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遭遇
───僕は、物語が嫌いだ。
鳴り止まない蝉の声。まだ朝だというのにギラギラと照りつける太陽のせいで、ようやく数日前に半袖になったワイシャツが汗で張り付いて気持ち悪い。ただでさえ足取りが重い通学路が、これから当面の間こんな調子なのかと思うとうんざりしてくる。
修行か?と訊きたくなる重量の通学カバンをよいせと背負い直すと、背中をつうと汗が伝った。教室に着く頃には、きっとシャツはぐっしょりだろう。想像して、重苦しい溜息が零れる。考えても仕方ない憂鬱に蓋をする為に、僕はまた適当な方向に思考を飛ばすことにした。
物語が嫌い。僕にとってこれは事実だ。しかしだからといって、全く本を読まない訳ではない。寧ろ四六時中読んでいると言ってもおかしくはないかもしれない。怪談にミステリに伝記、ファンタジーに冒険譚。休み時間や放課後はいつも図書室で借りたそれらを読み漁って過ごす。だからもっと正しく言い換えるとするならば、僕は───物語の"主人公"って奴らが大嫌いなのだ。
あいつらは皆、世界は希望に満ちていると思っている。輝かしい未来なんてものに胸を躍らせて日々を送っている。まるでそれが当たり前みたいに。そういう奴らの物語を読む度、僕みたいな人間の人生は誰にも見られる価値のないつまらないものだと指を指されているような気分になる。ここまで考えた所で、いつか姉さんに「あんた、そんなだから中学生にもなって友達の1人もできないのよ」と呆れ顔で言われたのを思い出した。多分その通りなんだろう。そしてこれからも、きっと。
「あれ〜?おっかしいなぁ。確かこの辺だったと思うんだけど」
と、突然頭上から独り言にしてはやや大きすぎる声が降ってきた。芝居がかったそれを不審に思って上を見上げる。するとなんということだろう。視線の先、そびえ立つ電柱のてっぺんに何故か───女の人が一人、立っていた。
「…え?」
見間違いかと目を擦り、もう一度見る。うん、まだいる。暑さで脳味噌が茹だったせいで幻覚を見ている訳ではないらしい。僕がそんなことをしている間にも、その人は何か呟きながらキョロキョロと辺りを見回している。しかも今度は、片足をひょいと上げて爪先立ちになり、さらに遠くを見ようと身を乗り出し始めた。不安定に揺れるその体には、見たところ命綱のようなものは付いていない。
「ちょ、あ、あの!!」
「ん?」
思わず、声を掛けてしまった。久しぶりに出した大声に、その人がくるりとこちらを向く。頭の後ろの方で括られた黒いポニーテールがふわりと靡いた。
「あ、えぇと…危ないですよ!」
慌てて言葉を続けながら、僕はまた少し驚いていた。振り返ったその顔が、飛行船に乗る人がするような大きなゴーグルを着けていたからだ。更に距離が遠いのもあって、表情がよくわからない。その人は少しの間、短いハーフパンツから覗く長い脚をぷらぷらさせて僕を見ていたが、なんと不意にぴょんっと片足で踏み切って電柱から飛び降りた!
「わぁっ?!」
「よっと。どうも、こんにちは!」
普通なら絶対に大怪我をする高さだというのに、なんてことない様子で着地してみせた彼女はケロリと笑う。黒のタンクトップに包まれた腰に巻き付けている工具入れのようなベルトが、ガチャン!と音を立てた。
「ねぇねぇ君、ちょっと訊きたいことがあるんだけれど」
「え?はい」
「この辺で、このくらいの大きさの箱っぽいやつ見なかった?」
このくらい、と白い手がバスケットボール程の大きさの四角を空中に描きながら言う。この辺で、って道端に落っこちてたりしなかったかということだろうか。そんなに大きなものだったら、落ちてたら流石に気付いたと思う。
「…見てないです。」
「マジ?困ったなぁ〜絶対どっかにはあるはずなのに」
「…落し物なら、交番とか行ってみたらどうですか?この近くにありますよ」
「いや、それは多分無駄なんだよねぇ」
「はい?」
「だってアレ、私のこと見える人じゃないと触れないし」
ビシリ、と自分の体が凍りついたように固まったのがわかった。今この人、なんて言った?
「…じゃあ、僕はこれで」
「ちょい待て待て少年」
なんとか回れ右しようとした所を、背負っていたカバンを掴まれて止められた。暑さによるものだった汗が、冷や汗に変わっている。いやだって今。この人なんかおかしなことを。
「大丈夫大丈夫、私幽霊とかじゃないから」
「離してください、僕もう行かないと」
「待って本当に困ってるんだって!ちょっとだけだから、話聞いて!」
「無理です、これから学校あるので」
「少しくらい良いじゃん!何、今日どうしても行かなきゃならない行事でもあるの?!」
彼女の口から半ばヤケクソといった声色で放たれたその台詞で、ぐぐぐ、と前後に綱引きのように引っ張り合っていた体勢からふっと力が抜けた。反応が間に合わなかったらしく、後ろから「おわっ?!」という悲鳴が聞こえたのと同時に勢いのまま引っ張られ、2人揃って硬い道路に尻もちをついた。
「いったぁ〜…急に何、」
「そんなのないです」
「え?」
「…どうしても行かなきゃならない所なんて、ないです。」
…初対面の知らない人(人なのかすらも今となっては怪しい)に僕は、何を言っているのだろうか。口に出してしまってからふつふつと後悔の念が押し寄せる。
転んだ拍子に地面に着いた手のひらがじわりと痛んだ。血が出ているかもしれない。でも全部がぼんやりとして、どうでもいいような気分だった。
一緒に転んだはずの女の人は、いつの間にか立ち上がっていた。パンパン、と服に付いた砂埃を払う音がする。
居た堪れない気持ちで顔も上げられずにいると、目の前の地面に影が落ちた。のろのろと視線を上げると、大きな茶色い瞳と目が合った。顔のほとんどを覆っていたゴーグルを額までずらした彼女が、しゃがみ込んで僕を見つめている。僕が何も言えずにいると、引き結ばれていた口がゆっくりと開いた。
「君はなんだか、何もかもがつまらなくて、嫌で仕方ないって言いたそうな顔をしているね」
「……え」
「学校で誰かにひどいことでもされたのかい?」
こてん、と白い顔が小首を傾げて訊く。少しだけ顔の周りに垂れた黒髪が、さらりと零れた。
「……いや、別にそういう訳じゃ…」
「ふぅん?」
初めて向けられた明け透けな問い掛けにしどろもどろになっていると、その様子を眺めていた彼女が突然「決めた!」と言って立ち上がった。
「君、私と一緒においでよ」
「…はい?」
「さっき言っただろ?今私は少々困っていてね。君に手伝って欲しいんだ」
どう?と手を差し出される。
…ついていくべきじゃないことは分かっていた。明らかに変な人だし、もう行かなければ始業のベルが鳴ってしまう。
───だけど。
「よし、じゃあ行こうか!」
僕は気付けば、その手を取っていた。
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