家暮らしの瑠美のために、私は実家に帰っていた。 「本当にバカよね。身代わりなんてするからこういうことになるのよ。素直に一月海外旅行だって言えば良かったのに」  フライパンを器用に動かしながら、母は呆れた顔をして父と私に言い放った。 「でもね、向こうをずいぶんお待たせしていて、もう先延ばしに出来なかったんだよ」 「待たせておけばいいのよ男なんて。それが出来ないなら付き合う資格はないわ」  さすが、元伝説の女優だけあって言うことがトガっていた。とても母の真似はできない。 「……それより、玲美。ちゃんと食事は取れているの?」 「やだ……母さん。もう、何年経っていると思っているの?もう、大丈夫よ」  私が安心させるように笑っても、母にはお見通しらしい。  うちにいる間は料理は私が作るから後片付けはよろしくねと言われてしまった。 「何度かデートをして見極めたいんじゃない?進めていいかどうか。だいたい雑誌を見て一目惚れ?そこから結婚まで考えるってのが理解できないな」  瑠美の仕事を悪く言うつもりはないが、瑠美の出ている雑誌は一般的な女性誌とは違い、いわゆる若い女の子でちょっとチャラい層に向けたものだ、毎回セックス特集が組まれて、様々なテクニックについて隠すことなく載せられている。  表紙の瑠美の横に、イクときなんて言うの?という赤文字のタイトルがつけられているのを見たときは、手に取った雑誌を落としそうになったくらいだ。  御曹司が暮らす世界に間違っても落ちているような雑誌ではない。  休憩室にでも置いてあったら、どんな会社だとびっくりするだろう。  それにいくら家柄は関係ないと言っても、身辺調査くらいはするだろう。  瑠美が複数の男性と付き合っていることも把握していたはずだ。  あの爽やかな外見からは、なにを考えているのか全く読めない。  早々にデートに誘われたのは困ったが、ここは姉として賢吾がなにを考えているのか探る必要があると感じた。  □□  秋も過ぎるころの海風は冷たくて、潮のにおいはあまりしなかった。  何組かのカップルとすれ違ったが、皆肩を寄せ合って親密そうな雰囲気だった。  一方、今日の賢吾は前回同様スマートではあるが、どこかよそよそしく、二人の間には常に一人分くらいの距離が空いていた。  海の見えるレストランで昼食を食べて、散歩コースを歩くという定番のデートコースだが、賢吾は常に先を歩いていて、私は彼の背中ばかり見ていた。 「……なにかあったのですか?」 「え?」  考えごとでもしていたのか、私に話しかけられてびっくりしたような顔をして、賢吾はこちらを振り返った。 「体調が悪いとか……?無理をしなくても大丈夫ですけど」 「あっ……、いえ、失礼しました。自分から誘っておいて……、考えごとばかりですみません」  優秀そうではあるが、もしかしたら、仕事でミスでもしたのかもしれない。かつて会社員だったころ、休日前に怒鳴られてしょんぼりした土日を過ごしたことを思い出した。 「よし、賢吾さん………、足だけ入りますか!」 「ええっ!?」  私の言葉に賢吾は驚いて海を見た。波は静かで穏やかであるが、当たり前だがこんな時期に海に入ったら風邪をひいてしまうだろう。  なにを言い出すのかとびっくりした顔の賢吾は、いつもの完璧な表情がくずれていて少し幼く見えた。  それが、嬉しくて私は自然と笑っていた。もう記憶にないくらい久しぶりに、心から笑った気がした。 「驚いた……。こんなところがあるんですね」  この海周辺は温泉地でもあり、駅前に観光用に無料で入れる足湯が設置されていた。  足湯は初めてだという賢吾は、興味深そうに足を入れてお湯に触っていた。 「大学生の頃、友人と女二人で温泉旅と称して、近県を車でまわったんです。その時にここも立ち寄って……、足だけと侮るなかれ、じんわり温まってきませんか?」 「本当ですね。体がぽかぽかしてきました。温泉といえば大浴場のイメージでしたけど、こんな楽しみ方もあるんですね」  懐かしいなとこぼした私に、まだ卒業したばかりでしょうと言って賢吾は笑った。  すっかり素の自分に戻っていて私は慌ててしまった。確かに瑠美にとって大学生時代はまだ懐かしいうちに入らないだろう。 「……賢吾さんは、どうして私に会おうと思ったんですか?あ…、雑誌で見て気に入ってくれたと聞きましたけど……」  少し距離が近づいたように感じたので、思いきってここで切り出してみることにした。 「………瑠美さんには失礼な話になると思いますが……、いいですか?」  この質問は聞かれると思っていたのだろう。なぜか、思い詰めたような表情をしている賢吾を不思議に思いながら私は頷いた。 「ここ何年か父から早く結婚をするように迫られていたんです。父は最初の結婚が二十歳のときですから、口を開けば遅い遅いと言われてうんざりしていたんです。正直、仕事に専念したかったし、結婚と離婚を繰り返す父を見ていて、結婚に対して良いイメージはなくて……、一生独身でもいいかなとさえ思っていました」  どこか遠くを見るように賢吾は話していた。その真剣な表情に私は釘付けになって、目をそらすことができずに、その横顔を見つめていた。 