Y先生の入学式 第一話

1/1
前へ
/3ページ
次へ

Y先生の入学式 第一話

 入学を祝う一大式典は無事に終わった。まったく文句のつけようもない、素晴らしい式典だった。会場として使用された、体育館の後ろ半分を、上品なスーツやドレスに身を包んだ、保護者さんたちが、隙間なくびっしりと埋めて、ステージの壇上には赤い花の胸章をお付けになられた、来賓の方々が可愛らしい生徒たちを眺めながら、にこやかな表情浮かべて座っておられた。満開の胡蝶蘭たちがステージを華やかに彩り、会場は式典の始めから終わりまで、それはもう、絵も言われぬ華やかさと緊張感に包まれたのだ。  それにしても、まさか市長様が直々においでくださるとは思ってもみなかった。というのは、今回、同日同時刻に式を執り行う学校は市内に六校もある。数週間前までは、市の中心部に近く、学生の数も最大級である、S小学校の方に参加されるのでは、という憶測が流れていた。それも致し方のないところか、と人知れず落ち込んでいたのだが、大方の予想を覆して、うちの学校に来ていただけたからには、我が校の校長先生らによる、影の努力があってこそだったのだろう。何かしらの強力な便宜をはかっていただけたに違いない。  新入生たちは、初めて目にする学校という景色におっかなびっくり……。すっかり怖気付いた様子で、いつもの元気もなく、辺りをきょろきょろと見回しながら、体育館の中央をはしる花道を、まったく落ち着かない様子で行進して……、まるで、動物園のイベントで行進する、皇帝ペンギンの群れのようにも見えた。生徒らの周囲には、色とりどりのチュウリップの鉢植えが飾られ、それが新入生たちをより華やかに、そして、可愛らしく見せていたのだ。  本日の主役である、新入生たちが入場してくると、会場で待機していた、保護者さんたちも、動揺を抑えきれないように、ざわざわとして……。我が子を御自慢のカメラに収めようと、皆少しずつ身体をよじらせながら、前に座っている保護者の後頭部を何とか避けながら、体育館の前方方向に視線を集中させていた。そして、式典は前方の壁に貼られている式次第に沿って、順調に進められていった。司会に選ばれた教務主任の先生の進行は、嫌味や無駄がなく、丁寧で説明的で有り、とても良かったと思う。あと何年かの後には、私もあの場所に……。  式も半ばに差し掛かり、新入生のクラスを受け持つ担任が、一人ずつ名前を呼ばれて、生徒や保護者さんに向けて紹介されて……。やがて、二組の私の番が来ると、その名前が高々と告げられた……。ここで怖気付いてはいけない。私はなるべく余計な音を立てずに、椅子からスッと立ち上がり、まずは、ステージの来賓のお歴々に一礼した後、ゆっくりと保護者さんの方に向き直り、もう一度、深々と頭を下げた……。私の姿は親御さんたちの目には、どのように映ったのだろうか? 期待どおりであったなら、良いのだが……。会場の奥からは、パラパラと慰め程度の拍手が耳に届いてきた。視点は定まっていただろうか、足元は震えていなかっただろうか?  そして、式典は無事に終わった。私は今、一人で教室に佇み、少し慌ただしい空気の中で、今日からは人生の教え子となる、愛らしい子供たちが入ってくるのを楽しみに待っているわけである。子供たちは式を無事に終えて、ちょうど今頃、上級生たちに先導されながら、体育館を後にすると、そのまま、事前に用意されていた別室に案内されているはずだ。そして、明日の授業から、さっそく使用することになる、新品の教科書のセットを受け取っている頃合だろう。これは、今までは自宅の限られた範囲だけを自由に跳ね回っていた天使たちが、ようやく両親の手を離れて、学徒になった証でもある。おそらく、あと十分か十五分ほどで、賑やかな生徒たちの列は、この場に現れ、教室は新入生とその保護者様で埋め尽くされることだろう。この日を最も待ち望んでいた人間として、胸は高鳴る。しかし、心地よい鼓動だ。大丈夫、大丈夫、この大イベントが来る、この日までを、無為に過ごしてきたわけではない。空いている時間さえあれば、何度も何度も、今日この日の対話や行動の一つひとつを頭に思い浮かべ、シミュレーションしてきたではないか。この鼓動は決して不安ではない。少し、気持ちが高ぶっているだけだ。  心の準備はすでにできている。入学式という人生の一大イベントにおいて、多少テンションが高くなってしまうのは、主役である子供たちも、保護者様たちも皆一緒だ。全ての生徒の家庭環境が、まともであるという幻想、あるいは、全ての子が緊張により縮こまっているという錯覚は、大きな誤りである。場をわきまえずに、うるさく騒ぎだす子が何人もいるかもしれない。ひとりの錯乱は不安という電波となって伝わり、やがては教室全体に伝染していく恐れがある。考えたくはないが、最悪の場合、教室内部は狂喜乱舞のお祭り騒ぎとなってしまうのかも……。