入れ替わっても好きでいてくれますか?

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入れ替わっても好きでいてくれますか?

 真っ白な壁に真っ白なシーツ。鼻をつく薬品の臭いと、手に付けられた点滴の痛みで、ここが病院のベッドであるということはすぐに理解できた。  窓から差し込む柔らかい光と、風に揺れるカーテン。しかし、その向こうに見える景色は、夢としか思えなかった。  いつも鏡で見るときは、ボケッとした頼りない顔の男が、やけに凛々しく逞しい顔つきになっていた。  しかし、これは鏡ではない。  なぜなら俺はベッドに寝ているのに、向こうの俺は立っているからだ。  もしかしたら、あれは生き別れた双子の弟かもしれない。そうとしか思えなかった。 「遅いわよ!いつまで寝てるのよ。心配したんだから!」  多分、双子の弟は、やけに女っぽい喋り方だった。もしかしたら、今までの人生で色々あってそっちに進んでしまったのかもしれない。それならば兄として応援してあげようと、俺はそこまで考えた。 「ちょっと!意識戻ったんでしょう。お兄ちゃんがグースカ寝続けている間、大変だったんだから!」 「それは……すみません、あ…初めまして。せっかくの感動の再会が、こんな格好で申し訳な………」  自分で出した声がやけに高くて可愛らしいものだったので、途中でおかしさに気がついて言葉が出なくなった。 「混乱する気持ちは分かるけど、とりあえず落ち着いて。ただでさえ母さんピリピリしているから……。とにかく今は、話を合わせないといけないのよ、お兄ちゃん」  記憶にある俺と同じ顔をして同じ背格好の男が、泣きそうな顔でこちらを見ていた。 「……私が(あかり)だよ。お兄ちゃん」 「………は?アンタ………何訳のわからないこと言っているんだ?灯は俺の妹で………俺………この声………え……?」  灯という名前が出たことで、この声の違和感の正体が掴めてしまった。そう、この甘ったるくて可愛らしい声は……。 「信じられないよね。でもさ、もう私、一ヶ月このままだから大分慣れたよ。お兄ちゃん、私達、入れ替わっちゃったんだよ」  これは悪夢の続きかもしれない。まだ夢は覚めていなくて、目を閉じれば現実に戻れるのかもしれない。  いつも通りの、俺の平凡で退屈な日常に。 「お兄ちゃん、私が灯なんだよ」  目を開けると俺の顔をした男が妹の名前を口にして、困ったように笑っていた。  やけに長い悪夢だと俺は絶望的な気持ちになった。きっとあるはずだと夢の出口を探して、また目を閉じたのだった。  □□ 「脳の方は異常は見られなかったですね。体の方も順調に回復していますし、来週には退院して大丈夫でしょう。学校も問題ないです。ただ、経過は確認したいので、ちゃんと通院はしてくださいね」  診察室は大きな窓から日が差し込んで、明るくて風通しのいい部屋だった。眼鏡をかけて頭に白いものが混じった初老の医師は、俺の状態について子供にも分かるように丁寧に説明してくれた。  始終にこにこと笑顔で優しい対応が、なんだか慣れていなくて居心地が悪かった。 「良かったわぁー、この子もともと成績悪くて、後少しで留年って言われていたから、本当に良かったです。先生、お世話になりました。退院の時は皆さんにお菓子をお持ちしますので食べてくださいね」 「か…母さん!」 「はははっ…、気持ちだけありがたくいただいておきますよ。元気になってくれるのが、一番良いことですから」  相変わらず強引な母は、医師を前にしてもマイペースを崩さないので、呆れつつも、やけに懐かしくて胸が少し熱くなってしまった。 「今日、あか…じゃなくて、伊織(いおり)は?」  診察室から出てすぐ、母に話しかけると、母は不思議そうな顔をした。 「伊織って……、アンタ、いつも兄ちゃんって呼んでるくせになんで名前で………」  どうやら、間違えてしまったらしい、ここに灯がいたら睨まれそうだとヒヤリとした。ただでさえ、デリケートな状態の母にこんなやっかいな事を話すのは、絶対大変なことになるからやめておこうと二人で話していたのだ。 「い……いいでしょ!たまには、私って気まぐれだしぃーイェーイ!」  今度はやけに変なテンションになってしまい、母は不思議を通り越して、心配そうな目で見てきた。俺はまた失敗してしまったと、悲しい気持ちになった。妹といえど、灯がどんな顔を見せていたかなんて、子供の頃ならまだしも、今の思春期の灯なんて理解不明なのだ。 「……灯、疲れているのね。部屋に戻ったらすぐ横になりなさい。伊織はサークルの集まりがあるからそれが終わったら来るって言ってたわよ」 「さ……サークル……。そうか……」 「あの子もやっと、大学生活楽しみだしたから良かったわよ。最近は友達の話ばかりして、とても楽しそうよ。あっ…女の子の話もね」  ニヤリと笑った母の顔を俺は震えるような気持ちで見ていた。サークルに友達に女の子、何もかも自分には縁がなかったものだ。  それをこんな短期間でというのが信じられなくて、足元がフラフラとして定まらなかった。母と別れた後、ベッドに倒れるように寝転んで布団をかぶった。  何もかも信じられないことばかりだ。いや、信じたくないことばかりだった。  事の起こりは一月前にさかのぼる。俺、笹森伊織(ささもり いおり)は、都内の大学に通う平凡な学生だった。平凡なのは頭もそうだが容姿もそうで、何を取っても平均点、可もなく不可もなくというのが俺の人生の代名詞だった。  人付き合いもまたそうで、これといって仲の良い友人はいないが、いじめられてもいない。クラスの空気みたいな存在で生きてきた。大学もまた同じ、真面目に授業を受けて、バイト先で黙々と仕事をして家に帰る日々、それが俺の人生だった。  今まで可愛いなと思う女の子はいたし、その子と付き合うことを想像したこともあった。だが、まともに話しすらできない状態で上手くいくこともなく、ただ遠くから見て終わるという完璧な童貞としての道を歩んできた。  そんな萎れたキャベツみたいな俺とは対照的に、両親の良いところを余すところなく受け継いだのが、二歳年下の灯だ。  兄の目から見ても灯は昔から可愛かった。近所で評判の美少女でどこに行っても可愛い可愛いともてはやされた。高校二年になった今も、そのまま崩れることなく成長した。最近は可愛らしさに、ほんのり大人の色気みたいなものが芽生えてきた。  サラサラとした長い黒髪と陶器のような白い肌、黒目がちな大きな瞳はいつも潤んでいるように見えて、男の庇護欲をかきたてる。  道を歩けば誰もが振り返る美少女、それが俺の妹、灯だった。  唯一、頭の出来は悪いが、そこは持ち前の社交性と要領のいい性格で、今までカバーして生きてきたのだ。  俺にとっては自慢の妹であったが、大きすぎる存在で、とても人前では兄ですと言えるような関係ではなかった。  それでなくとも社交的な妹は毎日友人と遊びに出掛けてほとんど家にいなかったし、最近では顔を合わせることなどなかった。  それが、あの日だけは違った。  うちは高台に家があって、駅からの帰宅ルートが、なだらかな坂をひたすら登るか、長い階段を使って時間を短縮するかの二択しかなかった。  あの日、いつもように長い階段を上り、家に帰ろうとしていた俺は、最後まで上りきったところでこっちへ走ってくる人影を見つけた。  何事かと目を凝らすとそれは妹の灯で、こちらに向かって走ってきたのだ。  階段は認識していただろうから、上手い具合に近くで止まろうとしていたのだろう。  ところが俺は何も考えず、灯と声をかけてしまった。  止まるタイミングを間違えた灯は俺の前で足がもつれて、こっちへ飛び込むように転んでしまった。  俺は慌てて支えようと力を入れて灯の体を受け止めた。  ……はずだった。萎びたキャベツは足元がゆるゆるで、それは長い階段を上ってきたからでもあったと主張したいのだが、足に力が入らず、灯を受け止めたまま下になって階段から落ちていった。  すぐに発見されたらしいのだが、その時は二人して頭を打って意識がなかったらしい。  灯は翌日には意識を取り戻したが、俺は眠り続け、約一ヶ月後に突然目を覚ました。  その時に側にいたのは灯だったが、それは俺の姿をした灯で、俺はというと灯の体でベッドに寝ていたのだ。  信じられないバカげた悪い夢だと、体をつねったり叩いたりしたが、ただただ痛いだけで、気持ちがよけいに混乱するだけだった。  そんな俺に、灯は先に目が覚めてからの自分の話をしてくれた。  病室で目覚めてから、周りの態度を見て何かおかしいと思い、鏡を見たら兄の姿になっていたこと。  灯はまだ目覚めないと聞いて見に行って、実際に自分が寝ているところを見て、これは入れ替わったのだと理解したそうだった。  自分の方はほとんど無傷で、すぐに退院となり、しばらくはどうしようか途方にくれていたらしいが、兄であるなら兄として生活しようと決めて、大学に行き始めたということだった。  俺が目覚める一ヶ月の間にすっかり生活に慣れてしまったと俺の顔で笑った灯は、俺の姿になっても、その順応性と適応力、社交的スキルは健在だった。  この一ヶ月で、取り残されたように時間が止まっていた俺は、焦りの気持ちしかなかった。 「お兄ちゃん、寝てるのー?」  どうやら布団をかぶっていたら寝てしまったらしい。面会に来た灯に布団をはぎ取られた。 「んっ……あ…かり……?」 「遅くなってごめんな。これ、カットフルーツ。あと、新しいお茶も冷蔵庫に入れたから」 「あ…あり…がとう……」  一昨日見たときより、灯はどんどん逞しい顔つきになっていた。中身が外見まで変えてしまうのかと信じられない  ぼんやりして間抜けな童貞顔だったはずなのに、どこかちょっとカッコ良く見えてしまうのは目の錯覚だろうか。 