「あるとき、夜中に勝手に寝室に女性を送り込まれて、次の日道端で父と大喧嘩したんです。その時に書店にあった雑誌に目が止まり、誰でもいいなら、この子なら結婚してもいいと言ったんです…」 「それって……」 「そうです。瑠美さんが表紙の雑誌で、父が嫌がりそうな……言葉が書かれていました。てっきりだったらいいと言うかと思っていましたが、表紙の瑠美さんを見て、父は目を輝かせてしまって……、そこからトントン拍子に話が進んでしまったんです」 「なるほど……」  賢吾の口から一目惚れという話が出てこなかったことや、ちょっと遊んでいる雑誌のモデルを選んだという点についてやっと納得できた。 「では、賢吾さんはこの話には乗り気ではなく、お父様の手前、デートはしても、なにか断れるような材料を探している……ということですか?」 「ちょっと待ってください!そういうわけではないんです!私は……、瑠美さんにお会いして、本当はその場で断るつもりでした。しかし……、楽しかったんです」 「え?」 「実際お会いした瑠美さんは、落ち着いていて、とてもしっかりした方で……、それでいて……すごく可愛いと感じてしまって……その……、また会いたくなってしまった……ということです」  賢吾の口から信じられないような言葉を聞いてしまい、私の顔は真っ赤になってしまった。まさか、駅前の足湯で熱烈な台詞をくらうことになるとは、とんだ不意討ちだった。  心がぐらぐらと揺れているのが分かった。そして私も思ってしまった。必死に言葉を探して真剣に話す賢吾が、とても可愛い人だと。 「本当に自分勝手で失礼なことを言っているのは承知しています。それでも……、どうかまた……会っていただけませんか?」  断る材料など、瑠美の男関係を調べれば簡単に出てくるはずだ。  賢吾はそれでもいいと、それでも瑠美と付き合いたいと真剣な気持ちを向けてきてくれた。  私は、はいと言って頷いた。  張り詰めていたいたような賢吾の顔にほんのりと赤みがさして、ふわりと柔らかい表情に変わった。  その優しい微笑みに心は掴まれてしまい動けなくなった。  ずっと見ていたい、そう思ってしまった。  □□  新郎と連絡がつかない。  控え室の椅子に座って、すでにウェディングドレスを身につけていた私は呆然として倒れそうになった。  会場はすでに招待客でいっぱいになっていて、向こうのご両親も慌てて走り回っていた。  本当はずっと前から気づいていた。彼は挙式の話になると目をそらした。ときどき携帯を持ってイライラとしている姿。  罪悪感なのか、やらなくてもいいと言っているのに、家事を進んでやってくれた。  今朝先に家を出るときに私は待っているからと彼の目を見て言った。  彼が来てくれたら、すべて水に流して許すつもりでいた。  手が震えて止まらなくなった。  分かっていたのだ。彼が目をそらしたその瞬間に、いくら待っても無駄だということが…。  父と母に抱きしめられて、もう帰ろうと言われた。  両親の後ろで、ピンクのスパンコールがついたドレスを着た瑠美が、殺しに行くなら付き合うよと言った。  殺せないわよ、愛しているから。  そう言って私は涙をこぼした。  それからは修羅場だった。  なぜ来てくれなかったのかと、半狂乱で怒鳴って暴れる私に、彼は項垂れたままごめんと一言呟いた。  子供ができてしまったんだと、  最後にもう一度、ごめんと言った。  そして、同棲を開始したばかりの部屋から荷物をまとめて、彼は出ていってしまった。  一人残された部屋では、二人で選んだ白いカーテンだけが揺れていた。  それから私は壊れてしまった。  □□  平日は仕事終わりに、休日は車で遠出して、賢吾とのデートは続いた。  どこへ行っても何をしても賢吾はぴたりと似合ってしまう。絵になる男と一緒にいるのは緊張したが、回を重ねるごとに慣れてきた。  お互い距離があるからということで、敬語をやめてから、ぐっと仲が深まったように思える。  気がつくとあと少しで、瑠美が帰ってくる日が近づいていた。  分かってはいたはずだが、それは心に重くのし掛かってきたのだった。 「瑠美?大丈夫?」 「え……?あっ……ごめん、ぼーっとしてた」  賢吾に心配そうに顔を覗きこまれて、はっとした私はごまかすように笑った。 「それは…、どう?瑠美の口に合うかな……」  今日は賢吾のおすすめのカフェで、二人でデザート食べていた。賢吾は甘いものが好きらしく、女性と二人だと気兼ねなく食べられるから嬉しいと言っていた。  デザートは、チョコが入ったスコーンに生クリームがたっぷり乗っていて、その周囲をフルーツが歌うように彩っていた。 「うん…美味しいよ」  そう言って私はミルクティーを飲んだ。賢吾の前で砂糖は入れることができなかった。 「あー!これもだめかぁ……」  賢吾はそう言って大袈裟にのけ反ったあと、頭を抱えた。 「なっ…なに…どうしたの?」 「いゃぁ、さ、今までの俺が食べ尽くしてきたレパートリーから必死になって瑠美が喜びそうなものを出してきているのに…、いっこうに瑠美は本当に美味しそうにしてくれないから…、今心が挫けそうになっているところ」  ついにバレてしまったと、背筋が寒くなっていくのを感じた。  