逆に緊張によって全身が石像のように強張ってしまい、口も聞けなくなってしまう子もいるかもしれない……。ひとりっ子で甘やかされて育ったために、みんなと中々打ち解けない生徒さんもいるかもしれない。人見知りというのは、決して、特定の人にだけ与えられる特性ではない。私のこれまでの経験によれば、人生初めての特殊な体験によって、容易に引き起こされる、きわめてありふれたものである。初めて勉学を体験する子供たちの反応は、大小様々である。例え、どんなに不可解な特徴を持った生徒さんがいたとしても、私が優秀な指揮官となって、この航路上を上手く導いてやらねば……。『受け持ちのクラスを上手くまとめられているか?』それが教師の評価の多くを占めている。外部から透けて見えてしまう部分については、差別やいじめなどがあってはならない。とにかく、印象の良い、明るく平穏なクラスに育てなければ……。  気持ちの準備もすでに万端であるが、生徒たちはまだ現れない。私は少し落ち着かない気持ちになり、自然と足が動き出した。教室前方の扉をそっと開いてみた。そのまま、少し首を伸ばして、長い廊下を覗いてみた。まだ生徒や保護者様たちの姿は見えず、子供っぽい騒ぎ声も聞こえてこなかった。今頃、上級生たちに校歌を教わっているのだろうか? 想像を膨らませていくと、微笑ましく、楽しみも湧いてくるのだ。  私はこのとき、あの日の出来事が脳裏に蘇ってきた。二週間前の夕方、私一人が何の前触れも無しに、校長室へと呼び出されることになった。予期せぬことに、驚きを隠せなかった。三月の中旬という微妙な時期だけに、良くも悪くも考えられるのだろうが、思い当たることは、まったくなかった。ノックをして室中に入っていくと、校長先生は私に背を向け、しばし無言のまま、窓の外の風景を眺めておられた。部屋の電気はついていなかった。カーテンの隙間から、夕日の橙色の光線が差し込んでいた。 『よろしいですか? 今年は先生のクラスに、お二人、入られますから』  私が部屋に入ってきた気配を感じると、校長先生は開口一番に、そのようなことを言われた。その台詞だけでは、どのような意図を持った発言なのか、理解することは難しかった。不意を突かれてしまい、しどろもどろに返答した。 『お二人? 私のクラスの受け持ちは三十二名のはずですが……』  校長はその返事を聞くと、何を馬鹿なことを……、とでも言うように、ふんと鼻を鳴らすと、悠然とこちらを振り返った。いつものように、日々騒然としている教育現場とは無縁の、余裕あふれる表情をされていた。口元には毒はなく、にこやかに笑っておられた。ただ、その瞳はとても厳しい光を放っていた。ああ、このお方は生徒たちの教育者ではなく、この重要な機構の管理者として、ここにおられるのだ……。 『あなたのクラスに入られる、RK君は地銀の副頭取のお孫さんです。言うまでもなく、この地方では、かなり大きな影響力を持たれています。そして、もう一人、MT君は与党改進党の県議会議員の御三男様です。この学校のすべての教室にクーラーが設置されたのも、運動場が数千万円もかけて整備されたのも、この御方のご助力があったからなのですよ。いいですか、先生? このお二人のお子さんについては、決して、恥をかかせるようなことをなさってはいけませんよ』  私は重く緊張した面持ちで話をそこまで伺い、ようやく、自分の重大な使命を理解した。そして、『慎んでお受けいたします』と、力強くお答えしたものだ。丁寧に一礼をして、部屋を出ていこうとする私に、校長先生は背後から、まるで唄うような口ぶりで声をかけてきた。 『教師というのは素晴らしい職業です。未来に輝く人の過去の道筋に、我々が携われるわけです。貴女にとっての大きな一歩にして下さい。先生には期待しています』  教師であるからには、生徒を平等に扱わなければならないし、どんなに手のつけられない落ちこぼれであれ、どんなに恵まれない家庭の生徒であれ、客観的には、決して差別してはならない。私だってそのくらいのことはよくわかっている。しかし、そんな常識的なルールを守っていくこと以上に大切なのは、教育委員会や、我が校の校長先生に認められることである。二年間の間、このクラスを上手く乗り切れば、やがては教務主任にもなれるだろうか? 教頭や校長への出世も、試験の結果以上に、教育委員会のお偉方へのコネの方がよっぽど重要なのだと、噂には聞いている……。だめだ、だめだ、今日この日だけは、そんな薄汚れたことを考えてはならない……。どの生徒の保護者さんにも、私の最初の話を聞いて頂き、『これは教育熱心な先生だ。この方ならば、安心して我が子を任せられる』と、感嘆していただき、帰ってもらわねば……。
/3ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加