「灯さ、大学なんて行って大丈夫なのか?授業とか、俺は情報系だからパソコン使うのが多いし……付いていけてるのか?」 「んー、大丈夫。最初はワケわかんなくて、ボロボロだったけど、事故あったこと話して、ほら、どんどん色んな人に聞いてさ。そしたら、みんな教えてくれるようになって。今はかなり楽しいよ。高校より自由度高いしさすがだよね」  今年大学に入学した俺は、情報処理コースを選択した。確かにまだそこまで難しいものをやっているわけではなかったが、もともと勉強が得意でない灯がよく付いていけていると感心した。 「その…サークルも入ったんだっけ…、俺、誘われることもなかったから」 「え?本当に?榎田くんとか、小松沢くんとか普通に誘ってくれたよ」 「え!?」  その名前を聞いて俺は驚きで思わず声が出てしまった。二人とも確か、親が大きな会社の社長で、背が高くて手足が長く、眩しいくらいのイケメンだ。雲の上の存在過ぎて話したことなど一度もない。 「今は二人が横について色々教えてくれてるし、助かってるよ」  またもや衝撃だった。イケメンでモテモテだったが、人を寄せ付けないタイプの二人が、なぜ揃いも揃って冴えないタイプの俺に構っているのか理解できなかった。  それも、灯の社交性の賜物ということだろうか。 「はぁー、さすが灯は上手くやってるな。戻ったとき、俺上手くやれるかなぁ…」  ぽつりとこぼした俺の言葉に、灯は軽く目を開いて驚いていた。 「お兄ちゃんさ……、戻れると思ってんの?」 「えっ……、そりゃ……、また入れ替われば……」  ぽかんとしながら、いつかは戻るだろうと思っていた俺を見て、灯は俺の顔で眉間にシワを寄せてため息をついた。 「そりゃ可能性はゼロじゃないと思うけど、もし同じことしなければいけないって言ったらできる?今回だって、お兄ちゃんが目覚めなくてどんな思いをしたか……。また階段から落ちたら、どちらか、もしくはお互い死んじゃうかもしれないんだよ」 「ううっ…それは……」 「まっ、理解不可能な現象だから、朝目覚めたら突然変わっているかもしれないし……なんとも言えないけどさ。そろそろ考えた方がいいよ」 「えっ……考えるって……」 「灯として生きること」  平然とした顔でさらりと言った灯に、驚いて全身の熱が上がった。そんなこと簡単に納得したり、受け入れることはできなかった。 「なっ…何言ってるんだ!灯に戻れなくていいのか?伊織として生きるって……。納得できるのか!?俺だよ?冴えなくて地味なやつ。可愛いし、友達もたくさんいる灯と全然違うじゃないか!それなのに……本当に……」 「私だって葛藤したわよ!でも仕方ないでしょう、人生は続くんだから……。それにお兄ちゃんの生活は楽しいわよ。なんか今までより生きてる感じがするし。灯の人生って、きっとお兄ちゃんが思っているものとは違うわ……、体験してみれば分かるわよ」  そう言われてしまうとこれ以上何も言えなかった。確かにそれぞれの生活で暮らしていかないといけないし、俺が見ていた灯の人生と本人が感じていたものは違うだろう。  落ちこんで下を向いて黙ってしまった俺の肩を、灯は子供をあやすように優しく叩いてきた。 「お互い上手くやろうぜ。見た目は女の子でも中身は男だろ。覚悟を決めろよ」  灯は俺の声と男の言葉遣いで慰めてきた。まさかこんなことになるとは夢にも思わなかった。  どう考えても理解不可能な状態で、一月の間があると言っても、灯は恐るべき順応性で俺の人生を歩き始めていた。 「あのさ…灯、あの時……」  聞きたかったけど聞きそびれていた事を思い出して俺は顔を上げた。 「……なに?」  俺の顔をした灯を見上げた。俺ってこんな顔をしていたんだっけと、ぼんやりと思いながら口を開こうしたらそこで看護師さんが来てしまった。 「あっ!いけない、時間だ。ごめん、何?この後、サークルの飲みなんだ」 「あっ…いいよ。またで……」  時計を見た灯は、忙しそうにして出ていってしまった。体温と血圧を計られながら、次に聞けばいいかと俺は口を閉じた。記憶違いかもしれないし、看護師さんの前でサラッと聞ける内容でもなかった。 「お兄さん、カッコいい人ですね。彼女とかいるのかな」  ただの世間話なのかもしれないが、若い看護師に急に話しかけられて、俺は固まってしまった。 「あ、え…と……」 「やだ、私ったら。忘れてくださいね」  若い看護師さんは顔を赤らめて、クスリと笑った。フローラルなシャンプーの匂いがして、心臓がどきっとした。  やはりこの世界はどこかおかしいと俺は信じたくなかった。  □□  卒業したはずの高校の門の前で、俺は立ち尽くしていた。  まさかここに戻ってくるとは思わなかった。  俺の高校生活はひたすら地味で静かなものだった。最後にこの門を通った時のことはまだ記憶に鮮明に残っている。感動で泣きながら集まって写真を撮るクラスメイト達を横目に一人寂しく大人への一歩を踏み出した。誰にも声をかけられず、誰とも写真を撮ることもなかった。実に空気らしい卒業式だった。  俺と灯は同じ高校なので、灯としては当然ここに来ることになるのだ。  ほろ苦い思い出のこの地に足を踏み入れるのは複雑な気持ちだった。 「え!?笹森さん!」  校門をくぐったところで後ろから名前を呼ばれた。振り返ると、二人の可愛らしい女の子が立っていた。 「えっ……と」  思い出そうとして、あほか知るわけがないと自分で自分にツッコンでしまった。  多分難しそうな顔をしている俺を見て二人の女子は、にこりと作ったような顔で笑った。 「大丈夫、先生から聞いているから、事故で頭を打って記憶に障害があるんでしょう」 「無理しなくていいよ。私が山口で、この子が清水。同じクラスで席も近いんだよ」 「あ…うん、ごめんね。なんとなく覚えているんだけど名前と顔が一致しなくて……」  素直に謝った俺に、少し驚いたような様子だったが、二人の女子は優しそうな顔で教室に案内するからと言ってくれた。  灯は良い友人がいるんだなと、心が温かくなった俺は二人の後を付いて歩いていった。  教室に入るとまた凄かった、たくさんのクラスメイトが笹森さん笹森さんと近くに寄ってきてくれて、みんなに大丈夫?心配したんだよと言われた。  休んでいた分まとめてあるからと、黒板の写しから、プリントの類いまできちんとまとめたものをもらえたし、椅子を引くのすら誰かがやってくれた。授業ごとに教科書や使う道具まで用意してもらえた。  細々と動いてくれるのは男子が多いが、女子も何か分からなかったら教えてと、優しい言葉をかけてくれた。  コレが灯の日常なのか、休み明けだからいつも以上に親切なのか分からないが、とにかく至れり尽くせりなのだ。  味わったことのない状況に恐縮しながらも、すっかり俺は気分が良くなってしまい、これだったら、灯の生活も大丈夫かもと思い始めていた。 「はい、これ。笹森さん、好きだったでしょう。クリームパンと牛乳とプリン」  昼休み、一人の男子が息を切らしながら走ってきて、灯の机の上に購買で買ってきたと思われるものを置いてきた。 「えっ……、ちょっ……、え?買ってきたの?お金は?」 「お金?」  その男子生徒は何を言っているのかとポカンとした顔をした。彼は灯の下僕か何かなのか知らないが、奢りとかは健全な高校生活ではなく、トラブルのもとだと、俺はその生徒の腕をつかんだ。  瞬間、教室内にわぁーという、小さい悲鳴みたいなものが響いて、みんながこちらに注目しているのが分かった。 「……おっ…お金なんて……、いいです今日は僕の番だから……」 「なんだよ。いじめられてんのか?あっ…かしら?」 「いじめなんて…そんな!みんな望んでやっていることです。笹森さんも了承してくれましたよね……?みんなが平等に笹森さんと触れあえるようにって……」  大人しそうな顔の男子生徒は声を震わせながら、もらって欲しいと訴えてきた。  至れり尽くせりで羨ましいと思っていたけれど、何かおかしいという違和感があった。それがなんとなく見えてきた気がした。 「あぁ…そうなの…。でも今日からそういうのはいらない。昼飯は自分の分があるし、欲しいものは自分のお金で買うから」  そう言って断ると、男子生徒は青い顔になって口をパクパクと動かしていた。何かにひどく怯えているようだった。 「それ、いらないなら買い取るから、全部でいくら?これって購買の人気商品じゃん。先頭に並ばないと買えないものまで……って」  在学中はほとんど拝めなかったプリンを手にとって眺めていたら、いつの間にか目の前にいた男子生徒は消えていた。走ってどこかに行ってしまったみたいだった。 「バカだなぁ高橋のやつ。笹森さんのご機嫌を損ねるなんて……」 「笹森さん、明日は俺が買ってきますから、絶対食べてください」  クラスの男子から次々と声が上がった。先ほどまで居心地が良いと思っていた空気が、別物のように凍りついていくのを感じた。  男子からは強い圧力を感じ、女子はそれを見世物のように楽しんでいるような空気があった。  この異様で不気味な空間の意味が分からず、早く逃げたいとしか思えなかった。  □□ 「どういうことだよ!なんだよ、アイツら……男も女も気持ち悪いし。なに?ゲームかなんかなのか?」  帰宅してすぐ、リビングのソファーに寝転んでくつろぎながら、スマホをいじっている灯に怒鳴るように声をかけた。  母は仕事に行っているので、声に注意をはらう必要もない。 「ていうかさ、お兄ちゃん、今日学校行く前に色々聞いておくべきじゃない?どうせ、自分も行っていた学校だから、大して変わらないだろうと思っていたんでしょう。本当、面倒くさがりなんだから」 「きっ……聞きたくても、連日サークル飲みに行っていて、ちっとも帰ってこないじゃないか!誰の家に泊まってんだよ!」 「()()()()()なんだから、心配しなくていよ。