賢吾はデートの度に色々な場所に連れて行って、様々な食事を紹介してくた。毎回なんとか飲み込んできたが、さすがにごまかしきれないところまで来てしまっていた。  私は瑠美ではない。  瑠美ならちゃんと出来ることが、出来ないなんておかしい。  後からどう説明をすればいいのか面倒なことになる。  けれど、これだけ色々と考えてもらって、これ以上ごまかすのは限界だった。 「賢吾さん、ずっと隠していたことがあります。……私、ある時からずっと……食べ物の味が分からないんです」  賢吾が目を見開いて驚いた顔をした。  お昼過ぎのカフェは閑散としていて、周りに座る人もいない。二人の空間に静かすぎる時間が流れたのだった。  □□  地獄の結婚式から一週間、私は生きているのか死んでいるのか分からない生活をしていた。  入れ替わり立ち替わり、誰かが訪ねてきてくれたが、まともに話したような記憶もない。  ただ、ずっと暗い海の中を漂っているようだった。  一週間経ってから、訪ねてきた母親に叩き起こされ、カーテンを開けられた。  なにか食べなさいと、じゃんじゃん食材を切りフライパンを振って、母親は食卓に次々と料理を並べてくれた。  食欲がなかった。まるで涙と共に洗い流してしまったみたいに、何も食べたくなかった。  それでも食べろと口に押し込まれて、咀嚼してみたが、なんの味も感じなかった。  味がしないといった私に、母親はちゃんと味付けをしたと言って代わりに食べた。  なんだ、ちゃんとするわよと言われたけれど、どれを食べても味がしなかった。  それ以来、ずっとそのまま、私は壊れてしまった。  唯一甘味だけは感じられた。  しかし、うんと甘くしなければ、それも感じるところまではいかない。  だから、大好きなミルクティーを、糖尿病まっしぐらティーにして飲むのだ。  でないと、いつも砂を食べて飲んでいるような、食事は苦痛以外のなにものでもなかった。  結局、職場も居づらくなって辞めてしまった。結婚式には全員呼んでいて、みんなからの同情の視線が痛すぎた。  しばらくは他人と関わることが恐くて、ずっと家に閉じこもっていたが、それなら家で仕事をしようと、パソコンを使って昔のつてを頼って在宅で働き始めたのだった。  毎日一人で仕事をして、適当な食事を口に放り込んで栄養をとる。休日は布団にくるまって天井を眺める。  ずっとそんな日々を送ってきた。  □□  瑠美から明日の飛行機に乗って帰るからという連絡が来たとき、私は賢吾とのデートに行く服に着替えていた。  いつも、決まって紺のワンピース、それが私の限界だ。  あの事があってから、赤はもちろん色が苦手になってしまった。色がついたものを見ると不安になる。  本当はワンピースも苦手だが、デートにジーンズというわけにもいかない。  無難に紺のワンピースであれば、どこへいっても対応できるので助かった。 「良かったなぁ、明日瑠美が帰ってくるって。これでビクビクすることもないな。今日が最後になると思うが、粗相のないようにな」  父はほっとした顔で笑っていた。  玄関を出ようとしたところを母が追いかけてきた。 「なにか忘れてない?」 「子供じゃないんだから……平気よ」 「そう?忘れちゃダメよ。玲美、あなたにも人生があるんだからね」 「………行ってきます」  時々、母は訳が分からないけど、どきっとしたことを言う。今日はそんな日らしい。送り出す母の目をなぜだか見ることができなかった。  最後のデートの行き先は聞いていない。  前回食事の味がしないと告白してから、賢吾の態度は特に変わらなかった。  会えない日もいつも通り今日の出来事など、当たり障りのない連絡をして、向こうも普通に返信してくれていた。  今日はやけに早い時間に迎えに来るというのだけがいつもと違った。  早朝、迎えに来た賢吾の車に乗り込むと、今日は遠出をするよと言われて、賢吾は気合いを入れて高速へ入った。  辺りの景色が大都会から住宅地、そしてのどかな田園地帯へと変わっていき、やっと車は止まった。 「ここ……、農場?」  見渡す限り広大な畑が広がっている。そこに、のびのび農場という小さな看板が立っていた。 「そう、うちのグループの病院や介護施設ではここの野菜が使われている。専用の農場なんだ。詳しく説明すると、無農薬だったり肥料にこだわっていたりするんだけど、それより今日は一緒に収穫の手伝いをしようよ」  突然なにをするのかとびっくりしたが、晴天の空の下、爽やかな賢吾の笑顔に押しきられるように、私は戸惑いながらはいと答えたのだった。  そのあと管理者の人を紹介されて、トマトやキュウリやナス、じゃがいもににんじんと次々と収穫のお手伝いをした。  初めは戸惑う気持ちもあったが、気がつくと夢中になって土に触れて、いつの間にか泥だらけになっていた。久々に汗をかきながら、二人でタオルを首に巻いてた。遠い昔、芋掘りに行ったときのわくわくとした気持ちがよみがえってきて自然と笑っていた。  