Y先生の入学式 第二話

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Y先生の入学式 第二話

 自分の生徒と初めて向き合う、この日のために、二週間もかけて、教室の四方の壁の飾りつけをしてきた。正面の黒板の上には、『みんなの目標』と題して、『誰とでも仲良く学べる元気な子』と青い文字で大きく書いておいた。きわめて単純で、どうとでも取れる標語だが、保護者さんたちは、あんな単純な文句に心躍らされたり、元気づけられたりするものだ。文章の中身はどうでもいい。左右の壁の飾りつけはどうだろうか? 左側の壁は赤とピンクの壁紙に『みんなのゆめ』と記しておいた。後日、生徒一人ひとりに自分の将来の夢を文章と絵で表現してもらい、それを出席番号順に貼り付けていくのだ。おそらくは、室内の雰囲気が賑やかになるだろう。それにしても、こうみていくと、教室内の壁紙は赤系統の色の割合が多く、少し派手すぎたかもしれない。今からでは、もう変えられないが……。  次は、生徒の側から見て、左前方にある戸棚の上に目が向いた。ここには、生徒たちが休憩時間に遊ぶためのパズルや絵本、それにぬいぐるみなどが置いてある。もちろん、実費で購入したものだ。学校側は1%でも無駄だと感じたものには、費用を出してはくれない。それは別に良いのだが、戸棚の一番左端に横幅20センチほどの、不自然な隙間があることに気がついた。あの部分は何のために空けてあるのだっけ……? そういえば、二週間ほど前に、元六年生の卒業式後の謝恩会があったようで、そのゲームのひとつのアイテムとして使いたいから貸してくれという依頼があったはずだ……。こちらは入学式の準備に集中していて、てんてこまいであったから、ほとんど意識もなく、手渡してしまったのだ……。すぐに返せと言っておけば良かった……。後悔先に立たずという奴だが、まさか、他人の所有物をこんなに長く戻さない奴がいるとは、そのときは、露ほども考えていなかった。その図太い神経には恐れ入る。今から、そのおバカ教師のもとに走っていっても、今さら、どうにもなるまい。むしろ、教室を開けてしまうリスクの方が大きい。せめて、昨日気づいていれば、まだ、どうにかなったのだが……。 『あら、どうしたの? お母さんが恋しくなっちゃったのかな? ほら、ここに可愛いクマさんがいるよ。一緒に居てくれるって、がんばろうね』  緊張の連続に耐えきれず、泣き出してしまった坊やに、私が走り寄っていって、あのフカフカのぬいぐるみを手渡すシーンが、もしあれば、我がクラスの対面式の質は何段階も上がっていただろうに……。返す返すも悔やまれる。  今一度時計を見た。心はもう愛らしい子供たちと対面を果たしているのだが、現実でいえば、その時までは、まだ少しの時間がかかりそうだ。この微秒な合間を利用して、もう一度だけ、生徒の名前の呼び方をチェックしておこう。一人で練習する場では、ペラペラと舌が回っても、本番の緊張の中では、様々な不測の事態が起こり得る……。最近はどうも、どの親御さんも自分の子供に難しい名前をつけすぎる。愛情を抱いているのは伝わってくるのだが……。凝った名前のつけ方一つで、これからの未来が幸福に傾くとでも思っているのだろうか。読みづらい名前の子には、名簿にフリガナをふっておいたが、今日のような緊張する場面では、上手く口が動くかはわからない……。親御さんたちも自分の子供の名前が呼ばれる瞬間を、今か今かと待っているわけで……。特に件の二人のお子様については、どんな予期せぬ事故が遭ったとしても、呼び間違えるわけにはいかない……。もしかしたら、県議会議員様本人も、今日この場に来ておられるかもしれない。その場合、なおさら失敗は許されなくなる……。  そう、生徒は一人ひとりが、かけがえのない宝だといわれている……。私も脳の右半分では、おおよそ、それを認めている。常識の側からいえば、教師たるもの、贔屓や差別などを、決して許してはならない……。可能性の一つとして、空想することすら許されない……。我らは陪審員以上に、国民にとって平等でなければならない……。しかし、私の心の大海原には、二週間前の校長先生の価値あるお言葉が、今もぷかぷかと浮いている……。 