友達のところだし」  寝転びながらポリポリとポテチを食べる姿はとても灯とは思えない。というか、俺の体だから思えないのは当たり前なのだが。 「……灯は、女王様なのよ。周りが勝手に決めたことなんだけど」 「じょ……女王!?」  突然何を言い出すのかと思ったが、確かにその言い方は周りの態度から見るとしっくりくるような気がして俺は唸った。 「お兄ちゃんさ。私が、幼稚園の時、誘拐されかけたの覚えている?」 「は?え?嘘!?そっ…そんなの……知らな……」 「………私も母さんに聞くまで覚えていなかったの。うちではなかったことにされてたみたい。連れ去られそうになった現場にお兄ちゃんもいて、ショックを受けてしばらく言葉が話せなくなったって聞いてるわ。私、昔からそうなのよ。その見た目は人を惹き付けるの。時には作用が強力過ぎて狂っちゃう人もいるみたい。ちなみに、誘拐しようとしたのは幼稚園のバスの運転手だった人」  昨日の天気を話すみたいに、何でもないような顔をして、灯はポテチをかじりながらそう口にした。 「お兄ちゃんだって、灯としてしばらく暮らしてみて、なんとなく気がつかなかった?周りの人の視線、何をしようとしても……」 「何もする必要がない……」  灯の言葉に自分の言葉を重ねてしまった。ずっと感じていたことがやっと言葉になったような気がした。  外を歩くと周囲の視線を痛いほど感じた。ドアを開け閉めするときや、何かを取ったりするといった単純な動作も、さっと誰かの手が伸びてきて代わりにやってもらえるのだ。老人でもないのに、電車やバスでこの席に座ってくださいと言われたり、買い物でお店に並ぼうとしたら先にどうぞと順番を代わられそうになった。 「私は魅了の魔力でもあるんじゃないかと思って生きてきたわ。外でちょっと関わるだけならそれで終わるけど、学校のように長い時間、関わることになると、みんな急に執着心が出始めて争いになるのよ。小学校や中学校で私は抵抗したわ。そしたら、怪我人が出たりして大変なことになったのよ。だから、高校ではもう、周りのしたいようにさせているわ。それが、女王様ってやつね」  信じられない事実だった。高スペックで人生楽しく生きているとばかり思っていた妹は、その完璧すぎる容姿がゆえに、俺には想像もできない問題に悩んできたらしい。 「……女王様ってのは……、具体的にはどういう制度なんだ?」 「私のことが好きな男子は、私のために下僕のように働くのよ。告白は一切禁止、ローテーションを組んで勝手にお世話係をやってくるの。女子は基本的にはノータッチね。灯が誰を選ぶのか、賭けをしたりして楽しんでるわ。もちろん、自分が好きな男子が下僕をやっていたら、嫌がらせをしてくる子もいるけど」 「灯に……選ばれるためだけに……?」 「そうよ。頭おかしいでしょう。私が誰と付き合っても文句は言わないし、ずっと下僕をやってくるのよ。くだらなくて、吐き気がする連中よ。秩序を保つために、やりたいようにやらせてきたけど、ずっと冷たい目で見て、ろくに話しすらしないわ……」 「そんな……」 「黙ってやりたいようにさせておけば大人しいからそれでいいのよ。静かに生きたいなら余計なことはしない方がいいわ」  確かにほとんど社交的スキルのない俺が、どうにかできるような問題ではなかった。かといって、されるがままに何でもやらせておくというのも抵抗があった。俺は納得は出来なかったが、結局他になにも思い付かなかったので渋々頷いた。 「じゃあ……、他に誰か注意するやつとか、することとかあれば教えて欲しいんだけど……」 「……瀬野尾飛鳥(せのお あすか)」 「瀬野尾って……」  その名前を聞いて、スラッとして背が高く、モデルのような容姿をした男を思い出した。  俺が高二だった時に入学してきた男だ。一年生の時から、人並み外れた恵まれた容姿であり、頭脳も運動もトップクラスで、女子達の憧れの存在だった。 「一年後輩だから名前くらいは聞いたことあるでしょう。文武両道、ハーフらしい整った顔立ちで背が高い人よ」 「知ってるよ。目立つやつだったし、瀬野尾がなんなの?どう注意するんだ?」 「………あの日、私、告白されたのよ。瀬野尾先輩に。それでフったの」 「えっ………」  そんな話初めて聞いたと俺は目を丸くした。確かに灯の魅力の前では、あの色男も骨抜きになってしまってもおかしくはない。 「向こうだってそこまで本気とは思えなかったわ。モテる人だし、私に興味があった程度だと思う。でも、執着されたら他の女子の恨みをかいそうだし、近づかないでね。話しかけてきても無視して」 「わ…分かった」  どうやら灯の中で告白はなかったことにしたいらしい。苦々しい顔をしているので、よっぽど嫌だったみたいだ。 「あっ、ごめん、ごめん。今、妹と喋ってて。これから?いいよ。じゃあ、榎田ん家ね。マジでこの間みたいなこと……。頼むよ、本当に……。ああ、じゃあ、後で……」  電話がかかってきたらしく、すぐに出た灯は話しながら上着を手にとって鞄に適当にねじこんだ。 「出掛けるの?夕飯は?もう夜になるのに……」 「夕飯はいらない。………私さ、お兄ちゃんには悪いけど、伊織として生きるの、もうやめられないわ。なんかしっくりくるんだよね。まるで、魂が元の体に戻ったみたいで……」 「は?…はぁ?」 「……本当は私達、もっと前に……」  灯は何か言いかけたが、頭を振ってやっぱりいいわと言って、出ていってしまった。  一人残された俺は灯が出ていったドアをしばらく見つめていた。  今出ていった男は誰だろう。俺の姿のはずだが、あれはもう俺ではなかった。  別人になってしまった俺を見て、帰るところがなくなったことに、やっと気がついたのだった。  □□ 「笹森さーん!どこに行ったの?」 「笹森さーん!!」  バタバタと走り回る上履きの音が聞こえて、俺は息を殺した。  向こうの校舎じゃないかという声がして、足音はだんだん小さくなっていった。 「はぁーーーもぅやだ…………」  今日も登校するなり、下僕達のしつこいお世話が始まって、我慢我慢と耐えていたが、今日のお昼は買ってきますという話になって、ついにキレてしまった。  そもそも弁当があるのにこれ以上食べられないし、自分のために無償でお金を使われることに非常に抵抗があるのだ。  いらないから、絶対買わないでと言って教室を飛び出してきた。  適当に走り回っていて思い出したのが、空き教室の存在だ。普段誰も近寄らないし、鍵が掛かっているので、誰も入れない。  しかし、俺として在学中に、ドアの左右に上手いこと力を加えれば開くことを発見してから、俺専用の秘密基地のように使っていたのだ。  空き教室のドアは、力の入れ具合は覚えていて、やはり簡単にドアは開いた。  そして、中に入って鍵をかけて、ドアを背に丸くなって、どうにかやつらが去っていくのを息を殺して待っていたのだった。  足音が消えて、ほっとして床に崩れ落ちたとき、雑然と荷物が置かれている教室の奥でカタンと音がした。  もしかして先客がいたのかと顔を上げた俺は、薄暗くてホコリっぽいこの部屋に天使を見たような気がして目をしばたたかせた。 「驚いた。君がこの部屋の開け方を知っていたとはね。お兄さんに聞いたの?」  遠くから見たことしかなく、しかも久しぶりに見る姿だったが、その強烈な印象に目は釘付けになった。  髪は地毛なのだろう薄い茶色で金髪に近いくらい、キリッと整った眉と高い鼻梁に、形の良い薄い唇。髪と同じく薄い茶色の瞳は遠くから見てもよく目立っていた。  幼い頃美術館で見た宗教画に出てくる大天使によく似ているとぼんやり思ってしまった。  ぼけっとして言葉がでない俺を、その男、瀬野尾飛鳥は訝しそうな目で見てきた。  お兄さんという言葉が出てきたことも訳が分からなかった。 「……お兄さんって……、兄を知っているの…?」 「は?何言っているんだ?」  二人の間に微妙な空気が流れた。もしかしたら、灯とはもともと友人関係で家族の話をしたのかもしれないと思って、慌てて何でもない間違えましたとごまかした。 「……ずいぶんと休んでいたけど、事故にあったって…。体はもう大丈夫なのか?」 「ああ、うん。体はね」 「体は……?」  思わず本音が出てしまい、俺は慌てて汗が吹き出してきた。瀬野尾は窓辺に立っていて、入り口とは距離があるのに、その存在感にすでに圧倒されてしまった。 「頭を少し打って記憶が曖昧なんだよ。兄はすぐ退院したけど、私は最近やっと気がついて……」 「兄って……、笹森先輩も怪我をしたのか!?大丈夫なのか!?」  瀬野尾の興味なさそうだった態度が急変して、窓辺に優雅に立っていたくせに、ずんずんと歩いて近くまで来てしまった。 「いっ……一緒に階段から落ちたんだよ!兄は元気でピンピンしているよ。大学生活エンジョイしてます!」 「……エンジョイ!?まっ…まさか……」  能面みたいに表情の乏しい印象だった男が、目を開いて驚いていて、もっと頭が混乱してきてしまった。 「あのさー、瀬野尾って、兄と親しかったっけ?」 「……特別親しくはないよ」  顎に手を当てて何か考えている仕草をしている瀬野尾を俺はじっと見てしまった。指一本まで綺麗に作られているように見える。神様、ちょっとこの人だけ力入れすぎじゃないですかと思ってしまうほどだ。 「瀬野尾……」 「え?」  こいつ自分の名前をなんで呼んでいるんだと思ったら、突然目線が向けられて、目がバッチリと合ってしまった。 「どうして、先輩じゃないんだ?笹森は俺のことをいつも先輩と呼んでいただろう」 「いっ…!!いやぁ……そういう気分だったというか……。ほら、記憶が曖昧で……」 「曖昧なくせによく名前が出てきたな」 「えっ……と、それは……覚えていた……というか……」  苦しい言い訳をしながら、なぜこいつにこんな質問責めに合わないといけないのか、理解ができなかった。  