おかしくて、楽しくて、ひたすら嬉しかった。  夕方近くなってやっと収穫は終わった。泥だらけになった私達は管理者の方の家でジャージを貸してもらって着替えた。  部屋を貸してもらい、着替えてから出るとキッチンには賢吾が立ってた。 「ほら、これが今日、二人で収穫した野菜だよ。少し分けてもらえたから、取れたてを食べてみよう」 「え……でも、私………」  上手く声が出せなかった私を、賢吾はいいから座っていてと言って椅子に座らせた。それから、腕まくりをしてテキパキと野菜を切っていった。包丁の使い方が手慣れていて、これは普段からキッチンに立つ人だというのが分かった。  取れたての野菜はキラキラと光っていてみずみずしかった。それを魔法をかけるようにフライパンに入れて炒めていくと、やがて美味しそうな匂いがしてきた。  自分で汗を流して収穫した野菜には、思い入れが深かった。  私がウサギと名付けた、耳がはえたような形のじゃがいもがフライパンの上を踊っていた。  バターと塩コショウで味付けしただけの素朴な炒め物だったが、お皿の上に乗せられると、色とりどりの宝石のように見えた。 「食べてみて」  そう言われて、恐る恐る少しだけ箸でつまんで口に入れた。  口の中にじわっと野菜の旨味が広がった。  それはもう何年も忘れていた、食材の味だった。 「どう?……って、俺の手作りだから、簡単すぎたかなぁ、もっと手が込んだものだったら……」 「…………しい」 「え?」 「美味しい……美味しいよ……」  ほろりと涙がこぼれ出したら止まらなかった。  次々と頬をつたって流れていった。  砂の味がしないと言って泣きながら笑った私を、賢吾はぎゅっと抱きしめてくれて、良かったと小さく呟いたのだった。 「ずいぶん遅くなってしまってごめんね」 「いえ、そんな。賢吾のおかげで、久しぶりに生き返ったような気分になれたし。本当に……ありがとう」  高速の渋滞で帰りはずいぶんと遅くなってしまった。でも、私はこのままずっと渋滞が続いていてくれればいいのにと、何度も思っていた。  今日が最後、次の約束からは本当の瑠美が行くことになるのだ。  賢吾がどこまでモデルの瑠美を求めているのかは分からない。  けれど、私は偽物であるかぎり、いつかはここから去らなくてはいけないのだ。  隠しきれない思いを込めて、賢吾の瞳を見つめた。これが最後なら、こんな素敵な人をせめてもの思い出に焼き付けておきたかった。 「……瑠美、そんな目で見て……。帰したくなくなるじゃないか」  本当はこのまま連れ去って欲しい。何もかもなくして凍った私を、温かい熱で溶かしてくれた人。もっと深く抱きしめて、すべて奪って欲しかった。  無言で見つめる私に賢吾の顔が近づいてきて、ゆっくりと唇が重なった。  初めは軽く触れて、確かめるように離れた唇を、私は思わず追ってしまった。それを受けとめた賢吾は、もっと深い口づけで返してきた。  角度を変えてお互いの舌を絡ませて、熱を呼び覚ますような官能的な口づけは、長い間続けられた。  対向車のライトが光って車内が明るくなって、正気に戻った私は賢吾からぱっと離れた。 「……瑠美、ごめん、俺……」 「いいの、大丈夫。ごめんね、今日はありがとう」  そう言って私は慌てて車の外に飛び出した。家の玄関を開けるときも、賢吾の視線を感じたが振り返らなかった。  もし、振り返ったら、賢吾のもとへ駆けて行ってしまいそうだった。  シンデレラの魔法はとけたのだ。  ガラスの靴など消えてしまった。  もう、私が元に戻る時間はとっくに過ぎていた。  □□ 「いやー、南国はやっぱり最高だったわ。あっ、お姉ちゃんこれお土産ね」  そう言って私の手の上に、コロンとリップクリームを乗せて、瑠美はご機嫌でソファーに転がった。 「瑠美!あの男とは別れてきたんだろうな!」 「うーん、多分」 「たぶん…だとぉぉ!」 「真っ赤になって怒らないでよパパ。大丈夫よ、鷹城さんとは、ちゃんと誠実にお付き合いするからぁ。とりあえず、次のデートはホテル直行でイケメンを堪能しちゃおー!」  瑠美は相変わらずだった。瑠美にはデートで行った場所や話した内容などをメールで送っていた。  瑠美の話を聞いていられなくて私は先に休むと言って部屋に戻ることにした。 「お姉ちゃん」  しばらくしてから、部屋着姿になった瑠美がちょこんと顔を出した。 「この部屋にお姉ちゃんがいるのも久しぶりだね。社会人になってすぐいなくなっちゃったから、私寂しかったんだよ」 「もう、瑠美は甘えん坊ね。明日にはまた出ていくから泣かないでよ」  瑠美はミルクティーを入れてきた。小さなトレーの上に、マグカップが二つ並んでいた。 「お姉ちゃんは、相変わらず頑固ね。賢吾さんとのデート、週末でしょう。私、本当に行っちゃうよ」 「もともと、そういう約束でしょう。向こうが瑠美を希望しているんだから。……私は……いいのよ。このままで……」 「ふーん、味がしないこと話したくせに。本当にいいの?」  探るような視線を瑠美から送られて私はいいのと言ってカップを取って、中身を飲みほした。 