番外

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猫の日+バレンタイン 「え!? 今日ってそういう日じゃないのか!?」 俺とヨハンの家であるアルヴァレス邸の玄関で夫を迎え入れると、彼は俺の顔を見るなり笑顔のままフリーズしてしまった。それを見て俺は自分の失態を疑い始めたわけだが、肝心のヨハンは固まったままだ。 どうして固まったのか理由はわからないが、何に気を取られているのかはわかる。固まりながらも目線は俺の頭についている白っぽくてふわふわとしたカチューシャに向いているから、多分これだろう。 「な、何か間違ってたか? だって、今日は日頃の感謝を込めて、猫の装いをして年少者が歳上の家族に甘いものをプレゼントする日だろう?」 「…………誰からそう聞いたのかな?」 たっぷり30秒は固まったあとようやく動き出したヨハンが俺の肩を掴む。少し痛いくらいの力だ。僅かに身動ぎをするとそれが伝わったのか、彼は慌てて手を離し痛むそこを撫でた。相変わらず細かな心遣いが行き届いている。 優しい夫殿に擦り寄って顔を押し付けると、ヨハンは俺を抱き寄せて頭を撫でてくれた。 「兄に。子供の頃からそう教わってきたし毎年父と兄にしてたのに、ひょっとして違ったのか?」 「なるほど……」 ヨハンは外套を使用人に預け、そのまま俺の肩を抱いて歩き出す。いつもなら俺がしてあげることだが、今日は手に荷物を抱えていてできなかったからだ。 「まず、甘いものをプレゼントするというのは君の実家で扱っている催事の一つだね。僕が知る限り、始まりはセルトー家やその他の商会が催し事好きの貴族を相手に作り出したマーケティング戦略の一つだよ。僕が物心ついた頃には既に市民にまで定着したお決まりの行事だったはずだ」 ヨハンはゆっくりとした口調だが俺が口を挟む余裕がないほど詰めて一息に喋ると、そこで一度止まった。 「尤も、その日自体は一週間ほど前に過ぎているのだが」 「うっ、そ、それは……悪かった」 そう、バレンタインと呼ばれるその日は今から一週間以上前の話だ。 その日俺は実家に帰っていたから邸の様子を知らない。あとからルーファスに聞いた話によれば、その日ヨハンは心なしかいつもより早めに仕事を切り上げると、俺が実家に戻り帰らないことを知って膝から崩れ落ちたらしい。俺が朝から居ないことも気づかないほど集中して仕事を終わらせたのだろう。 「いいや、いいんだ。大切な従妹の為だものね」 ヨハンの灰色の瞳がほの暗い色を帯びる。 悪いことをしたと思っている。しかし、俺にも俺の言い分があった。毎年その日はエミリアちゃんが俺たち一家にチョコレートをプレゼントしてくれるのだ。それも去年まではおばさんが買ったものをエミリアちゃんが渡す方針でいたが、今年で7歳の誕生日を迎えるエミリアちゃんは一味違った。なんと、エミリアちゃんがお手伝いした手作りチョコを俺に用意してくれたのだ。 「僕も小さな子を相手に嫉妬するわけにはいかないが、あまり思い出したくはないね。君があまりにも喜ぶものだから……」 ウッと言葉に詰まる。 俺は大いに喜び、初めて邸を訪れたのと同じくらい勢いよく帰宅してすぐ夫婦の寝室に飛び込みヨハンにそのことを報告した。まだ早朝だったのにも関わらずもう起きていた──おそらくは一睡もしていないのが見て取れる目の下に濃い隈を作った──ヨハンに抱きつき事の次第を説明すると、彼は僅かに泣いていた。 そこで気がついた。ヨハンにとっての俺は、俺にとってのエミリアちゃんだ。俺はエミリアちゃんからプレゼントを貰えたらこんなにも舞い上がってしまうし、無かったらとても落ち込む。落ち込むどころでは済まなかっただろう。俺は自分の夫にむごいことをしてしまった酷い妻だ。 悪いことをしたと思っている。だから、これは俺なりの埋め合わせだった。当日から外れてしまったが、そもそもセルトー家のバレンタイン自体エミリアちゃんは当日に、俺はその翌週にとずらされているからこれが通常なのだ。 