思いっきり怪しんだ目で見られていて、身の置き場がなかった。 「まあ…いいよ。早く元の生活に慣れるといいね」  しばらく観察するように見られていたが、興味がなくなったのか、さらっと言われたので俺は肩を撫で下ろした。 「ありがとうございます。あの、私、昼休み終わるまでここに隠れているので……、先輩、どうぞお先に」 「いつも引き連れている下僕達と別れることにしたのか?一波乱ありそうだな」 「………我慢しようかと思ってましたけど。やっぱりこんなことおかしいって……、特に人にお金を勝手に使われるのは……どうしても許せないんです」  俺が小学生の時、一家の大事件が起こった。大黒柱だった父が、親友と飲みの席で勝手に話をまとめて、借金の保証人になってしまった。  親友はこれ幸いと姿を消して、父には莫大な借金が残されてしまった。  それから借金を返すために必死に働いて体を壊した父は、中学の時にあっけなく他界してしまった。  お金というものは人を変えるものである。少額でも貸し借りしてはいけない。病床の父が俺に何度も言ってきた言葉だった。  兄として一家を守るためにこれだけは心して生きてくれと言われた。  だから、金銭の絡むことだけは容認できないのだ。 「へぇー、笹森変わったね。前は勝手にやらせておけばいい。私は知らないって言っていたのに」 「頭を打ったから、正常な思考が戻ったんです。とりあえず、今は逃げることしか考えられないけど、絶対やめさせないと……」 「ふーん、まぁ頑張って」  俺の頭をぽんと撫でてから、瀬野尾は鍵を開けて空き教室を出ていってしまった。  よく分からない男だったが、なぜか撫でられた頭がしばらく熱くて、不思議な気持ちになったのだった。  それからは、下僕達をなるべく避けて逃げる日々が続いた。空き教室だけだとバレるので、至るところに隠れてやり過ごした。  平行線の攻防が続いていたそんなとき、家に帰って来た灯が、興奮したように俺の部屋に怒鳴りこんできた。 「ちょっと!お兄ちゃん!俺のこと、先輩に言っただろ!」  宿題に勤しんでいたのに、急に手を止められて、俺もムッとした顔をした。 「先輩って、瀬野尾のこと?休んでいたこと大丈夫か聞かれたから、兄と事故にあったけど、二人とも無事だった話はしたけど」 「あーーー、話するなって言ったのに………」  頭を抱えて崩れ落ちてしまった灯を見て、俺は何事かと近寄って、とりあえずベッドに座らせた。 「今日、大学に来たんだよ、瀬野尾が」 「ええ!?様子を見にってこと?そっ…そんな、俺となんか話したこともないのに……」 「ただでさえあの容姿で目立ちまくりなのに、俺に話しかけてきて……、突っかかってくるから、榎田と小松沢も入ってきて乱闘騒ぎ寸前……、もう勘弁してくれよ……本当」  俺は先日空き教室で瀬野尾と話したことを思い出した。確かに兄の話をしたが、まさか会いにいくほど気になっていたとは意味が分からなかった。 「……なんとなくだけど、やばいかも。先輩……やっぱり……」 「なんだよ……。やばいって……なんの話だよ」  物言いたげな目で俺を見てきた灯だったが、俺はもう知らない、後はアニキに任せるわと、突然のアニキ呼ばわりでさっと立ち上がり出ていってしまった。  俺はぽかんとしながら、ますます嫌な予感がして、学校へ行くことが憂鬱になってきたのだった。  □□ 「こんなところに隠れていたんだね。笹森さん」 「げっ…」  ランダムに隠れ場所を変えていたが、ついに見つかってしまった。今日は中庭の植え込みに隠れていたが、先回りしてたらしい下僕達にまんまと見つかってしまった。 「どうして、僕達を避けるんだよ。今までずっと受け入れてくれていたのに…」 「なんでも好きなものを買ってあげるよ。なんでも命令を聞くから、逃げないでよ笹森さん」  どうやら隠れんぼはもう終わりらしい。逃げ続けても、彼らの気持ちは変わらないようだった。それならば、もう向き合うしかないと、俺は息を飲んで立ち上がった。 「もう、やめにしよう。こんなやり取りは不毛だ。好きな人と一緒にいたいと思うのは分かる。でも私は君達の気持ちに応えられない。というか、早く目を覚ましなさい!君達!いつまで女王様と下僕ごっこをしているだよ!高校生活なんてあっという間だよ。こんな一人の女に固執していないで、もっと色んな女の子を見てみろよ」 「笹森さん………」 「私だってよく分からないけどさ、でっデートとか楽しいみたいだよ。一緒に買い物行ったり遊園地行ったりさ、そういうのもっとしていこうよ。部活を頑張ってもいいじゃん!汗流して青春して……あぁもう、自分の熱さが嫌になってくるけど…、とにかく、お金を使うなら自分の将来のために使いなさいよ。こんな私にバラまくなんてお金が泣くわ!なんだと思ってんだよ、一円稼ぐの大変なんだからね!」  とにかく思っていたことを全部ぶちまけてやった。一応は人生の先輩として、全然尊敬される人間じゃないけれど、それでも道を示してあげることが必要だと思ったのだ。  俺は、肩を揺らしながらはぁはぁと息を切らしていた。探索隊の下僕は五名ほどいたが、皆ポカンとして固まっていた。 「さっ……笹森さん。俺達のことをそこまで…、姉御と呼んでいいですか?」 「はぁ?」  一人の男子が潤んだ目をしながら気がついたように前に出てきた。  そいつに続いて、次々と僕も俺もと名乗り出てきた。 「感動しました!姉御が人生の目標です!どうか、もっと叱ってください!」 「姉御の熱い説教をもっと…もっとください!」 「ひっ…そういうの…いいって!もういいから!」  自分の言葉など伝わらないとは思っていたが、斜め上の方向に伝わってしまった。  姉御姉御と呼ばれてまとわりついてくる男子達から逃げるように後退りしていたら、背中に弾力のあるちょっと固いものが当たった。 「こんなところにいたのか、いつもの場所で待っていたのに……。ツレない人だね、灯は……」 「へっ……わぁ!!」  急に後ろから包み込むように抱きしめられた。もがこうにも、ものすごい力で灯の柔な力ではどうにもできなかった。 「げっ!瀬野尾!」 「ああ、すっかりその呼び方が定着したね。というより、その呼び方が自然なのかな」 「はい!?」  突然現れた瀬野尾に抱きしめられている上に、灯と名前で呼ばれて、俺がパニックになっていると、姉御のピンチに舎弟達がざわざわと騒ぎ始めた。 「あの、もしかして……、お二人は…」 「ああ、付き合っているよ」 「は?なっ…なに勝手に……」  慌てて否定しようとした私の耳元で、瀬野尾が話を合わせておいた方が、彼らも諦めると思うよと囁いてきた。 「だっ……あっ……そっ……そうなんだ、実は……」 「まっ…まさか、瀬野尾先輩なんて!とても太刀打ち出来ない!」  全員揃ってヒーンと泣きながら、舎弟達は校舎の中へ走って行ってしまった。  慌ただしかった中庭は、二人きりになってやっと静かになった。 「おお、効果抜群。早めにこれやっておいても良かったね。でも灯相手だとやる気が起きなかったもので……」 「ちょっと、もう!あいつら行ったから、離して……」  まだ抱き締められていたので、もう離せと暴れたが、強い力で捕らえられていて、ビクともしなかった。 「まだだよ。俺に何か言うことあるんじゃない?」 「なっ…別に何も……」 「例えば君は灯じゃない、とかね」  瀬野尾の言葉にハッとして顔を上げると、薄茶色の人形みたいな瞳と目があってしまった。揺れることなど無さそうな強い瞳が、情欲の炎に燃えているように赤く見えて、俺の心臓はばくばくと揺れだした。 「はっ……、何を……バカなことを……」 「違和感しかなくて、確信が持てなかったけど、昨日大学まで行って本人に会ってきて、直ぐに分かったよ。あれは、笹森先輩じゃないって……」 「えっ…………」 「いけすかない男達と歩いていたから、最初はキレそうになったけど、俺を見て嫌そうな顔をしたあの顔は完全に灯だった。その時、違和感の正体が分かった。つい灯を問い詰めたら、余計な二人と喧嘩になりそうになったけど」 「あぁ…その話は…、お兄ちゃんから聞いて……」 「もういいよ。分かっているんだ。俺が好きな人を見間違うはずがないんだ。ね、笹森先輩」 「ああ、そうなの。…………って!ええ!?好きなって……」  意味がよく分からなくて普通に同意してしまったが、よく噛み砕いてみたらおかしなことを言っていたので、俺は大きな声を出して驚いてしまった。 「好きって…ああそうか。灯のことか……、瀬野尾、告白して灯にフラれたんだったな……」 「ついに認めましたね、笹森先輩。ついでに、聞き捨てならない台詞を聞いてしまって、直ぐにでも否定したいのですけど、いいですか?」 「あっ……」  つい誘導尋問のように、認めた内容を話してしまいもう否定のしようがなかった。瀬野尾の口調はすっかり後輩口調に変わってしまい、完全にバレたことが分かった。 「俺がいつ…、笹森に告白してフラれたんですかね。あいつがそう言ったんですか?」  瀬野尾の力は倍になってぎゅうぎゅうに締め付けてくるので、俺は苦しさにもがいた。どうやら、灯の話とどうも違うらしいと気がついた。 「いっ…ちょっと、痛いよ。だって、そう聞いたから……、事故の日、瀬野尾のことフったって。それで、面倒だから、近づいたり、話しかけてきても無視しろって……」 「ほぉ……、あいつ、そんなことを言って俺から先輩を遠ざけようと……。言っておきますけど、俺は笹森じゃなくて、先輩のことが好きなんです」 「は……?おっ……俺?」 「ええ、そうです。ずっと片思いしていて、大学に入ってからの様子は笹森から定期的に聞いていたし、たまに変装して見に行って、一人ぼっちでいる姿を見て安心して……」 「ちょっ……ちょっと、待って!え?