「やだ…、これ…コーヒーじゃない」 「コーヒーじゃなくて、カフェオレだっ……」  私の言葉に目を丸くした瑠美が、興奮したようにあーっと声を上げた。 「ちょ…お姉ちゃん!嘘!戻ったの!?」  瑠美は泣きながら、ママー!と母を呼びに行った。  ずっと進んでいると思い込んでいたけれど、私はやっと進めるようになったのかもしれない。  それ以上望むのは贅沢だ。  私には賢吾さんはもったいなすぎる。  あんな素敵な人、もう、二度と出会うことはないけれど、一月幸せな夢が見れた。  神様がくれたご褒美だ。  目を閉じて賢吾の顔を思い出した。  それは、あの農場で汗をかきながら笑っている姿だった。  約一ヶ月ぶりに自分の家に戻ってきた。やることはいくらでもある。  掃除もそうだし、ゴミもまとめないといけない。  実家で仕事をしていたが、資料は家にあるので、それを見ながらクライアントに連絡をしなければいけない。  頭の中はフル回転しているのに、体は石みたいに固まって動かなかった。  目の前には、出掛けに宅配便で届いた賢吾から瑠美宛の荷物があった。  なぜか、自分のものでもないのに、それを持ってきてしまった。  さすがに開封するのはだめだろうと思いながら、机の上に置いた荷物を眺めて小一時間経っていた。 「だめだわ、これじゃ……、しっかりしろ、私」  独り言を言いながら鏡を見て、思いついたように外へ出た。  その足で美容室へ行って髪を黒く染め直した。  そして思いきって瑠美と同じくらいだった長さからバッサリと切って、ショートにしてしまった。  もう鏡の中には瑠美はいなかった。  またひとつ、新しい自分になった。  髪の重さが消えただけなのに、心も体も軽くなったように感じた。  □□  時計を見た。  さっきから四分進んでいた。  私はもう何度目か分からないため息をついていた。  週末、今日は賢吾と瑠美のデートの日だ。  待ち合わせは午前十時。  今は九時半、後三十分で賢吾が家に迎えに来るはずだ。  今日まで何度も考えないようにしていた。  週末が来るのが恐くて、夜も全然眠れなかった。  やはり、あれを持ってきたのがまずかったと、机の上に飾られるように置かれている包みを見た。  今からでも遅くない、瑠美に返しに行こうかと考えて、伸ばした手を止めた。ずっとその繰り返しである。  時間は刻々と過ぎていく。決心した私はついに、包みを破って中の箱を取り出した。  カードには、先日は泥だらけにしてしまいごめんなさいと書かれていた。  これはお詫びですが、とても似合うと思ったのでプレゼントさせてください。  できたら次に会うときに、着ていただけたら嬉しいですと書いてあった。  そして次の一文を見て私は固まってしまった。  瑠美さんではなく、玲美へのプレゼントだからね。  と書いてあった。  手から箱がこぼれ落ちて床に当たって中身が飛び出した。  中に入っていたのは、赤い花柄のワンピースだった。  子供の頃はばかみたいに毎日走り回って転んで遊んでいた。  大人になってから走ること滅多にない。  公共機関に乗り遅れそうになるときくらいだろうか。  そんな滅多にない機会に、滅多に着ない服を着て、私は走っていた。  ちなみに、合わせるものがなくて足元はただの黒い革靴で色気もなにもない。  しかし、ショーウィンドウに映った自分を見て、思わず足を止めてしまった。  鮮やかな赤い花柄はよく目立っている。賢吾は似合うと思って選んだと書いてあったが、本当に大丈夫なのか心配になってきた。  こんなことなら髪の毛を切らなければよかったと思いながらまた走り出した。  いつ、賢吾は私が瑠美ではないと気づいたのだろうか。  そして、気づいていながら、なぜバカげた入れ替わりに付き合ってくれたのだろうか。  疑問は次々と湧いてくるが、早く実家に戻らなければ、瑠美が賢吾に会ってしまう。  間違えることはないかもしれないが、瑠美が入ってくるとややこしいことになってしまう。  実家までは徒歩で十五分の距離だったが、必死に走ったのに到着したのは、十時半になってしまった。  三十分も過ぎてしまって、賢吾はもういないかもしれない。  震える手で鍵を開けて中に入ると、父のものとは違う、質の良い靴が玄関に置かれていた。  これはと思って急いでリビングに駆け込むと、食卓のテーブルに座って優雅にお茶を飲んでいる賢吾の姿があった。 「お帰り!あぁやっぱりよく似合ってるね。えっ…髪…いつの間にそんなにさっぱりしちゃったの!?可愛いよ、可愛いけど、恋人に相談もなくだめだよ!あっこれ一度は言ってみたかったんだ」  ペラペラと弾丸のようにしゃべる賢吾の姿はいつもの落ち着いた余裕のある姿とは違った。  目をパチパチさせながら私がようやく喋れた言葉は皆はどこ?という一言だった。 「お父様とお母様、瑠美さんはみんなでお買い物だそうです。夜まで帰らないのでよろしくとの伝言でした」 「……賢吾、いつから私が……」 「玲美、あぁ…やっとこの名前を呼べるね。ちゃんと話したいけど、まずはこうしないとたまらないものだからいいかな?」  そう言ってぽかんとする私に近づいてきた賢吾は、抱きついてきてすっぽりと私を包んだ。 