「だ、だから今日用意したんだ。バレンタイン」 「ありがとう、嬉しいよ。それで、その耳は何か聞いてもいいかな?」 俺の歩幅に合わせたゆったりとした足取りで向かったのはヨハンの書斎だった。一つ扉を隔てて夫婦の寝室へと繋がっている。 ここに俺を連れて来るときは大抵、二人きりで話をしたいがまだ『そういうこと』をするには陽が高い時間帯という意味だ。結婚前はあれだけ真昼から盛るような真似をしていたくせに、俺を妻と呼ぶようになって以来そこは落ち着きを取り戻したらしい。 「この耳は毎年つけてる。元々家族用だからヨハンになら問題ないだろうし、兄もこっちのが喜ぶと言っていたから」 「リアム……! ありがとう、その通りだ。お義兄さんにはあとで個別にお礼を贈っておくよ……待ってくれ、毎年? 家族用?」 「だから、猫の装いをして年少者が歳上の家族に甘いものをプレゼントする日なんだろう?」 俺の説明の意味がわからなかったのか、真顔とも驚いた顔とも取れる表情のまま固まっている。声を発さないが、例えるなら「?、??」とでも言いたげだ。 「……なあ、もしかして、この風習はセルトー家にしか無いものなのか?」 俺が恐る恐る口を開くと、ヨハンは曖昧に首を傾げて爆弾を落としてきた。 「僕は上のお義兄さんと同級生だけれど、彼がそれをする姿は一度も見たことがないかな」 セルトー家の奇妙な風習は何もお見合いだけではないらしい。いや、そもそもこれは兄が弟相手に吐いた嘘を俺がこの歳になるまで馬鹿正直に信じ切っていた結果のようだ。 顔に熱が集まる。弾くように頭上に持ち上げた手は行動を予期していたかのような速さでヨハンに絡め取られてしまった。 「離せヨハン! これ取る! もう取るから!」 「待ってくれリアム! お願いだから! お願いだから今日一日それつけたままでいてくれないか!?」 おかしいと思ったのだ。ルーファスは何やら物言いたげな目で俺のことを見てくるし、その割に何も言わないし。ヨハンの子供の頃からの付き合いだという家令も何故だかてきぱきと「今晩は軽めのご夕食で済ませましょうか」「先に湯浴みを済ませてはいかがでしょう。旦那様は奥様を伴って早めにお休みになるかもしれませんので」とやたらこの場にいないヨハンの意を汲んだ態度だった。 「お願いだリアム、僕を喜ばせるためにしてくれたのだろう?」 頭につけた飾りを取ろうとする腕を押さえ込んで抱き締めたヨハンが耳元で囁く。 「い、意地悪だ」 そんな肯定しかできないことを言われて、否定できるわけがない。俺が暴れるのをやめたのがわかると、ヨハンはもう一度俺を抱き締めて今度は抱きかかえた。床についていた足が浮く。 「髪、いい匂いがするね。もうシャワーは済ませたのかな?」 「準備してある……その、色々と」 気を利かせた家令の読み通りだ。ヨハンは外から帰ったばかりで夕飯も沐浴もまだだけれど、気が逸ってそれどころではないのだろう。落ち着いたと思ったのに、何かの拍子でスイッチが入るとこういうところは相変わらずだ。 寝室へと続く扉を潜りながら、ここに来るまで抱えていた箱の存在を思い出す。 「お菓子、一晩放っておくと傷むかもしれない」 言ったあとでつまりそれは『一晩中する』という我ながら大胆な発言をしたと気づいたが、顔を赤くした俺に負けないくらいヨハンも目元を赤く染めていた。 「お願いだから、もうこれ以上我慢できなくなるくらい可愛いことを言わないでほしい」 「……しなくていいよ。夫婦だろ」 後ろ手に寝室の扉を閉めると同時にキスが降ってくる。こうして、俺たちの長い一晩が始まったのだった。 ちなみに箱の中身は会心の出来のミニケーキで、クリームでコーティングされたスポンジの間にはチョコムースが仕込んである大変凝ったものだ。散々甘いもの好きの長兄に味見をさせたから自信作だと伝えるとヨハンはショックを受けていたから、夫心は難しい。
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