灯も知っていたの?」  俺の混乱がピークに達したとき、昼休みが終わる鐘の音が鳴った。  仕方ないという風に瀬野尾は腕の力を弱めてくれたので、俺はやっと解放された。 「まだまだ、聞きたいことはお互いありますよね。放課後、あの場所で待ってます」 「え…あの場所って……」  険しい顔をしていた瀬野尾は、クスッと微笑んでから、後ろを向いて颯爽と歩いて行ってしまった。  姿勢のいい後ろ姿を見送りながら、俺は混乱で埋め尽くされていく心を呆然と見つめていたのだった。  ¨本当に可愛いね。あかりちゃん、おじさんと行こうね¨  ¨どこに行くの?¨  ¨楽しいところだよ¨  ¨やだ、帰りたい¨  ¨悪い子だね、悪い子にはお仕置きが必要だよ¨  バタンと教室のドアを誰かが勢いよく開けた音で、ハッとして意識が飛んでいたことに気がついた。どうやら、色々あって、疲れきっていたのか居眠りしてしまったらしい。  イビキはかいていなかったと願いたいが、どうも不快な夢を見ていた気がした。内容までは思い出せないけれど手に汗をかいていて、すっかり嫌な気分になった。  しかも、これからどうやら男の俺を好きだという、学校一のモテ男の話を聞きに行かなければいけない。灯のことが気になるのは確かだが、まるで嘘みたいな話に、からかわれているようでずんと足が重くなった。  彼ほどのスペックの持ち主がゲイだったことは驚きだった。確か、一年生の頃から女子との噂が絶えなかったはずだ。俺との接点なんてないと思う。もしかして、あの冴えない俺の外見に一目惚れしたなんて言われたら、それこそありえない話だ。  空き教室の扉をガラガラと開けると、瀬野尾はすでに窓辺に立って外を眺めていた。  無言でこちらを見ようともしないので、とりあえず、その背中に近づいていった。 「覚えていますか?ここは貴方の特等席だった。いつも、ここから外を眺めていましたよね」 「えっ…あ…そうだったかな。……瀬野尾、本当なのか?お前が男が好きっていうのは……」 「……男?……ああ、別にゲイではないです。男性と付き合ったことはありません。俺が好きなのは先輩であって、それがたまたま男性だったわけです。あっ、今は女性になりましたけど」  俺は予想外の答えに開いた口がふさがらなかった。結局ますます謎が深まってしまった。 「確認しますが、先輩と笹森は一緒に事故に、つまり階段から落ちて、目覚めたら体が入れ替わっていた。これは間違いないですか」 「あ…ああ、そうだ」  よく考えれば人に知られてもどうという話ではない。むしろ、瀬野尾のようにいきなり全面的に信じるタイプの方がおかしいと思う。何をバカなと笑うのが普通の感覚だろう。 「こういったことは前にも?」 「はっ…こんな事、何回もあってたまるか!初めて………」  ¨あかり、ぼくの手をにぎって。怖いことはみんな忘れてしまおう¨ 「先輩?」  頭を押さえて固まってしまった俺のもとに、心配そうな顔で瀬野尾が駆け寄ってきた。 「……大丈夫だ。ちょっと、疲れたみたいで立ち眩みがしただけだ。もう治ったから」 「先輩、無理しないで、今日は帰りましょう」  俺だって早く帰りたかったが、もやもやしていることをハッキリさせたかった。 「大丈夫……。教えてくれ、俺、瀬野尾と喋ったこともないよな?好きってどういう……?灯とはどういう繋がりだったんだ?」 「………猫」 「は?」 「喋ったことありますよ。俺、猫の仮面付けてましたけど」  瀬野尾の言葉に高校生活時代の思い出の一ページが浮かんできた。文化祭、仮面舞踏会と称して、全校生徒が楽しんでいた夜のイベント。当然ぼっちの俺は、この空き教室に入ってきて、片付けの時間まで時間をつぶすことにした。  皆に配られていた仮面はなぜか自分には配られなかった。多分空気過ぎて、学校の盛り上がりの中、完全に忘れ去られてしまったのだろう。  一人寂しく窓辺に座って夜の校庭を眺めていたら、窓の下に隠れるように寝転んでいる人を見つけて俺はぎょっとして驚いた。  猫の仮面をつけている男子生徒を見て、驚いたのだが、よく考えたらイベントの参加者なら付けている仮面だったので、ああそうかと納得したのだった。  一階の空き教室の窓側もまた、人の出入りは少なく隠れるには絶好のポイントだった。  ただ、コンクリートが冷たいことを除けば。 「……そこ、冷たくない?良かったら、中入る?って、ここ俺の家じゃないけど」  寝ているかと思っていたが、その猫仮面はもっそりと上半身を起こした。 「そこは鍵のかかった空き教室ですよね。どうして中にいるんですか?」 「……ちょっとした工夫かな。ドアの左右を持ち上げて力を入れるとカチっとね」 「……へぇー、悪い遊びですね。そういうの嫌いじゃないです」  猫仮面の表情は見えなかったけど、笑っているような気がした。  さっと立ち上がった猫仮面は、すっと簡単に窓をまたいで中に入ってきた。ずいぶんと背が高くて体格のいい男だった。  こんなイベントの日に、一人で寝転んでいるなんて、彼もまた自分と同じぼっちなのかと俺は親近感がわいた。 「ちょっと、ホコリっぽいけど、外のコンクリートよりマシだろう」  俺はすでに自分の秘密基地と化していた場所を男に案内した。 「ちょうどいい隠れ場所ですね。俺に教えてもいいんですか?」 「もともと俺の持ち物じゃないし、それに…、なんか、他人と思えなくて……」 「俺が?ですか?」  きょとんとしているような、男の手をごく自然に握ってしまった。なんだか、一人で寂しそうに見えたからだ。 「大丈夫!言わなくても分かる!寂しくてつらいことがあった時、誰かにこうやって手を握られるとホッとするだろう。俺もつらいことがあったときこうやって慰めてもらったから」  猫仮面は無言で俺に手を握られるままになって突っ立っていた。もしかしたらいきなり触られて、不快に思われているかもと俺はそこでやっと気がついた。 「ごめっ…急に掴んだりして!悪いな、俺、人付き合い悪くて……、距離感とか分からなくて……」 「……いえ、いいです。なぜだろう…、嫌な気分はしませんでした。むしろ……」 「………むしろ?」 「……元気が出ました」 「そうか!それは良かった」  俺はなんだか、気分が良くなってとびきりの笑顔で笑った。相手が猫仮面だからか、普段の人見知りも出てこなかった。  その夜以来、たまに猫仮面は空き教室に遊びに来てよく、話をした。なぜかずっと仮面を付けたままなのは気になったが、同じ人見知りなのだと思っていた。  □ 「え!? おっ…お前!あの猫仮面のやつか!?」 「そうですよ。思い出してくれました?本当は卒業の日、告白したくてここで待っていたのに、来てくれませんでしたよね。まさか、荷物を置きっぱなしで卒業されるとは思いませんでした」 「あっ…そういえば……、早く帰りたくて、すっかり忘れてた。ゲーム機とか、どこでなくしたのかと思ってたよ……」  ぷっと噴き出した瀬野尾は、大きな口を開けて笑った。完璧な美青年の見せた幼い笑顔に俺の目は釘付けになった。心臓の音がやけに騒いで聞こえた。 「先輩らしいですね。いいなぁ、そういうところ好きだ」 「だっ…ばっ…バカ」  ドキドキしているところに、油を注がれた気分だった。こんなに直接的に好意を向けられたのなど初めてで、しかも男なのに、全然思考が追いつかなかった。  顔が熱くて、真っ赤になってしまった俺を見て、瀬野尾はクスリと笑って、可愛いと言ってきた。  またもや、心臓を掴まれて揺さぶられたが、そこで俺はふと疑問がわいてきてしまった。 「まっ……待て、この体は、灯なんだぞ。瀬野尾の話だと、その……好きなのは、伊織の方なんだろう……。でも体は灯だから、気持ちが切り替えられるものなのか…?」 「もちろん中身を好きになったのですが……正直に言うと最初は複雑な気持ちになりました。ですが、今の貴方は灯には見えないです」 「で…でも体は…どう見ても…」 「おどおどする姿も、驚いた表情も焦る顔も困った表情も、灯ではない。俺がずっと見てきた先輩の顔です。だから……、気持ちは変わりません」  俺は最近の灯の姿を思い出した。俺の姿をしているくせに、もう全然別人になってしまったかのように見えた。もしかしたら、瀬野尾の目にも同じように映っているのかもしれない。 「笹森は周りの環境に疲れて、生きづらそうにしていました。そのことで相談に乗ってあげたこともあります。もちろん、先輩の近況を教えてもらう交換条件でしたから、友人と呼ぶには違うかもしれません。笹森と話していても気持ちが高ぶることなどなかった。だけど、今の俺は……、貴方が先輩だから、苦しいくらい心臓がドキドキしています」 「そっ…そんなに……?俺のこと?あの頃、少し話していたくらいなのに……」 「初めて会ったとき、俺は家のことで色々あって、学校ではどこへ行っても誰かに追いかけられて、心が疲れきっていました。でもそれを認めたくなかったし、だれにも弱味を見せたくなかった。でも、先輩の温かさに触れたとき、あぁつらかったんだなって…自分の中に落ちてきたんです。そしたら、すごい楽になった。それからは、素直に自分の意見を言えるようになった。先輩のおかげです。それからは、いつも目で追ってしまい、目が離せなくなった。先輩のことを考えるだけでドキドキして、夜は先輩を思って自分を慰めて……」  熱い告白が熱烈すぎる告白になってきて、俺は慌てて瀬野尾の口を手でふさいだ。 「分かったよ、もう分かったから!それ以上言うな!」  口をふさいでいた俺の手を瀬野尾は優しく外したが、手首を掴んだまま離さなかった。 「俺ばっかりだ。先輩にもこの気持ちがうつってしまえばいいのに……」  そう言った瀬野尾に手を引かれてバランスを崩した俺は、瀬野尾の胸に飛び込むようなかたちになってしまった。  驚いて顔を見上げた俺の唇に、瀬野尾は自分の唇を重ねてきた。