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桜
「新入生の方はこちらにいらしてください。」
4月。
周囲は透明水彩を滲ませたような淡い色彩で彩られている。
葉がカサカサと揺れると同時に、ひんやりとした風がふわっと吹き抜けた。
それはまるで花嫁さんのベールのように繊細で、優しく俺の事を包み込む。
薄いピンク色の花びらはくるくると円を描き、足元に溜まっていく。
「桜の水たまりみたい…」
思わずそう呟くが、それは水とは違い、踏みつけると一枚一枚、コンクリートの地面に張り付いた。
「こちらにクラスと教室の場所が書いてあるので、確認してくださいね。」
少しづつ、一歩一歩それを踏みつけながら下駄箱の前まで行くと、先輩だろうか。深緑色のネクタイを首に巻いた人が、声をかけてくれた。
「ありがとうございます。」
少し頭を下げると嬉しそうに、目を細めて笑った。
「あ、あった」
下駄箱の前のドアに張られたクラス名簿を順に確認していくと、4組の欄に“佐久本晴”と書かれているのを見つける。
一応クラス全員の名前に目を通すが、予想通り見知った字面は無かった。
それもそうだ。
わざわざこの学校に来たのだから。
一通り確認し終わって、クラス名簿から視線を逸らし、ふと天を仰ぐ。
視界を覆ったのは真っ青な晴れ。
雲や障害物が何一つないその空間に、思わず後ずさりをする。
「あっ」
ずっと上ばかり見ていて、足元を見ていなかったのが悪かった。
後ろに下がった所がちょうど一段下がっているのに気が付かず、背中から倒れそうになる。
人間はなぜか転ぶときや落ちるときはスローモーションになるものだ。
入学式の日に転んで汚れた制服で参列するのはちょっと嫌だな…なんて呑気に考えながら次に来る衝撃に備えて目をつぶった瞬間、背中になにか、温かくて大きなものが添えられた。
「おい大丈夫か?」
「っ」
「よそ見すんなよー」
低いバリトンボイスに支えられ、何秒かフリーズするが、数秒か経ち、その人が手を添えて助けてくれたのだと分かった。
顔を見ようと視線を上げるが、逆光でうまく見えない。
「ありが…」
びゅうッと風が吹き抜ける。
今度はベールのようには優しくなかった。
一直線に吹き付けてくる風に思わず目を瞑り、再び光を取り戻す頃には、もうその人は居なくなっていた。
お礼、言えなかったな…。
「また会えればいいけど…」
春―出会いと別れの季節。
薄いピンクの花びらと、ベールのような優しい風。そして陽の光と共に向かってくる鋭い風。
これらは一体、俺に何を運んできてくれるのだろうか。
そんな曖昧な期待にほんの少し胸を躍らせながら、俺はガラス張りのゲートをくぐった。
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