「あー…玲美、走ってきたでしょう。可愛いなぁ、汗の匂いがするのが可愛くてしょうがない」 「え?ちょ……賢吾?」  私の頭にすりすりしながら甘えてくる賢吾はもはや人が変わってしまったのかと思うくらい情熱的になっていた。 「しょうがないでしょう。ずっとベタベタしたいのを我慢していたんだよ。俺の選んだワンピースを着た玲美なんて愛しくてたまらないじゃないか」  爽やかな好青年のイメージはがらがらと崩れていくが、空っぽだった自分をこんなに求めてくれるのは悪い気はしない。少し驚きながらも、私は賢吾の後ろに手を回した。 「とりあえず場所を変えようか。ここだと色々と気になってしょうがない」  そう言って賢吾は戸棚の方に視線を向けた。そこには父と母がピースしながら写っている写真があって、確かにそうだと私も噴き出して笑ったのだった。  はい靴もどうぞと言って賢吾はクリーム色のラメが入った可愛らしいパンプスを箱から取り出した。 「いやー、そのワンピースに合うと思ったらこれも欲しくなっちゃって。でも靴のサイズまでチェックしてるなんてキモいかなと思ったら一緒に送れなくてさ」  賢吾の言う通り花柄のワンピースに、ぴたりとよく合って、靴がしまるとぐっとお洒落になったような気がした。 「あー!そうなってくると、バッグも買えば良かった!失敗した!」 「いっ……いいよ。そんなにもらったら悪いから……、これだけで十分、嬉しいよ……」 「あぁ……玲美、今すぐキスしたい…、ちょっとだけいい?」 「いや、運転中だからだめだよ。前向いて」  ちぇと残念そうに口を尖らせて賢吾は車を走らせた。なにがどうなってこうなったのか、全然分からなくて疑問だらけだった。  賢吾は慣れた手つきで高層マンションの駐車場に入り車を駐めた。  エレベーターに乗り込むと、数字はぐんぐん上がっていて、やはり高いところの住人だった。  どうぞ、あまり綺麗じゃないけどと言いながら、賢吾は部屋に入れてくれた。  その言葉とは反対に掃除は行き届いていて、美しくピカピカに磨かれた床がお出迎えしてくれた。  賢吾がお茶を入れてくれて、シンプルな内装の部屋にどかんと置かれた大きなソファーに腰を下ろした。  そして、隣に座ってきた賢吾はポツリポツリと話し始めた。 「本当はね、初めて会ったときに、あまりに瑠美さんの印象と違いすぎて、どういうことかと思って調べたんだ」  賢吾が見せてくれたのは、モデル赤裸々座談会とタイトルがつけられたもので、看板モデル達が男や恋愛、セックスについて赤裸々に語っている。その、ページで瑠美は男落とすなんて楽勝だし!とゲラゲラ笑っている姿が写っていた。確かにこれを見てお見合いに挑んだら、あまりに静かすぎて拍子抜けしてしまうかもしれないと思った。 「そしたら、瑠美さんは出国して日本にいないっていう事を知って、じゃあ、あのお見合いに来たのは誰?ってなったんだ。それで、瑠美さんにお姉さんがいることが分かってもしかしたらって……」 「じゃあ、あの海のデートの時には……」 「そう、考え込んでいて、変だっただろう。いつ切り出したらいいか、ずっと考えていたんだ。でも、ここで自分が答えを迫ったら、玲美はきっと心を閉ざして逃げてしまうかもしれない、そんな予感がしたんだ」  確かにあの時は、まだどうやって船を下りようか、逃げ道を探していた。姉だとバレてしまったら、それを口実に身を隠していたかもしれない。 「きっと瑠美さんが帰ってくるまで、玲美は続けるのだろうと思った。そこにちょうどお母様から連絡が来て………」 「ちょっと待って、母が?いつの間に!?」 「……心配だったんだよ、玲美のこと。俺がもう知っているって話したら、ご迷惑かけますって。それと、玲美は見た目は元気だけど心がすごく傷ついていて、とても壊れやすいって……、だから中途半端に構うのだったらもうやめてくれって言われた」  まさか母がそんな話をしていたとは思っても見なかった。そんなこと一言も言ってくれなかったのだ。 「俺は初めて会ったときから、玲美のことが頭から離れなくて、心はもう決まっていた。お母様にもそう話して納得してもらった。でも、いつ玲美に話すかが本当に悩んで、どうやったら傷つけないように自分の気持ちを伝えるかで本当に苦労したよ」 「ごめんなさい、私、全然気づかなくて……」 「玲美が謝ることじゃないよ。俺にとっての転機は玲美が初めて瑠美さんのことではなくて、自分のこと、味覚について語ってくれたときだよ。深刻な内容ではあったけど、あの時、玲美はやっと心を開いてくれたと思った。だから俺ができる精一杯のことをして、玲美の辛さを少しでも消して楽しいものに変えてあげたかった」 「賢吾………」  賢吾は私の手をそっと握ってきた。柔らかくて優しい温かさだった。 「時間はある程度の傷は癒してくれる。だけど、見なければ見ないようにするほど、残った傷は心を傷つけていく。忘れろなんてことは言わない。塗り替えていくんだ、辛い思いは楽しいものに、苦しい記憶は嬉しい気持ちにさ。好きだよ玲美、過去に戻ることはできないから、未来を…、二人で塗り替えて生きていきたい」  頬を温かいものがつたっていった。  