それは想像していた以上に柔らかくて温かかった。 「んっ…んん!!」  角度を変えて深く唇が重なった時、それが唇だと認識して俺は慌てて声を出した。押し返そうと力を入れたら、思いのほかアッサリと瀬野尾の唇も体も離れていった。 「今日はこのくらいにしておきます。また明日、放課後ここに来てください」 「……はっ!来るわけな……」 「待ってます。俺、待ってますから」  そう言い残して、瀬野尾は教室から出ていってしまった。  突然落とされた雷のような衝撃に、俺の足元はふらついて床に崩れ落ちてしまった。  唇に残された熱さが、だんだんと体に染み込んでいくの感じていた。それは指で押さえても止まることはなく体の奥にあるナニかを呼び覚ましてしまいそうで、俺は震えながら目をつぶったのだった。  □□ 「はぁ!?全部バレてキスされたの!?アイツと!?」  帰宅してから明らかに態度がおかしかった俺は、すぐに灯に見抜かれて問い詰められた。気まずくて言いたくはなかったが、灯の体でもあるので仕方なくキスをしたことを話した。 「あーーーー!やっぱり!手を出すと思った!自分の体だったから複雑だーーー。アイツ変態ストーカーだからね」 「へっ…変態ストーカーって……」 「だって、そうだろ。俺からアニキの情報聞き出して、話さないとすごいしつこくてうるさいし、時々大学まで見に行ってたんだぜ、ストーカーだよ。一見虫も殺さないような顔しているくせに、虫殺しまくりだよ。蚊をめっちゃ叩いてるところ見たし!」 「蚊は…刺されてたら…普通じゃ……」 「とにかく!アイツ、アニキが思っているようなやつじゃないから。マジで近づかない方がいいよ」  最近の灯はすっかり男口調になってしまった。だんだんと伊織になっていく灯を見ると、なんとも言えない気持ちになった。 「わっ…分かってるよ……。それより灯さ、最近変な夢見ない?」 「夢?」 「よく……思い出せないんだけど、あまりいいものじゃなくて……」  事故の後遺症なのか、俺は最近眠ると悪夢にうなされるようになっていた。内容はよく覚えていないけど、とても嫌な気持ちになるのだ。 「疲れているんだよ、アニキ。今日は早めに寝ろよ」 「うん……」  目を細めた灯は優しい顔をして笑っていた。そして、俺の頭をぽんぽんと撫でて、先に風呂入るからと行ってしまった。  なんだか、この感じがすごく懐かしくて不思議な気持ちになった。灯に頭を撫でられて慰められたことなどないはずなのに。  まるで、落としてしまった大事なものを探すみたいに俺は胸の辺りをしばらく撫でていたのだった。  ¨あかり、あかり。そんなに泣かないで。大丈夫、お兄ちゃんがまもってあげるから。怖い怖いのきもちはなくなるよ¨  ¨こわいの、もうやだ¨  ¨大丈夫だよ、手をつなごう、ほら手を……¨  朝の柔らかい日差しが顔に当たって俺は目を覚ました。顔に濡れた感触がして、手を這わせると、それが涙であることが分かって俺は飛び起きた。 「な…なんだこれ。なんで泣いているんだ……俺」  また夢を見ていた気がする。でもそれは悪夢ではなくて、温かい優しい夢だった。  目を閉じると、ぬるま湯みたいな温かさに包まれた日の記憶がぼんやりと浮かんできた。  その記憶の中で俺は、手をつないでいた。見上げると父と母が歩いていて、俺の隣には……。 「灯?いつまで寝てるの?母さん、今日から出張だから、家誰もいないからね。お金、台所にあるから」  ぼんやりしていたら、母がドアを開けて顔を覗かせてきた。 「おはよう、母さん。大阪だっけ。あれ?お兄ちゃんは?」 「ゼミの冬季合宿だって。女の子一人だから心配だわ。やっぱりおばあちゃんに来てもらおうか」 「いいよ。おばあちゃん、ここまで来るのに大変だって言ってたから。大丈夫、早く帰って、戸締まりしっかりして寝るから」  電話してねと言い残して、新幹線に乗り遅れると言いながら母はバタバタと大荷物で出ていってしまった。  朝からやけにぼーっとしているが、日中もずっとそんな感じだった。クラスの連中は、瀬野尾と付き合ってます宣言が効いて、明らかに近づいてくる者は少なくなった。  まだ姉御と呼ばれてキッと睨み付けると、嬉しそうな悲鳴を上げる変態が数名いるが見なかったことにしている。  午後を過ぎる頃になると、やけに熱っぽくなってきて、本格的に体調がよくない状況になってきた。  なんとか授業を最後まで受けて、帰ろうとして、ふと瀬野尾のことを思い出した。  とりあえず、無視して帰ってずっと待たれているのも寝覚めが悪いので、空き教室に向かった。 「先輩、来てくれたんですね」 「ああ」  ガラガラと空き教室のドアを開けると、俺の顔を見た瀬野尾がスタスタと近づいてきた。 「いつもの取り巻きは?今まで誰も気がつかなかったんですか?ひどい顔色だ」  瀬野尾にがしっと肩を掴まれて支えられたら、今まで気を張っていたものがなくなって、瀬野尾にもたれ掛かるように体を預けてしまった。  おでこを触られて熱をはかられると、瀬野尾はこれは熱いと顔をしかめた。 「病院に寄ってから、家まで送ります。お家の方に連絡を……」 「今日は一人なんだ……。母さんは出張で帰りは明後日だし、あ…灯は、ゼミの合宿で明日の夜には……」 「事情があるとはいえ、女の子一人で留守番なんて無用心ですね。今日はうちへ来てください。診療所もすぐ下ですから」 「わっ…ちょ…せの……!!」  しっかり掴まってくださいと持ち上げられて、お姫様だっこをされてしまった。こんなの誰かに見られたら恥ずかしすぎると暴れたかったが、熱で体の力は入らなくて落ちないように瀬野尾に掴まることで精一杯だった。  学校を出てタクシーに乗せられてから下りたのは、大きな建物の前で一階には瀬野尾診療所という看板がついていた。 「あれ…?瀬野尾の家って病院だったの?」 「正確には叔父の病院です。俺は建物の四階に住まわせてもらっているので、診察が終わったらすぐに移動しましょう」  病院はすでに外来が終了していたが、瀬野尾が声をかけて叔父さんと思われる先生がすぐに対応してくれた。  簡単な診察を終えて、ただの風邪であると言われて薬をもらった。その後は瀬野尾家に移動して、部屋着を借りて着替えたらベッドに寝かされた。 「ごめ……インフルでもないし、ただの風邪だったし、これからでも家に……」 「何を言ってるんですか、俺は一人暮らしだから気にする必要ないです。薬は飲みましたね。夕食を作るのでその間、少し寝てください」 「あ…う……ん、ほん……あり…と…」  おでこに冷えピタをつけられて、大きな手で優しく頭を撫でられていたら、すっかりうとうとしてしまった。  瀬野尾の手は冷たくて、熱をもった頭にはとても気持ちよく感じて、そのまま眠りに入ったのだった。  ¨ほら、こうやって手をつなぐと、温かいでしょう。大丈夫、イヤなことはぜんぶ忘れちゃえばいいんだ¨  ¨おにいちゃん、こわいよ。またあのひと、くる。こわい¨  ¨かわいそうに、あかり。お兄ちゃんがかわってあげる。お兄ちゃんがあかりになって、苦しい気持ちなくしてあげるから¨  ¨おにいちゃんが、あかりになるの?¨  ¨そうだよ。こうやって手をつないで眠ろう。目を開けたら、あかりはお兄ちゃんになるんだ。そしたら、もう怖くないから。お兄ちゃんがまもってあげる¨  ¨うん、わたしがおにいちゃんになっても、ずっとそばにいてね¨  急速に夢から目覚めた俺は今度こそ夢を覚えていた。暗闇の中でうなされながらもがいていると、バタンとドアが開いて誰かが部屋に入ってくる気配がした。 「先輩、大丈夫ですか?声が聞こえましたけど」 「ん……瀬野尾?……なんで、瀬野尾が俺の部屋に……」 「今日学校で体調が悪くなって、家は誰もいないみたいなので、うちに来てもらったんです」 「ああ、そうだ。そうだったな……瀬野尾、聞いて欲しいことがあるんだ」  とりあえずなにか食べてからにしましょうと、瀬野尾が作ってくれたお粥を食べた。しっかりだしの味がきいていて、普段から料理を作っているところが想像できた。  お茶碗一杯食べてから、水分を取らされた。やっぱり寝ていた方がという瀬野尾に、忘れてしまうからと言って、ベッドから出ないことを条件に話を聞いてもらえることになった。 「実はここのところ、ずっと変な夢を見ていたんだ。目覚めるとよく覚えていなくて、気持ちが悪い感じだったんだけど、さっき見た夢は覚えていて……、やっとどういうことか分かった気がする」  ベッドサイドの椅子に腰掛けた瀬野尾は、軽く頷いてこちらを見ていた。自分ひとりでは整理できなかったので、聞いてくれるだけでありがたかった。 「実は灯は幼稚園の時、誘拐されかけているんだ。俺も詳しくは知らなかったけど、幼稚園バスの運転手に連れていかれそうになって、その場に兄もいたとか。兄だけ残されて、その様子がおかしいと気がついた他の大人が声をかけて、遠くへ連れ去られる寸前で助かったと母から聞いた」 「誘拐ですか……先輩も近くにいたなんて、怖い思いをしましたね」 「………それが、今まで何も覚えていなかったんだ。灯は四歳だったけど、俺は六歳だったはずだ。そんな、強烈なこと、覚えていないなんておかしいだろう」 「自己防衛とも考えられますね。つらい記憶を頭から消すことで、自分を守る」  瀬野尾の意見は考えられることだった。多分その要素も入っているのではないかと俺は考えていた。 「それが、事故で目が覚めてから、見始めた夢はどうもその時のことらしくて……、ずっと曖昧だったけど、今日の夢でそれが繋がったんだよ。つまり、俺の記憶だと、誘拐されたのは俺なんだ」 「……先輩が?」 「とにかく、俺はずっと怖がっている。それを慰めてくれたのは灯、じゃなくて、兄だった。ずっと怯え続ける俺に、ある夜、兄はおまじないをかけてくれるんだ。