『先生には期待しています』『先生には期待しています』『先生には期待しています』  これは重い言葉だ……。やはり、例の二人のお子さんには、どうあっても、特別扱いをしなければなるまい……。教師の品格など、後回しだ……。銀行の副頭取のお孫さんか……。きちんとしたしつけや教育は受けているだろうが、理解力の方は果たしてどうなのだろうか……? テストの点数が少し足りなくても、こちらの方で、少しでも上乗せして差し上げなければ……。しかしながら、目を覆いたくなるほど、出来の悪いお子さんだったらどうしようか……。クラスで孤立などしないように、相談に乗って差し上げて、頻繁に声をかけてあげる必要があるだろう。 『大丈夫ですよ。小学校での競争で負けてしまっても、貴方様は立派な進路を歩めるのです。何しろ、周りの生徒とは、生まれも育ちもまったく違いますからね。進学や就職については、親族の方々のコネを使えば、どうにでもなりますし、そもそも、大人になってしまえば、歴史や数論なんて一切使わない知識ですからね。社会に出てしまえば、多少のおバカでもOKです!』  だめだ、だめだ、純朴な子どもに、そんな嫌らしい言葉をかければ、余計に恥をかかせることになってしまう! 幼い頃に教師からかけられた辛辣な言葉は、やがて、深い心の傷となり、長年にわたって、脳裏に刻まれてしまうものなのだ。自分の無能が、担任の教師に余計な心配をかけてしまった……、などと一ミリたりとも思わせてはならない。教師が発する一言一言の重みは、相手方の人生にも加算されていくのだ。  お二人の通知表については、念のためにテストの出来不出来に関わらず、毎回オール5にしておいたほうがいいだろう……。校長先生のお言葉にもあった、『恥をかかせるな』というフレーズは、きっと、そういう意味合いに違いない。しかし、余りに贔屓が過ぎると、今度は他の生徒の保護者からだって、反発のクレームはくるかもしれない。この市内の小学校の規則では、最高評価である5をつけてあげられるのは、クラスで成績上位2~3名の生徒だけである。 『先生、なぜうちの子はテストでいつも満点をとっているのに、5の評価を付けて頂けないんでしょうか?』  うるさ型の父兄は保護者会の席において、当然、そういう突っ込みをしてくるに決まっている。社会に出てしまえば、家柄次第で当然地位や待遇に大きな差が生まれてくるわけだが、小学校の時分から、大した理由もないのに明確な差をつけるわけにはいかないか……。 『ありふれた家に生まれ育った、おたくらの子供に色目を使ってみても、私にとって何の得にもならないからですよ』  そう厳しく反論してやりたいところだが、それはとても出来ない……。反駁の余地のない説得力のあるセリフをなるべく冷静に……。野望と人情の狭間で揺れる、教師の微妙な心模様を、どのように表現すれば良いのだろうか? 『皆さん、申し訳ありません……。うちのクラスは特に優秀な生徒さんが多く集まっていて、テストの点数だけでは、なかなか差がつきません。そこで、それ以外の要素、例えば、授業中の態度や普段からの礼節、あるいは忘れ物の有無なども含めた上で、総合的に評価させて頂いております』  そう応じておけば、納得してもらえるだろうか。対した家柄でもない、一般庶民の父兄など皆単細胞だ。我が子が社会に出てからのことなど、深く考えているはずはない。ただ、自分の子供の可愛さの余り、他の子供より劣っている部分が有りはしないかと余計な不安にさい悩まされているだけなのだ。『運動はよく出来ています』『歌についてはとても上手いですよ』『面白い話題でクラスの雰囲気を良くしてくれます』などと、ちょっとおだて上げれば、わけなく解決するだろう。この程度の嘘ならば、さして心を傷めることもなく、口から出てくるはずだ。ただ、クラスの生徒全員の長所を、(それが存在するかもわからぬのに)逐一見つけていくことは、途方もなく、しんどいことなのだ……。  そうだ、通知表よりも先に考えておかねばならないことがあった。5月の半ばに家庭訪問という一大行事があるのだ。銀行の副頭取のご自宅に、自分で直接出向くことになるのか。