それは、冷たく辛いものではなく、心が踊るような喜びの温かさだった。 「………賢吾、私も好き……。もう隠せなくて、好きで……好きで……ごめ……もう、それしか……言えな……」  止めどなく流れる涙で、子供のようにしゃくり上げて泣いてしまい、情熱的な賢吾の告白に対して私の返事は素朴もいいところだった。しかし、思いは伝わってくれたらしく、賢吾は嬉しそうな顔をして、温かくて大きな胸で私を包みこんでくれた。  しばらくお互い無言で熱を感じていた。そのうち賢吾が頭にキスを始めたので、くすぐったくなった私はまだ残る涙を手で拭いながら、腕の中から離れた。 「玲美……、君を愛したい」  真剣な目をした賢吾が私の手を掴んできた。その、熱い瞳に私の心臓はとくとくと音をたてて揺れ出した。 「私も……」  そう言って微笑んだ私は賢吾の唇に軽く触れるようなキスをした。 「あぁ……玲美ー、反則だよ……せっかくカッコ良くきめようと思ってたのに……、もうしらないよ!」 「わっ!」  なにかのスイッチが入ってしまったのだろうか、救いの騎士モードからまた変化してしまった。  賢吾は軽々と私を持ち上げて寝室のドアを開けて、そのまま、大きなベッドの上に私をそっと下ろした。 「これ、賢吾がいつも寝ているベッドだよね?」 「そうだけど」  賢吾は少し余裕がなさそうな顔をしながら、シャツのボタンを開けて服を脱ぎだしていた。  恥ずかしくてそちらに目を向けるのをためらったのもあるが、私はふかふかのベッドに顔をうずめた。 「ふふっ…このベッド、賢吾の匂いがする。気持ちいい……」  賢吾の匂いは私の中ですっかり安心する匂いになっていた。こんなふかふかで安心する匂いに包まれたら気持ちよすぎると思って嬉しくなってしまった。 「れーみー!なんでまた…そんな台詞を……!可愛すぎ……、ちょっと本当やばい……。玲美の中に入る前に出ちゃうから……」  出ちゃうと聞いて目線を向けたら、賢吾のそこはもう立派に立ち上がっていて、ズボンを窮屈そうに押し上げていた。 「わ……すごい……」  私が思わず触ろうとして伸ばした手は賢吾に捕まってしまい、そのまま、ベッドに縫いつけられてしまった 「それはもっと余裕のあるときでお願いします。今日はもういっぱいいっぱいだから……」  そう言って本当に切羽詰まったような勢いで覆い被さってきた賢吾に食らいつかれるように唇を奪われた。  深い口づけで私を翻弄しながら、賢吾はワンピースのチャックを外してすっかり脱ぎ取ってしまった。  ブラの前ホックには手間取っていたようだったが、やっと外して現れた胸に愛しそうに触れてきた。 「あぁなんて、柔らかいんだろう。乳首も可愛いピンク色だ…、玲美はどこもかしこも可愛いね」 「あ……ん、そんな……恥ずかし」  甘くて美味しそうだと乳首に吸い付かれて、私は大きな声を漏らしてしまった。  片方を舌を使ってくちゅくちゅと舐めながら、片方の乳首は指でこりこりとこねまわされた。 「ん……はぁ……あっ……、噛んじゃ……だ……め……」 「大丈夫、甘噛みだから。ほら、ピンク色が赤く色づいてきた。玲美は本当に赤色が似合うね」  ひたすら胸を弄っていた賢吾だったが、ついに手を秘所に這わせてきた。賢吾に胸を責められて、すでにそこは蜜が溢れかえっていた。 「……すご……、とろとろだよ。玲美」 「あぁ…言わな…で、賢吾が……触れる……から……」 「そうだよ。玲美は俺で感じてくれているんだよね……。もう、俺以外なんて許さないけど」  下着越しに秘所をなぞっていた賢吾はついに下着をずらして直接触れてきた。  少し冷たい指の感触に私の体は痺れるように快感が突き抜けて、思わず声を出してのけ反ってしまった。 「あああっ……け……んごぉ……きもち…いい……」  私の声に煽られたように賢吾は蜜口に指をいれて、花唇のぷっくりと膨らんだ芽も同時に擦り始めた。 「あっあっあっ……んんぅぅ……あ……そんな…激しく…したら……ぁぁんん!イっ…イっちゃう……」 「いいよ、玲美、気持ち良くなって……」  賢吾はますます指を速めて、私のいいところ狙ってきた。その巧みな動きに煽られて、私の快感は高まっていった。 「だめ……も………イっちゃ……う!あぁ!イク!んんんっあっあああ!」  私は腰を揺らしながら、胸を反らしてビクビクとしながら達した。久々に人から与えられる快感は凄まじかった。脳が溶けてしまうのではないかと思うほど気持ち良かった。  気だるくなった視界の端で賢吾が準備をしている姿が見えた。手慣れたその動きにムッとくるものがあったが、それは態度には出さないようにした。 「玲美…、俺ももう限界、入れるよ」  私の膝をぐっと折り畳むようにして、蜜口に自分のものを当てがった賢吾はゆっくりと中の具合を楽しむように入ってきた。 「うわぁ…熱い……、んっ……玲美の中、ぎゅうぎゅうしてて締まる……やば……すぐイキそ……」 「ん……あっ…はぁ……はぁ…中がいっぱい……きもち…いい…よ」  まずはゆっくりと腰を動かして抽挿を始めた賢吾だったが、何度か我慢するように止めてポタリと汗を垂らしていた。 