自分が灯になって、灯がお兄ちゃんになるから、そうすれば灯の怖いのはなくなるからって……」 「……ということは、先輩は最初から灯で、笹森は伊織だった。事故で元に戻った……」 「そう!きっと、先に目覚めていた兄は気がついていたはず……」  それを聞いた瀬野尾はポケットからスマホを取り出して、どこかに電話をかけ始めた。 「ちょうどいい、今日のことも伝えるつもりだったし」  暫くして電話に出たらしい兄と瀬野尾は話し始めたが、なにやら揉めているらしいので、もうスピーカーにしてくれと頼んだ。 「……から、灯にふざけたことしたら、ただじゃおかねーって言ってんだよ!自分の家に連れ込むなんてお前がそんな手を……」 「待って!俺は体調不良で瀬野尾に助けてもらったんだよ。変なこと言うのやめろって」 「げっ!灯!!たっ…体調は大丈夫なのか?」 「薬を飲んで少し寝たからね。それより、昔の入れ替わりについて思い出したんだよ。つまり、これが二度目で元に戻ったってことだろう。俺より先に目覚めたなら、もう知っていたんだろ、なんで知っていたのに教えてくれなかったんだよ!」 「………そんなの、当たり前だろう。灯にとってはつらい記憶だ。思い出さない方がいいじゃないか。それに……、もし、思い出して…つらくて…やっぱり伊織に戻りたいって言われたら……俺……」  電話口から聞こえてきた声は少し震えていた。俺はずっと聞きたくても聞けなかったことを今しかないと思って口にすることにした。 「あの時、なんで、泣いていたの兄さん。あの階段でこっちに向かって走ってきた兄さんの目には涙があったよね。それがずっと気になっていたんだ」 「……覚えていたんだね。俺も灯と入れ替わったことずっと忘れて生きていた。いつも、自分は本当の自分じゃないような気がして、生きづらくて苦しかった。………そうだよ。あの日どうにもできないくらい苦しくなって階段から飛ぼうと思ったんだ……。本当はフリくらいで終わらせるつもりもあったけど。まさか灯がいると思わなくて……本当にひどいことを……」 「兄さん……だって……兄さんは俺を助けるために……」 「伊織になってからの生活は全てから解放されて夢のようだった。だんだん昔の記憶が戻って、怖くなったんだ。灯が記憶を取り戻してやっぱり元に戻りたいって言われたら……物理的には無理でも……灯の心に傷を作ってしまうと思うと……俺、何も言えなくて……本当にごめん」  最後は消え入りそうな声になってしまった兄の言葉に、俺は胸にじんわりと染みていくものを感じていた。それは優しかった兄を慕う気持ちだった。 「謝ることないよ、当たり前だろう。もともとは兄さんの体だったんだから。今まで身代わりになってくれて、ありがとう。長い間気がつかなくてつらい思いをさせたね。記憶を思い出してよく分かったよ。兄さんは俺を一生懸命守ってくれていた。すごく温かくて……幸せだった。戻りたいとか傷ついたなんて思わない。感謝しかないよ」 「あ…灯」 「良かった。これで、兄さんの人生ちゃんとスタートできるよね。応援しているよ。もちろん、俺もちゃんとしないとね、自分の人生なんだから、頑張るよ」  兄の返事を聞く前に、そこで瀬野尾が通話を切り替えてしまった。 「話はまとまったな。とりあえず病人と長話は終わりだ。帰ってきてから、よく話し合ってくれよ。………ああ、分かっている。……さぁ、それは知らない。あーはいはい、とりあえず切るぞ!」  電話口から兄のわめく声が聞こえたが、瀬野尾は電話を切ってしまった。そして、何も聞かず、早く寝てくださいと言って布団をかけてきた。 「ごめん、何から何まで迷惑かけて……」 「気にしないでください、先輩。体で返してもらいますから」 「また、もう、そういうこと言って。お前のことだんだん分かってきたよ。瀬野尾って、本当いいやつだよな」 「………また、それを言います?けっこうトラウマなんだけどなぁ」 「え?」  無駄話は終わりですと言われて、薬を飲まされてまた布団をかけられて、電気まで消されてしまった。薬が効いてきたのか、次第にふわふわとした気持ちになってよく眠れそうだった。  蝉の声が聞こえた。  もうすぐ始まる夏休みに生徒の心は浮き足立っていて、教室のいたるところで遊びの予定で友人同士話が盛り上がっていた。  なんとなく足が向いて、空き教室に行ってみると、猫仮面が珍しく先に来て本を読んでいた。 「そんな仮面つけてて見えづらくないの?」 「大丈夫です。しっかり見えます」 「外せばいいのに、人見知りって言っても、さすがにそろそろ慣れないか?」 「これを外すときは、この時って決めているんです」  どんな時だよとツッコんだ俺に、内緒ですと猫仮面は返してきた。  たまにふらりと現れては、訳の分からないことを言うやつで、最近は少し面白くなってきたのだ。 「お前さ、夏休みどこか行くの?」 「どこも行きません。塾と図書館くらいですね」 「友達とかと遊びに行かないのか?ほら……か…彼女とかさ……」 「行きません。彼女もいませんし」 「ふ…ふーん」  そうかと言った後に沈黙が流れた。自分以外にも誰とも遊ぶ予定のないやつがいて、俺は内心喜んでいた。  花火とか海とかそんな予定に浮かれているやつが、実は心の底から羨ましかった。かといって一人で行くには空しすぎて、憧れていたのだ。 「……先輩は遊びの約束とかあるんですか?」 「あーないない。俺、ぼっちだし、バイトして終わり………」 「……………」 「………なんだよ。なんか言ってくれよ。恥ずかしいだろ」  若干言葉に切なさが滲んでいたのか、可哀想な目で見られている気がして、俺は小さくなった。まあ、そういうこやつも似たようなものだが。 「………俺が免許取ったら、先輩を一番に乗せて海に連れていってあげますよ。夏だったら花火も見て、遊園地に行って、観覧車もいいですね」 「男二人でか?いやぁー、野郎と二人は嫌だな」 「………そう、ですか」  男二人の空しさを想像してさらりと断ってしまったが、よく考えたら、猫仮面が言った場所はすべて俺の憧れの場所だった。  心を読み取られたわけではないと思うが、誘ってくれたことは嬉しかった。 「いや、でも、誘ってくれてありがとう。お前さ、いいやつだな」 「いっ……いいやつですか………」 「おう!いいやつだよ。本当ありがとう!夏休み頑張れる気がする!」 「それは良かったです。……しかし、いいやつは……」 「なに?」 「いいえ、何でもないです」  空気を入れ換えようと窓を開けたら、蝉の声がぶぁっと入ってきて、夏が来たなと嬉しくなった。実は一番好きな季節なのだ。  なんの予定もないけど、今年は楽しく過ごせるかもと希望が湧いて俺は鼻唄を歌いだした。何も言わずに本を読んでいたが猫仮面は微笑んでいるような気がした。 「先輩、おはようございます。気分はどうですか?」 「んっ…あぁ……瀬野尾……今何時?」 「もう、十時半です。よく寝ていましたから。ん……、熱は下がりましたね」  ピッピッと鳴った体温計を見て瀬野尾はホッとした顔をした。  すぐにスポーツドリンクを飲まされ、フルーツを口に入れられた。 「それじゃ、着替えましょうか。お手伝いしますから」 「えっ…いいよ。もう動けるし」 「遠慮しないでください。心は長らく同じ男だったわけですから」 「は?そういう問題じゃ……あっ…ちょっと!」  多少残っただるさが動きを鈍くしていて、簡単にパジャマのボタンを外されてしまった。 「……先輩、すごいビショビショじゃないですか」 「変なこと言うな!当たり前だろ、汗かいたんだから……ばっ……おい!どこ触って……」  前ボタンが外されてすぐ、いつの間にか瀬野尾は俺の背後にまわって、後ろから手を侵入させて俺の胸を触ってきた。 「灯の体に戻ってどうですか?やっぱり、最初は観察しちゃいました?それとも、こうやって自分で触ってみたりしました?」 「ばが……するわけないだろ。はっ…離せって……はぁっんん、だっ……だめぇ……」  円を描くように揉みながら愛撫してきた瀬野尾は、やがて胸の蕾を指で刺激しながらこりこりと遊ぶようにつまんできた。  パジャマの前は完全にはだけて、下着を着ていなかったので、白い乳房が丸出しになっている。それを瀬野尾の大きな手で両方大事そうに掴まれているのは、何とも言えない光景だった。 「はぁ…可愛いな…先輩。今日はやめておこうと思ったけど、俺のベッドで寝ている先輩なんて……もう、夢のシチュエーション過ぎて我慢できない!」 「せ……のぉ……、ばか……もう…あっあああ!!」  瀬野尾の手が下半身の伸びてきて、ズボンの中に入り込んできた。下着の上から花唇をなぞられて、ゾクゾクとした快感が込み上げてきて、俺は胸を反らした。  今度は下着の中に手をいれて、たっぷりと溢れた蜜を確かめるように瀬野尾は指でかき回した。 「ほら、やっぱり。こんなに濡れていますよ。汗じゃないですよね。だってこんなに糸引いているんだから……」 「や………見せるなよ!そんなの……きたな……」 「どうしてですか?先輩のモノなら俺は何だって嬉しいです」  見せつけていた指をパクリと口に入れて愛液を綺麗に舐めとってしまった瀬野尾に、俺は驚きすぎて言葉がでなかった。 「……先輩、俺の分かるでしょう。先輩の中に入りたくてもうはち切れそう。パンパンで痛いです……」  前ボタンを外した時にすでに瀬野尾の下半身の変化は感じていた。後ろから密着されてそれはもう完全に分かるぐらい、固さまでリアルに感じる。 「でも、先輩に俺はいいやつとしか思われてないから……、我慢します。せめて、指で先輩のこと、気持ち良くさせたい。ダメですか?」  童貞の俺の知識なんて、所詮ネットで見たエッチな動画くらいのものしかない。  たぶん指でイカされるとかそういうことだろう。  こんな状態になっても、だめだと言えば、瀬野尾はきっとやめてくれる。  