かなり緊張するイベントだが……、これを上手く利用できれば、思いもかけないチャンスにもなる。上流家庭の方々に自分の人柄や知性をアピールすることができれば、校長先生にも教育委員会のお偉方にも、非常にいい印象となって伝わっていくだろう。それにはまず、第一印象が重要になる。人間は、特に上流社会においては、たいていの場合、人間の知性や才覚は外見において判断されるものだ。それほど選択肢は多くないが、友人の結婚式のときに無理をして購入した、一張羅のドレスを着ていくしかないか……。しかし、今からクリーニングに出したところで、果たして間に合うものだろうか。それに、色も少し派手だし、特別なイベントとはいえ遊びに行くわけではない。この季節には向かないような気もしてきた。二番手扱いの水色のワンピースでもいいだろうか? いや、だめだ、だめだ、そんな安っぽい服装で、副頭取様の豪邸の門をくぐることは許されない……。ボーナス前でもあり、懐具合からすれば、一番嫌な季節だが……、背に腹は変えられない。やはり、上品なスーツを新調した方がいいのだろう。  時は5月、新緑の季節。お預かりしたお子さんと一ヶ月ほども向き合っていないうちに、能力の話まではしづらい……。出会しなにあまり褒め過ぎるのも不自然である。初めは、ご自宅の周りの風景の美しさなどを話題にするのが良いだろう。広い庭には、血統書付きの大きな犬がつがいで飼われているかもしれない……。チャイムを押すと、中から使用人の方が慌ただしく飛び出して来て、私は奥の居間に案内されるのだろう。豪華なソファー、壁には美しい絵画、隅の方にはグランドピアノが備えられている。黒檀の棚にはボルドーの高級酒がずらりと並んでいて……。私は促されるままに静かにソファーに腰を沈める。高級なお茶菓子をつまんでいるあいだに緊張も解け、雰囲気が良くなってくれば、先方の方から、にこやかにこう話しかけてくるかもしれない。 『先生、そろそろ、お堅い話はおやめになって、正直なところを聴かせてくださいよ。実際のところ、うちの子供はどうなんです? 他の子とは上手くやれていますか? 何か迷惑をかけていませんか?』  などと尋ねられたらどうしよう……。正直に話してしまうと、途端に空気が悪くなってしまうかもしれない。かと言って、根拠もなく褒めちぎるのは、余りにもわざとらしい……。会話の流れを、どういう方向に持っていこうか……。期待とか成長という単語を織り交ぜていければ、悪くない報告になりそうだが。 『迷惑だなんてとんでもありません。とても人あたりのいいお子さんで、他の生徒にも好かれているんですよ』  とりあえず、そう答えておけばいいだろう。その後の流れによって、どういう方向にも、もっていける。 『うちの子の可能性といいますか、将来に向けての才能という点についてはどうでしょう?』  そんな深刻な質問を浴びせられる確率はきわめて低いだろうが、そんな難しい問いかけがきたならば、どう切り返すべきだろう……。今のうちから、巧妙な回答を考えておく必要がある。 『RK君はですね、卓越した詩文の才能に恵まれ……、計算能力でも他の生徒を圧倒し、芸術の分野にもし進まれれば、いずれは人間国宝間違いなし、運動では比類なき体力を見せつけ……、人間関係の面では類まれな包容力と深い愛情によって、このクラスを、いや、この学校の生徒全員を温かく包み込み……、とにかく、近年稀に見る、素晴らしいお子さんです』  これではまるで結婚式の祝辞のようで、かなり大げさに思える……。機嫌取りをしていれば良いというものでもない。ただ、5月の本番までには、まだ少し時間もあるし、これから話す内容を考慮しつつ、まとめていくことも可能だろう。大事なことは、このくらいの気を使うのは、例のお二人のご家庭だけだということ。他の生徒の家への訪問は、服装などテキトーでもいい。暑ければ、Tシャツとジーパンでもいい。会話の内容も天気と最近発生した地震の話ぐらいで切り上げてもいいだろう。四十人も玉石混交の生徒がいる、我がクラス全員の家で、毎回同じことをしていたら、精神衰弱してしまう。教師とは修行僧ではないのだ……。
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