「だめだ……良すぎて……、玲美の中に入っていると思ったら……もう……それだけでヤバい……」 「けん…ご……。すごく……気持ち…いい…。いいよ。ナカ…いっぱい出して……」  私がそう言うと、賢吾はヤバいヤバいと言いながらキスをしてきた。そのまま激しく腰を動かした後、深く突き入れた後ぴたりと体を止めた。  私の中でびくびくと賢吾のものが揺れて達したのが分かった。 「玲美、玲美、最高……。好きだよ……」 「賢吾……、私も大好き」  重なりあったまま、また、深い口づけを交わした。上も下も一緒になって、ぐずぐずに熱で溶けていくような快感で体はこれ以上ないくらい満たされた。 「……引かれると思って、見せたくはなかったんだけど……たくさん用意しちゃった。だって玲美のこと、たくさん愛したくて……だめ?」  ベッドにサイドのデスクの引き出しに、溢れそうなほど入っているゴムを見て、私は卒倒しそうになった。 「い……いいけど」  爽やか青年から救いの騎士になって、ベッドの上では甘えん坊属性という、なんとも目まぐるしい変化を見せる賢吾に私はクラクラとしながらも、がっぽりハマってしまった。  嬉しそうに笑いながら引き出しの中から、ごっそりゴムの束を掴んだ賢吾に、若干、いや、だいぶ震えたが、深い愛を感じて私は受け入れることにした。  その後、食事も忘れて何度も愛し合った二人は気を失ったように眠りについた。  両親と妹から来ていた着信に気づいて、慌てて掛けなおすことができたのは、やっと翌朝になってからだった。  □□  人混みの中で急に名前を呼ばれたような気がした。辺りを見回すと、男性が一人こちらを見ているような気がした。  誰だろうと首をかしげてから、気のせいかと思って私はまた歩き出した。背中に視線を感じていたけれど、やはり気のせいだと思った。 「玲美、こっちだよ」  賢吾が手を振っているのを見つけて、私はにっこりと微笑んだ。 「杏奈(あんな)(しずく)は?良い子にしてた?」 「ええ、母ったら二人とも私と瑠美と違って大人しいから面倒みるのなんて楽勝とか言うのよ」 「はははっ…、お母様らしいね。でも甘くみてると痛い目にあうよね。特に雫はビックリするようなことするから」  黒のロングコートをすらりとカッコ良く着こなした賢吾は遠目にも目立ついい男だ。その隣に真っ赤なコートを来た私が立った。賢吾がさりげなく腰に手を回して二人で豪華に飾られた入り口に入っていく。  入り口の看板には、ある女の愛と罠、初日公演と書かれていた。  妹との入れ替わりで出会った私達はそれからすぐに結婚した。今は二人の女の子が生まれて幸せに暮らしている。  妹の瑠美はモデルを卒業して母のように舞台女優となり、目覚めたように実力を発揮して多くの人にその名を知られるようになった。今日の公演も瑠美が主役で、仲の良いご夫婦にと舞台の真ん前の特等席を用意してくれた。 「瑠美はどんどん綺麗になっていくわね。入れ替わりなんてやっていたのが、嘘みたい」 「玲美は瑠美さんに負けないくらい綺麗だよ。それに、玲美が舞台女優にならなくて良かった」 「どうして?母の才能を継いで、伝説の女優になっていたかもしれないのに」 「俺は嫉妬深いからなぁ。こんな風に大勢の人に玲美が見られたら、たまらない気持ちになる。それが、男でも女でも……。玲美を見ることができるのは俺だけで十分。あっ…あと子供達もか……そこは妥協しよう」 「まぁ……困った人ね」  賢吾の独占的な愛情は昔から変わらない。そんな真っ直ぐな愛をこれてもかと受けて、私は幸せを感じるのである。  開始五分前のベルがなって会場が暗くなった。  少ししたら、瑠美が舞台狭しと躍り狂うところから始まるのだ。  ふと先ほど町でこちらを見ていた男性のことを思い出した。すでに記憶の中では顔がボヤけていて誰のことなのかはいっそう、分からなくなった。  賢吾に会う前のことは、もう、あまり思い出せない。ずいぶんと辛い思いをしたらしいが、それもすっかり今の幸せで満たされて、なにがあったかも忘れるくらい塗り替えられてしまった。  もしかしたら、その頃に関係した人かもしれないと考えてから、やっぱり考えても無駄だと思って忘れることにした。  私には今両手に抱えきれないくらいの幸せをくれる人が隣にいる。  それだけで十分なのだ。  暗闇の中、隣に座っている賢吾の手が伸びてきて、私の手を掴んだ。  外が寒かったのか少し冷たかったが、お互いの体温ですぐ暖かくなるだろう。  暗い中でも舞台にぼんやりと明かりがついているので、賢吾の顔は表情までよく見えた。  視線を感じて目を向けると、賢吾は私のことを見つめていた。そのまま耳元に口を寄せて小さく囁いた。  その言葉を聞くといつも私の胸は甘く揺れてしまうのだ。  手をぎゅっと握り返して、今度は私が賢吾の耳に口を寄せて、私もと囁いた。  公演開始のベルが鳴っても、私達の手は繋がれたまま、いつまでも離れることはなかった  □完□
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