でも、もしかしてそれに傷ついて、もう俺から離れてしまうとしたら。別の女の子に手を出そうとする瀬野尾を想像して、俺の頭はモヤモヤしてきてしまった。  もとの俺を知っていて、俺の秘密も知っていて、それでも俺がいいと求めてくれるのは、瀬野尾ぐらいだろう。 「……瀬野尾、前に俺を誘ってくれたやつ。すぐ断っちゃったけどさ、あの誘いまだ有効かな?」 「え……、ドライブで海へってやつですか?夏休みに免許取りましたけど、取っただけでまだ誰も……」 「そっかぁ…良かった。じゃあ、今さらだけど連れていってよ。俺、瀬野尾と行きたい…。他のやつとか考えられないわ」   「はっ…あの…それって……あの、もしかして……」  モテモテでみんなの憧れの人、天使とか貴公子とか呼ばれているこの男が、頬を染めて目を白黒させて焦っている姿は何とも言えず可愛らしかった。 「あれかな。きっとあのキスで、お前の気持ち、うつっちゃった。とか言ったら信じる?」 「信じます!先輩とお付き合いできるなら、悪魔の誘いでもなんでも信じます!魂だって奪われても構わないです!」 「ははっ…大袈裟だなぁ。ほら…俺も気持ちは…まだ男だからさ。それ……入れていいよ」 「……色気のない誘い方ですね。照れてないでちゃんと言ってください!大事なことですよ!」  耳元で瀬野尾に囁かれた台詞に、俺は口から砂糖が出そうになって真っ赤になった。しかし、俺も気持ちが高ぶってきて、今日は熱の名残のせいにして思いきって口にしてみた。 「お願い……、私のナカに入れて……、我慢できないの……。あ…飛鳥が欲しい」 「ああ……!先輩!最高です!今、ちょっと、というか、ほぼイッちゃいました」 「はぁ!?」 「大丈夫です。若いですから、ほらもう元気になりました。一応今日は無理させないように……頑張ります」  興奮した顔で俺の上にのし掛かってきた瀬野尾を見て、やっぱりやめておこうかなとチラッと出てきた言葉は、すぐに口づけに奪われてしまった。熱い交わりの始まりを予感させるキスだけで俺の頭はとろとろになってしまったのだった。 「んっ…あ……せの……、はぁはぁ…も……だめ…」 「また、イッちゃうんですか?先輩。本当、感じやすくてエロい体ですね。といいつつ、俺もゴム三個目ですけど……。まぁ…いいですよね」  パンパンと後ろから音を立てながら責められて、あっけなく俺のナカはビクビクと揺れて、瀬野尾をぎゅうぎゅうと締め付けた。その動きがたまらなかったらしく、瀬野尾もまた腰を奥まで突き入れた後ぴたりと止めて、ナカにどくどくと注ぎ込んだ。 「せの……も………むりぃ……イキすぎて、体おかし…ビクビクして……止まんな……」 「はぁ…先輩……可愛すぎます……!あ……だめだ……また……」 「えぇ…うっ嘘!?も……ほんとに壊れちゃ……」 「先輩!俺の愛を受け止めてくれるんですよね。俺だってもう止まらないです」 「はははっ……絶倫って……死ぬ………」  病み上がりのはずが、ちゃっかり四回目がスタートしてしまい、俺はまた熱が上がるような気がしてきた。  この後、結局散々喘がされて声はかれて、やっと解放されて家に帰ると、帰宅した兄さんがやっぱりと言って気絶して倒れることになる。  兄としてすっかり自覚が出てしまったらしく、その後も瀬野尾との付き合いには色々と口も手も出されることになるのだった。 「見て見て!瀬野尾!あそこに見える島、無人島かな!探検したいなぁ」  海岸沿いの道を散歩中、久しぶりに見た海に興奮して大きな声を出してしまったので、隣にいたカップルに、何あの子と言われてクスクスと笑われてしまった。 「………先輩、あなたはまたこんなところで、可愛すぎること言ってるんですか?」 「だっ……いや、つい興奮しちゃって……」 「ただでさえ、変な男に目をつけられやすいんですから気をつけてください」 「分かってるって!ねねねっあっちに行こう!船が見たい!」  瀬野尾の腕をぐいぐい引っ張りながら、俺はもっと海の近くまで寄ってみた。もうすぐ春と言えど、この時期の海風は冷たかった。  無事に卒業式を終えて、瀬野尾は約束通り俺を車の助手席に乗せて海に連れてきてくれた。  遠くにぼんやりと見える船を見ながら、俺は瀬野尾を見上げた。 「瀬野尾、卒業おめでとう。大学生かぁ……。もう学校にいないと思うと寂しくなるな……」 「それ、一年前の俺の気持ちですよ。俺だって寂しいです。ちゃんと週末はデートしてくださいね」  冷たい海風にぶるりと震えたら、瀬野尾はコートの合わせを取って後ろから包むように抱きしめてくれた。こうやって抱きしめられると、すぐに体は温まる。そして心もぽかぽかとして幸せな気持ちになる。瀬野尾はそれを教えてくれた。 「瀬野尾さ………そろそろ、先輩って呼ぶのやめろよ。結局俺が灯だったわけだし……。ずっと喋り方も敬語っていうのも……、ほら、一応後輩なわけじゃん」 「先輩呼びも、敬語も慣れちゃってるんですよねー。でも、分かりました。先輩が俺のことも名前で呼んでくれたら、俺も直しますよ」  瀬野尾を名前で呼ぶのはどうも照れくさかったのだ。しかし、灯として生きていくのだから、いつまでも男言葉を使っていたら、ちょっとイタい子になってしまう。 「……飛鳥」 「なに?灯」  名前なんてどうでもいいと思っていたが、実際お互い呼びあうと胸がぽっと熱くなって、愛しい気持ちが溢れてきた。  瀬野尾のことは、もうとっくに好きでたまらないのだが、これも照れくさくてなかなか口にできなかった。ちゃんと名前を口にしたことで、なんだかその殻みたいものが破れた気がした。 「好き」 「えっ……」 「飛鳥、好きだよ」 「…せんぱ……」  せっかく名前を呼び合ったのに、すぐに先輩呼びになってしまった瀬野尾に呆れたが、当人は真っ赤になって顔を押さえていた。  そういえば、アレのときも、俺を責めながら好きだと言ってくれと散々言われていたが、恥ずかしいと言って口にできなかったのだ。真っ赤になって涙目の瀬野尾は、どうやら、嬉しいを通り越して感動しているかの様子だった。 「こんな時に……反則です……どうしてくれるんですか」 「へ?」  瀬野尾が後ろから腰を擦り付けてきた。お尻に当たる感触に俺は驚いてビクッとなった。 「なっ…ばか……こんなところで、なにデカくしてんだよ!」 「先輩が悪いんですよ。こんなところで興奮させるから……、今なら誰もいませんから、ぜひその可愛いお口で慰めてください」 「アホ!するわけないだろ!日中に外だぞ!」 「じゃあ、予定変更です。水族館はまた今度にして、このままラブホテルに直行しましょう!」 「え!?だっ…今から?まだお昼前なのに!?」  今日はそういうつもりで、友人の家に泊まってくると伝えてあるが、まさか午前中からしけこむことになるとは予想外だった。  瀬野尾に手を引かれながら駐車場向かって歩いていく途中、ぶつぶつと文句を言う俺を見て、瀬野尾は愛しそうに微笑んだ。 「そんな顔しないで。今日は灯を退屈させないように、たくさん玩具も持ってきたから、いっぱい遊ぼうね」 「玩具ってそれ……ゲームとかじゃないよな?」 「もちろん、大人の玩具」 「なっ……!!」  逃げ出しそうな勢いで後ろに引いた俺の肩を、逃がさないように瀬野尾はしっかり掴んできてきた。 「灯はイヤイヤ言いながら、実はとってもエロいから、興味があるんだろ?」 「ばか!…そ…そんなの……ないし!」 「へぇー…、じゃあ、やっぱり遊ぶのはやめようか……」 「えっ…」  つい漏らしてしまった残念そうな声を、しっかり聞き取った瀬野尾はニヤリと笑ってから、じゃ行きましょうと言って俺の頬にキスをした。  海浜公園の駐車場には、冬の残りの冷たい風が吹いていたが、俺と瀬野尾の周りだけ春が訪れたみたい甘い暖かさに包まれた。  幼い頃の入れ替わり、時を経て本来の体に戻った俺と兄は、戸惑いながらもそれぞれの人生を歩み始めた。  すっかり慣れてしまった兄に比べて、俺はまだまだ男が抜けていなくて、これから慣れるかどうかも分からないけれど、隣にゆっくりと歩調を合わせてくれる人がいるので、安心して焦らず進んでいこうと思えるのだ。  甘い雰囲気を漂わせながら車に乗り込んだ俺達は、もっと甘い場所に向かって車を走らせた。  後部座席に謎の袋が置いてあって、それがアレなのかと俺はついじっと見てしまった。  その中に、懐かしの猫仮面を見つけた俺は思わず声を上げてしまった。 「あれ、あの時の仮面だろ。なんであの袋の中に……」 「それはもちろん、あの頃にもどってね……」 「へ?どういうこと?」 「やっぱり先輩って呼ぶの、結構気に入ってるんですよね。これからもベッドの上では呼ばせてください。それで、今日はその仮面をつけて………たくさん遊びましょう」  運転しながらニヤニヤと笑う瀬野尾を見て、やっと兄が言っていた変態という意味が分かった気がした。 「……瀬野尾って、もしかして、結構変態入ってんの?」 「あれ?今ごろ気がつきました?じゃあ、これからは遠慮なく出していくので、よろしくお願いしますね」 「そんなこと、よろしくするな!」  青い海を横目に、車は快適に長く細い道路を進んで行った。まだ窓を開けるには早いが、暖かくなったら、窓を全開にして海風を吸い込むのもいいと思った。  長く細い道路を進むみたいに、灯としての人生はこれから、色んなことが待ち受けているだろう。瀬野尾が隣にいてくれるなら、どこまでも進んでいけるような気がした。時々運転を代わってもいい。願わくは、お互いをずっと大切に思い合える関係でありたいと思った。 「先輩、ずっと一緒にいましょうね」  瀬野尾に先輩と呼ばれるのは、やっぱり好きだなと思いながら、そうだなと言って俺は微笑んだ。  □完□
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