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「ねぇ、覚えてる?」
今日も店の奥まったソファー席から聞こえてくるのは、同じ台詞だ。
ベイリーは珈琲の入った器を木の盆に乗せると、飴色の床をコツコツと音を立て進んだ。
「お待たせしました、アンセット婦人」
こくりと頭を垂れた拍子にシルバーグレイの髪が一房肩から流れ落ちる。
マリア・アンセット婦人は毎月決まった日、この古ぼけた料理店に訪れる客だ。
この店は祖父が始めそのあとを父が、数年前にベイリーが継いだ店だ。
余計な詮索はせず、珈琲を届けると厨房へ戻る。
昼時を過ぎたこの時間帯、客はマリアだけ。だからマリアの独り言は狭い店内、厨房にいようがベイリーの耳に届いてしまう。
だが当事者のマリアはそんな事も気にせず、口を開けば語り掛けるように独り言を話す。
「あの日の貴方ったら家に時計を忘れたと言って……」
独り言、否、正確に言えばそれはある物に語り掛けている。
「うふふ、そんな物よかったのに……」
彼女は微笑むと皺の浮いた骨ばった手を伸ばし、テーブルの上に置いてある人形の肩から腕の辺りを指でなぞった。愛しそうに目を細め何度も何度も。
その人形は豊かなブルネットの髪をテーブルへ垂らし、マリアと同じ翠色の瞳は虚空を見つめていた。
陶磁器のような白い肌の上には深紅のベルベットのドレスを着て、腰をテーブルに付け足を伸ばし座っている。ドレスと同じ色の硝子の靴を履いていた。
「そう、そう言えばあの雨の日には……」
語り掛ける口調はまるで恋人に対するような甘いものなのに、その対象は無機質な人形。
そして。
「トマス、ねぇ、覚えてる?」
名前は男のものなのに。
その人形はどう見ても女だ。
人形を恋人に見立てているのかと思っていたが、そうではない。聞いた事がないので知らないが、人形は恋人から貰った物なのかもしれない。
彼女が訪れるようになったのはもうずっと昔、祖父の時代からだから40年近くだ。もしかしたら祖父や父はマリアに尋ねたのかも知れないが、ベイリーは聞いた事がなかった。
だが、ずっと興味はあった。
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